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いつものことだと諦めようとしたのに、廊下を歩いている伯爵夫人の美しい金髪が目に入ってしまう。手入れを欠かさない髪の下に、アトラが丁寧に集めた薔薇の花弁が無造作に敷かれていたのかと思うと腹が立つ。薔薇の香りが彼女の金髪をいっそう引き立てたことだろう。なんとも理不尽だ。
その隣を歩いていた妹がこちらに気づいた。夫人もつられたようにアトラの方を見たが、すぐに顔を逸らしてしまう。見たくもないものを見てしまったというように。間違っても家族に対する態度ではないが、今更だ。嫌がらせをされたり理不尽に怒られたりするよりもずっとましだ。
ウィリディスがこちらへ歩いてくる。通り過ぎてくれることを願って廊下の端へ避けようとするが、当然のように目的はアトラだった。立ち止まり、可愛らしい仕草で綺麗な包みを渡そうとしてくる。
「……これは?」
なんとなく想像はついているが、聞きたくもないが、きかないと話が進まない。迷惑だと思っていることも隠さないアトラの声音に、ウィリディスは頓着したふうもなく答えた。
「エゼル様からいただいたの。お花の砂糖漬けですって。私は苦手だからあげるわ。嬉しいでしょう?」
「…………」
嬉しくはない。誰が、いらないものを押し付けられて喜ぶというのか。それも自分の元婚約者が、乗り換えた相手に贈ったものなど。
嬉しいと思わなければならない理由はある。慢性的に栄養が足りていない自分には、わずかなりとも栄養が取れて熱量にもなる砂糖漬けは、押し頂くべきものだろう。甘味を口にする機会など、他にないのだから。
「ほらほら、言ったらどうなの? ありがとうございます、いただきます、って。いらないって言うのなら、捨てちゃおうかしら。地面に散らばったものをみじめったらしく集めたいの?」
その場面を誰かに見られて王子に話が伝わったり、まかり間違って王子自身が見てしまったりしたら、妹は話をでっちあげるのだろう。妹の幸福を妬んだ姉が、嫌がらせをしてきたのだと。そうしてアトラはまた、ひどい目に遭うのだ。
ウィリディスの綺麗に整えられた指先が包みのリボンを解く。中身をぶちまけようとしていることを悟り、アトラは慌てて遮った。
「……っ、いただきます!」
「ありがとうございます、は?」
「…………。……ありがとう、ございます……」
苦虫を噛み潰したような表情になっているのは自覚している。しかし今日のウィリディスは機嫌がいいらしく、それを咎めずに面白がって嘲笑した。
「最初からそう言っていればいいのよ。ほら」
「……っ!」
包みをアトラの胸にぐりっと押し付けるようにして渡される。硬い缶はちょっとした凶器だが、悪びれるふうもない。
いらないものを捨てて、ついでに気に入らない存在に嫌がらせをして、気が晴れたと言わんばかりにウィリディスは戻っていった。
アトラは押し付けられた包みを見る。見たくもないが、この場に捨てていくわけにもいかない。屋根裏に戻って包みを解いてみると、中身の缶は未開封だった。わざわざ開封して中に何かを仕込むような手の込んだ嫌がらせなどするはずがない。菓子を下げ渡すだけで嫌がらせとしては充分すぎることを、ウィリディスはよく分かっている。
ウィリディスのそれとは似ても似つかない荒れた指で、のろのろと菓子缶を開ける。花の意匠が品よく缶を彩っているが、それを美しいと思えるような心の余裕などない。むしろ美しければ美しいだけ気に入らない。八つ当たりだが、腹が立つ。
きらきらと輝く砂糖を纏った花弁を、貴族令嬢のそれとは思えないような指先で摘まみ上げる。これは菫の花弁だろうか、濃い紫色をしている。
こういった小洒落たものは貴族令嬢や貴婦人たちの間で喜ばれるが、味が良くて求められているわけではない。見てくれが美しいから、こういうものを摘まむことのできる自分が好きだから、そうした自尊心や虚栄心を満たすためのものだ。
