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 こんなはずではなかったのに。婚礼の日、ウィリディスは王国でいちばん幸せな花嫁になるはずだったのに。揺るぎない権勢と愛情を手に入れて、姉など足元にも及ばないような盤石な立場を得るはずだったのに。

 それなのに、伯爵家の財政はどうしてか傾きかけて、王子の方は羽振りが良さそうだが援助してくれそうな気配はなく、金回りの良さがむしろ女遊びを誘発するというありさまだ。実家の没落の可能性に怯え、頼るべき夫になる相手の浮気に怯え、自分の不安定な立場がいつ崩れるかと恐れる、そんなはずではなかったのに。

 それこそ怒れる魔獣のように部屋をうろつくウィリディスの鬼気迫った様子に、侍女たちが息をひそめて気配を殺す。それに更に苛立ちを煽られる。式を目前に控えた幸福な花嫁像とはかけ離れた姿だ。磨き上げられた外見に豪奢なドレスといった見かけだけはそれらしいものの、険しい表情と内心の負の感情が滲み出た仕草とで台無しだ。侍女たちは手袋の替えを差し出す機を怯えながら窺い、花嫁の癇癪がこれ以上ひどくなりませんようにと願いながらはらはらしている。不手際があれば咎は侍女たちに及ぶのだ。

 そんな一触即発の不穏な空気に満ちた室内に、ノックの音が響いた。


「……モーリス様、……すごい人出なのですが……」

 式典の行われる王城に入って馬車を降り、アトラは思わずモーリスの後ろに隠れたくなった。まだ何も始まっていないというのに、すでに辺りはきらびやかな格好をした紳士淑女が行き交い、立ち話に花を咲かせたりしている。外国語が飛び交うのを聞くまでもなく、国内外から立場のある者が大勢招かれているのだ。

「……それに何だか、見られているような……私の顔に何か付いていたりしませんか……?」

 腰が引けたアトラの言葉にモーリスは軽く吹き出した。

 モーリスが目立つのは分かる。長身で野性味のある美貌の彼は礼装を難なく着こなし、場慣れした立ち居振る舞いで堂々としている。近くを通りかかった貴婦人が溜め息を漏らすほどだ。

 それに引き替え、自分は何だかドレスに着られているような気がするし、社交の場で経験を積めていないし、右手と右足が同時に出そうだ。そう不安を零すと、モーリスはさらに笑ってアトラの頬を軽く引っ張った。

「初々しいあなたの様子を見ているのも楽しいが、それなら今日から経験を積んでいけばいい。動きがぎくしゃくするのが心配なら私に掴まっていればいい。ドレスに関しては、よく似合っているぞ。周りの男どもが見惚れるくらいだ。見せびらかしたいとは思ったが、こうも目立つとなると隠して仕舞っておきたいような気もするな」

「似合っ……!?」

 アトラは狼狽えた。モーリスは言葉通りドレスを何着も用意してくれていて、今日はその中でも特にモーリスの装いと合わせやすそうなものを選んだ。モーリスは黒っぽい服装を選ぶことが多く、アトラのドレスもそれに合わせて落ち着いた色味のものだ。深い橙色が基調になっており、光沢の影が黒っぽく沈むような、秋にふさわしい装いだ。

「あなたの髪にも肌にも瞳にも。よく馴染んでいる。我ながら見立ては確かだな」

 少し頬にかかるアトラの黒髪を指でかきやりつつ、そんなことを言う。アトラは頬を赤くした。

「……ありがとう、ございます……」

「そんな顔をするとますます人目を惹くぞ。あなたの可愛い表情を見ていたいのはやまやまだが、少し無防備すぎるかな」

 頬を撫でながらそう言うモーリスの声が甘い。アトラは先ほどとは別の理由で狼狽えた。

(対外的には、モーリス様と私は名前のついた関係ではないのだけど……婚約者として扱ってくださってはいるけれど、公的に約束を取り交わしたわけでもないのに……)

 それなのに、公の婚約者同士でもそうはなかなかならないと思うくらい、慈しまれている。細やかに丁重に扱われている。

 アトラはテネブレ公爵領に来る前――来てからもしばらくは――出ていくことを考えていた。魔獣の心の声が分かることを強みに、調教師として生きていくことを考えていた。今でもその考えを可能性としては残しているからこそ、モーリスの厚意も好意も素直に受け取ることができる。破綻しても他の生き方ができる、その考えが心のどこかで支えになっている。

 イーラの存在も大きかった。自分ひとりで孤立無援に自分を守らなければならない状況だったらしんどかっただろうが、アトラには守り守られる対象がいた。数奇な縁で繋がった魔獣だが、今となっては手放しがたい大切な存在だ。

 ふと、アトラは思う。もしも自分の立場が不安定だったら。拠って立つべきものをもたず、ただ婚約者を恃んですべてを預け、破綻した後のことを考えられずにただ破綻しないようにとだけ独りで願う、それしかできないのなら……

 ……さぞかし苦しくて、さぞかし歪んでしまっただろう、と思う。

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