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最初は、せいせいしたと思った。姉という玩具に飽きてはいなかったが、目障りだったのも確かだ。いなくなってくれるならそれはそれでいい。しかも姉を連れて行ったのが、魔獣贔屓の変人と悪名高い「魔獣公爵」だというのだ。面白いことになったと思ったし、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたら思いきり笑ってやろうと思っていた。
しかし姉は帰ってこず、しかも公爵からはかなり気に入られている様子だと風の噂で伝わってくる。
面白くはないが、姉を気に入ったのが僻地の公爵だと思えば溜飲も下がる。テネブレ領は広大だし歴史的にも独特な立ち位置を持っているが、それでも現在はクラーウィス王国の一部だ。王国において、公爵よりも王子の方が高位だ。どうあっても、王子妃になるウィリディスの方が、姉よりも立場が高い。
そう思ってはみるものの、結婚の前から、早くも暗雲が垂れ込め始めた。
まずは、実家の財政状況が少しずつ傾いていった。姉と魔獣が出て行っただけで――魔獣を手放すのは惜しいと思ったが、あのまま飼い続けていては飼育状況の悪さが暴かれて批難される可能性がありそうだったので仕方ない――、他に何も変わっていないのに。姉はもちろん、魔獣にも大してお金をかけていなかったし、それらが財政状況に影響を与えることなんてないはずなのに。
確かに、連日のように夜会やらお茶会やらを開いたのはやりすぎだったかもしれない。でも、未来の王子妃ならばそのくらいは許されると思うのだ。交友を広めることだって王子妃の大事なつとめだし、美貌の王子の傍らに立って周りを見下すのは気分がよかった。自分の容姿は王子の横に立っても見劣りしないものだという自負はあるし、だからこそ王子も姉ではなくウィリディスを選んでくれたのだ。……黒髪や貧相な格好や窶れ具合に目を惑わされていなければ気づけるのだが、実はアトラはかなり容姿が整っている。仮にもウィリディスと半分は血が繋がっているのだから当然ではあるが。
だが王子は黒髪を嫌い、それ以上のことを見ようともしなかった。ウィリディスたちの父デルウェンも似たようなものだったから、王侯貴族の意識というのはこういうものなのだろう。
ともかくも王子はウィリディスを選び、アトラを遠ざけ、そのアトラは辺境の公爵に気に入られた。ウィリディスの社会的な勝ちは決まったようなものだ。
元が愛人の子だろうと、王家に輿入れするには家格が少し心許ない伯爵家だろうと、王室に入ってしまえばこちらのものだ。いちど立場を固めてしまえば、そして隙を見せなければ、おいそれと地位を追われることはない。無理にそんなことをしたら王室の威信に関わるからだ。
それなのに、その輿入れが少し怪しくなりはじめた。王族は少し事情が特殊なので、他の貴族たちのように支度金がどうだとか持参金がどうだとか、そうしたことが明確に決まっていない。王子が気に入った娘を輿入れさせるために金銭的な面倒をすべて見たという例もあるし、王が敗戦国の姫を召し上げて持参金という名の莫大な賠償金をふんだくった例もある。本当にさまざまなのだ。
エゼルとウィリディスの場合、どちらの立場が強いということがあまりない。もともとアトラとの婚約の話がウィリディスに移され、王家と伯爵家で様子を見ながらお金を出し合っていくのが自然な流れだった。王家の払いが少ないのは面目が潰れるし、かといって伯爵家の払いが少なくても王家に不快感を与えてしまう。そのあたりのことは周りの者が上手くやるだろうと思っていたのだが、どうもそこからして齟齬が出ていたらしい。
ラクス伯爵家はもっとお金を出すべきだ、しかし最近はあまり財政状況がよくなくて原因も分からない、ならば婚礼の前に早急に何とかせよ、いやそもそも王室がもっとお金を出すべきではないか……お金まわりの話で主張に食い違いが出ると、たちまちのうちにこじれていく。
王子側の言い分を繰り返す財務官にしびれを切らし、ウィリディスはこう言った。国庫金からの割り当ての分だけでなく、エゼル王子は個人的に羽振りがよさそうだ、少しくらい負担を増やしてくれてもいいのではないか、と。
財務官でありつつ王子の侍従でもあるその男性は、ウィリディスの言葉にぎくりとし、しかもそれを隠そうとする様子を見せた。ウィリディスはさらに追及しようとも思ったが、エゼルに嫌がられて嫌われては元も子もない。ある程度のところで引き下がるしかなかった。
そう、王子はウィリディスが見るに、羽振りがよさそうなのだ。領地経営が上手く行っているのか、何かの収入があるのか、それは分からないが。ともかくも夫になる人物の懐が温かいのはいいことのはずだが、王子はウィリディスの目を盗むようにして、他の貴族女性にちょっかいをかけたりしている節がある。ばれていないとエゼルは思っているだろうが、この手のことを男性が女性から隠すのは難しい。まして結婚直前なのだ、相手の動向には神経を尖らせている。
結婚前から浮気のようなことをされ、それなのに相手は第一王子だから追及もしにくい。いま婚約を破棄されたらウィリディスには汚名しか残らないのだから、多少のことには目をつむるしかない。捨てられて笑いものになった姉と同じようになるのだけは死んでも御免だ。
ウィリディスはさらに手袋をぎりぎりと噛んだ。




