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アトラがモーリスに連れられて実家の伯爵領を出た時点で、エゼル王子とウィリディスの婚礼は半年後だった。そこから二か月を移動に費やし、さらに二か月ほどをテネブレ公爵領で過ごしたので、婚礼までの残りの期間は二か月だ。準備などを考えると決して余裕があるわけではないが、こちらへ来たときの移動の二か月はあちこちに立ち寄った分を含めての期間なので、単に移動するだけならもっと短く済む。
「とはいえ、道中なにがあるか分からんからな。早めに移動しておくに越したことはない。留守中も魔獣や屋敷や領地のことは有能な家臣たちに任せておけるし、適宜連絡も取りあうからそちらは問題ない。問題はむしろ、式に出席する私たちのことだな」
馬型の魔獣が牽く馬車の中でモーリスは言った。向かいに座りながら、アトラは今更なことを心配する。
「私、そうした式に出るのが子供の時以来で……マナーも心許ないですし、着るものもなくて……」
言いながら途方に暮れるが、モーリスはまったく心配していないようだった。
「あなたなら振る舞いは大丈夫だ。別に私たちが主役というわけでもないのだから、周りに倣っておけばいい。困ったら私の後ろに下がってくれれば何とでもする。離れることもないだろうし、離す気もないしな」
「う……ありがとう、ございます……」
顔が熱い。モーリスが甘い。実家では自分を攻撃してくる人ばかりだったから、こんなふうに守ってくれる人がいることの有難みをいっそう強く感じる。こちらからも何かお返しをしたいし……おそらく、その機会はあるはずだと思う。イーラも王獣も好戦的に構えているし、新郎たる第一王子はモーリスの叔父と不正に通じているし、アトラが戻ったらウィリディスも何を仕掛けてくるか分からないし、何事もなく終わるとはとても思えない。
「それと、ドレスのことだが。そちらも心配はいらない。何着も用意させているから、その中から選べばいい」
「え!? 式典用のドレスをですか!?」
普段のアトラも色々とドレスを用意してもらっている――サリがあれこれと楽しげに整えてくれるので任せてしまっている――が、礼装は話が違う。それなりに重厚さを要求されるし、生地にも仕立てにも結構なお金がかかる。
中古のものを買って仕立て直しを依頼するくらいしか用意する方法はないと思っていたのだが、そう言うとモーリスは苦笑した。
「それでも間に合わせにはなるだろうが、せっかくの機会にそんな勿体ないことをする気はないな。あなたを飾り立てたいし、見せびらかしたい。式典の主役を奪ってやろう」
「…………あの、ほどほどに……」
私たちが主役というわけではないという言葉を、たったいま聞いたばかりなのだが。
「……モーリス様は、どこにいても主役になられそうですが……」
独特な雰囲気のある美貌に長身のモーリスは、どこにいても人目を惹かずにはいられないだろう。だが、その傍らに立つのがアトラで大丈夫なのだろうか。大丈夫なわけはないと思いつつ、代わりに誰かが立つことを考えるともやもやする。
モーリスは印象的な黄金の瞳でアトラと目を合わせた。
「あなたは自信を持てずにいるのだろうし、自覚もないのだろうが、あなたは美しいぞ。夜会の会場に無理やり出されていた時も、あなたの瞳も表情も気概を失っていなかった。顔立ちが美しいというのも見る者が見れば分かるだろうし、それ以上にあなたの気質が得難いものだ。誇り高いところが魔獣に似ている」
「魔獣に……」
その誉め言葉は、男性が女性を誉めるものとしては少しどうかと思われるようなものだろう。モーリスのような伊達男が言うものとも思えない。だが、「魔獣公爵」からのその誉め言葉は、最大級の賛辞だ。モーリスは意識してその言葉を使ったのだろうし、アトラもそれを正しく受け取った。
「光栄です。誉めていただいた通りのものになれるよう努めますね。モーリス様の隣に立てるように」
「アトラ……!」
揺れる車内だということも頓着せず、モーリスはアトラを抱きしめた。いきなり抱きしめられることには慣れても、その感覚にはいつまで経っても慣れない。その戸惑いがどう伝わっているのか、モーリスはさらに腕に力を込めた。
「式典を塗り替えて、いっそ私たちの婚約発表の場にしてしまおうか」
抱きしめられているせいで顔が見えないが、声が本気だ。アトラは恐々としながら思った。
(……何のために行くのか分からなくなりそう……)
そんな一幕もありつつ、魔獣に牽かれた馬車は順調に進む。モーリスの知己の領主館などに泊まることもあれば、宿に泊まることもあった。そうして宿に泊まっていたある日、宿の食堂でアトラは気がかりな噂を耳にした。
「……それで、新しく王子妃になられる方が伯爵家のご出身らしいのだけど。なんでも、その家が傾きかけているとか……」
「でもそのご令嬢は王室に入られるんだろう? 実家が多少財政的に厳しくても、ご本人にはあまり関係なさそうだし……実家の方も援助とかしてもらえるんじゃないか?」
隣のテーブルに座った人たちがそんな風に話しているのを聞き、アトラは眉を寄せた。
(ラクス伯爵家が、傾きかけている……?)




