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「……ところでモーリス様、もしかして私をお探しでしたか?」
アトラは尋ねた。モーリスと王獣の様子からなんとなく察してのことだ。モーリスは頷いた。
「昼にも通訳として働いてもらったばかりで申し訳ないのだが、できればまたお願いしたい。疲れているだろうが、落ち着ける部屋に軽食や飲み物を用意するから」
「もちろん大丈夫です」
アトラは即答で頷いた。確かに疲れてはいるが、動けないような疲れではない。こんなに気遣ってもらっているのだから役に立ちたいと思う。実家で扱き使われていた時と比べれば、体の疲労も心の疲労も比べ物にならないくらい軽い。
アトラはそこまで言葉にしなかったが、モーリスは察したらしい。痛ましそうな表情でもう一度アトラを抱きしめる。労わりの気持ちが伝わってくる抱擁に、それだけで全てが報われたような気持ちになってしまう。
「……これはもう、心配いらなさそうですね」
サリが小声で呟いた。振り返ると、ぐっと拳を握って応援される。髪も肌も磨き上げてきましたから大丈夫です、という声が伝わってくるようだ。
(そういう意味で呼ばれたのではないけれど!? 王獣様も一緒だけれど!?)
視線だけでサリに返し、アトラはモーリスに連れられて魔獣舎を後にした。
連れられて来たのは、ふだん主に使われている大きな建物から少し離れて、庭に挟まれるようにして立っている小屋だった。魔獣舎からもほど近く、大型の魔獣も出入りできるような作りになっている。そこにモーリスが信頼しているらしい傍付きの使用人がお茶の支度を整えてくれていた。
軽くお礼を言い、モーリスに促されるままにふかふかしたソファに座る。くつろぎながら通訳してくれればいいということだろう。使用人が部屋の外に控えているが、昼食会のように要人たちがずらりと顔を揃えていることもなく、今度はいくぶん気楽に通訳できそうだった。
アトラの他、部屋の中にはモーリスと王獣しかいない……と思ったら、なぜかイーラが入ってきた。
「あれ、イーラ?」
公爵邸に来てからは、伯爵邸にいた時のように何から何まで一人で世話をする必要がなくなったので――労力の大部分は地下牢の掃除だの、餌の手配や搬入だの、住環境や餌を確保するための雑事に割かれていたが、ここではそうした雑事をこなす必要がないので――イーラと毎日毎日ずっと顔を合わせている、といったことがない。イーラもここの環境が気に入ってあちこち出歩いたりしているようなのでなおさらだ。
『なんだか久しい気がするな。昨日ぶりだが』
「そうね。昨日会ったばかりなのに久しぶりな気がするわね」
イーラの言葉に同意する。ここにはモーリスもいるから、どんな心の声が伝わってきたか大まかにでも伝わるように言葉を添えておく。
イーラは毛足の長い絨毯の上で体を丸め、翼も畳んでのんびりとくつろいだ姿勢を取った。近くに王獣も足を畳んで座り、毛づくろいを始めている。ソファに並んで腰を下ろしたモーリスも足を組んでお茶を飲んでいるので、アトラも軽食として用意されていたサンドイッチに手を伸ばした。とりあえずいでから話を始めようということだろう。
「あ、美味しい……」
ふかふかした白いパンがスライスされて、パンに負けないくらい白いクリームがたっぷりと挟んである。テネブレというよりクラーウィス風だが、アトラのために用意されたのだろう。小さい頃はこうしたものも食べてはいたが、母が亡くなってからは遠ざかっていた。贅沢なものがアトラのために用意されることなどなく、ウィリディスから下げ渡されるお菓子などは美味しかったのだろうが砂を噛むようでもあった。
(……やめよう、思い出さないようにしよう)
無理やり頭から記憶を追い払い、目の前の美味に集中する。食べ終えてお茶を飲んで一息ついたところで、モーリスが切り出した。
「クラーウィス王国のことなのだが………アトラ、思い出させてすまない」
苦い表情になってしまったのを見られたらしい。アトラは表情を平静なものに戻そうと努力しつつ、おそるおそる聞いてみた。
「……もしかして、私の実家の話でしょうか?」
「それだけではないが、そうだな。クラーウィスの王侯貴族と魔獣にかかわる話だ」
なんとなくそんな気がしていた。嫌な予感がしていた。
(……仕方ないわ、いつまでも逃げているわけにはいかないのだし。ウィリディスとエゼル王子との結婚が近づいているけれど、きっとその祝いの席にはモーリス様も出席なさるのだろうし……私も行くことになるだろうし……)
アトラも一応まだ伯爵令嬢のままだ。王子妃になるウィリディスの姉という立場だ。テネブレの公爵邸に滞在中とはいえ、その繋がりが切れるわけではない。アトラが本気で式典への出席を嫌がればモーリスは叶えてくれるだろうが、そうした我儘を言いたくはない。
「本当は、さっさと結婚して私の妻としてあなたの立場を作りたいのだが……さすがに、第一王子の結婚に先んじるわけにもいくまい」
「!?」
予想の外から変化球が飛んできた。




