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「…………なぜ、ウィリディスに助けを?」
ぽつりとアトラは呟いたが、多くの人が同じことを思っているだろう。なぜテネブレ公爵家の者が、第一王子の頭越しに王子妃に縋るのかと。
ウィリディスは少し動揺したようだったが、それもアトラにしか分からなかっただろう。彼女の表情の微妙な変化を読み取れるのは虐げられた日々の副産物だ。
「娘を巻き込まないでいただきたい! まだ誓いを立てていないし、王子妃ではない! 我がラクス伯爵家の娘だ!」
声を上げたのはデルウェン、アトラとウィリディスの父だ。アトラはデルウェンから庇ってもらったことなどない――むしろ厄介払いをされるようにしてテネブレ領へと行くことになった――のだが、彼にとっての愛娘に対しては違うらしい。泥船となった第一王子から愛娘を取り戻そうとしている。王族への敬意や体面や体裁などそっちのけだ。
(なりふり構わず、よくやるものだわ……)
ほとほと呆れて、むしろ感心さえして、アトラは思った。自分との扱いの差を見せつけられても今さら傷ついたりはしないが、他人事として見てもなかなかひどいと思う。
だが、アトラが考えているよりもデルウェンはなりふり構わずひどかった。
「そもそも、元は長女のアトラが第一王子の婚約者だったのだ! こんなふうに問題のある王子だと知っていたらウィリディスを嫁がせようなどとは思わなかった。まだ誓いは成っていないのだから、取り返しはつくはずだ! ウィリディスの代わりにアトラを嫁がせよう!」
「…………。………………は?」
自分でもぎょっとするくらい低い声が出てしまったが、これは仕方ないだろう。何を突然、身勝手きわまりないことを言い出すのか。第一王子の婚約者という立場をアトラから取り上げたのはウィリディスだが、後押しして話を整えたのはデルウェンたちラクス伯爵家の面々だ。婚約者の立場などアトラは元々ほしくなかった――慕っていた母と、お世話になった王妃が整えたものだから、それを尊重して王子の婚約者として身を慎んだり学んだりしていたが、それだけだ――、取り上げられてむしろせいせいしたのだが、それを今になって巻き戻すという。……冗談ではない。
「お父様! いえ、そんな! 私のことを思ってくださるのはすごく嬉しいのですが、王家に対してそれはあまりに……どうぞお許しくださいませ。父は私のことを心配してくださっているだけなのです」
「ウィリディス……! なんて健気な……! だが、心配はいらないぞ。お父様に任せておけ」
声を震わせてウィリディスが訴え、それにデルウェンが感激したような様子を見せる。
『…………茶番であるな』
イーラの声がもはや呆れてすらいない。平坦そのものだ。アトラもまったく同感だ。……前にも同じようなことがあった気がする。
ウィリディスは言葉でこそ拒絶しているようだが、心の中ではむしろ、もっと言ってくれと求めている。態度でそれが分かる。謝絶する様子は、むしろ誘いだ。ここではいそうですかなどと引き下がらない父だからこそ、あのようなことを言えるのだ。
あくまで王家への義理立てをしてみせるウィリディスと、娘可愛さのあまりの暴走ということで説明がついてしまうデルウェンの様子。くだらない三文芝居を見せられて、そのうえ舞台上に引っ張り上げられようとしている――一度は追い落とされたというのに――アトラの憤懣は、どこにぶつければいいのだろう。
ここでエゼルがしゃしゃり出て、ウィリディスは返さないなどと言えば事態はさらにこじれるのだろうが、魔獣の密売を糾弾されたエゼルはひたすら沈黙している。ともかくもこの場をやり過ごしたい、時間を稼げばどうにかならないだろうか、という思いが透けて見える。
だが、エゼルの代わりにモーリスが声を上げた。
「アトラ嬢は私のものだ。何の非もない彼女に対して婚約破棄を突き付けた王子になど渡す気はない。彼女を虐待してきた実家に返す気もない。私は彼女を愛しているし、婚約している。ここ二か月ほどはテネブレの邸宅に招いて滞在してもらっている。……そういうことだ」
無駄に通る声でモーリスは滔々と述べた。あたりがざわつく。アトラは真っ赤になった。
(そういうこと、って……含みがありすぎる! 何もない、何もないから! ……言えないけれど!)
未婚の娘が婚約者のところで過ごして、まるで既成事実があるかのように聞こえるではないか。別にモーリスは嘘をついたわけではなく、「そういうこと」というのは「既成事実がある」ではなく「既成事実があるように世間からは見えるだろう」ということだけだ。もうアトラが他の男性のところに嫁げる状況ではないというだけだ。
そしてアトラは今さら思い出した。式典を塗り替えて、いっそ私たちの婚約発表の場にしてしまおうかとモーリスが言っていたことを。半分冗談だと受け流したが、ここにきて本当にそうなってしまった。
真っ赤になって複雑な表情になるアトラを、モーリスは楽しそうに見つめた。