断じて、空腹を満たすためのものではない。……アトラのように。
喉が、勝手にごくりと鳴る。ウィリディスは香料がきつくて嫌いだと言っていた匂いが、甘美なものに感じられる。直近で食事をしてから丸一日以上空いてしまっていることを、今更ながらに思い出す。何でもいいから腹に入れろと体がせっつく。
(……食べ物に罪はないのだもの)
自分にそう言い聞かせて、口に入れる。たちまち口の中に暴力的なまでの甘みが広がり、その刺激が次を次をと指を進めようとする。
「……っ」
美味しい。味などろくに分からないが、美味しいとしか言えない。命を細々と繋いでいくための糧の味だ。
(美味しいなんて、思いたくないのに……食べたくないのに……)
意志に反して、指と口は勝手に動いてしまう。嫌がらせとして下げ渡されたものを、ありがたく押しいただくように。
「……っ、く、……」
知らず、涙が零れていた。生きなければならない、食べなければならないのに、こんな思いをしてまで生きたり食べたりしなければならないのだろうか。
みじめさの味というものを、何度ともなく感じてきたそれを、アトラは涙とともに飲み込んだ。
そんな生活がいつまでも続くわけではないことを、アトラはもちろん分かっていたつもりだった。
ウィリディスはいずれエゼル王子に――アトラから奪った婚約者のもとに――嫁ぐし、そうなったらアトラの立場はどうなるか分からない。一応はまだ利用価値がある伯爵令嬢という立場も、妹が嫁いだ後もずっと保持していられるとは思えない。嫁ぎもしない娘がいつまでもこのままでいられるわけがない。万が一の時のために――侯爵家の方に相続問題が起きたらアトラを介して権利を主張するとか、どこぞの訳あり貴族や大商人の妾などとして売り飛ばすとか、そういった可能性を残すために――据え置きにされてきた身分も、誰かの気まぐれひとつで容易く消されてしまうだろう。
だが、こんな終わりが唐突に訪れることを、アトラはまったく予想できていなかった。
「……魔獣、ですか!?」
「そうだ。もう間もなく搬入されることになっている。第一王子妃を輩出する家として、魔獣の一匹くらいはいてもいいだろうと思ってな」
「…………!?」
珍しく機嫌よく、当主のデルウェンはアトラに得々と語った。母の生前からも決して親子仲は良くなかったが、今はもう親子どころか他人、それも敵か何かのように思われている節がある。普段はアトラに対して口を開けば怒号か嫌味なのだが、魔獣を手に入れることがよほど嬉しいらしく、口ひげがぴくぴくと動いている。
(どう考えても、無理でしょう……!?)
そう言いたくなったのを、アトラは寸でのところで飲み込んだ。デルウェンの機嫌を損ねていいことなど何もないし、そもそもアトラが何を言ったところで事態は変わらないだろう。
魔獣を飼うということは、このクラーウィス王国においてかなり高いステータスだ。王国の最南部、もとは独立した国であったテネブレ公爵領、人に馴れる魔獣はそこでしか産出されない。魔獣を購入するための代金が高額になるだけでなく、魔獣の健康を維持するために広い運動場を備えたり、新鮮な餌を絶えず用意したり、専門の調教師を雇ったり、購入後も莫大な費用が嵩み続けるのだ。そんなお金の使い方をできる貴族は王国全土を見渡してもごく少数だ。そしてラクス伯爵家は、当然その少数の中には入っていない。
(そんなお金があるはずもないし、第一王子妃を輩出するといっても輿入れ前だし、その箔をうまく使ってお金を増やせるような器量がこの家の人にあるとも思えないし……)
客観的に考えて無理だ。嫌いな人たちだから辛辣に当たっているというわけではなく、現実的に考えて無理だと断言できる。
それなのに、魔獣は搬入される寸前だという。
「ふふ、お姉様も魔獣を見に来たの?」
可愛らしい声が聞こえて、アトラは表情を険しくしたまま振り返った。
「ウィリディス、まさかあなた……」
「なあに、怖い顔しちゃって。王子様におねだりしたら快く許可をくださったわ。私は王子妃になるんだもの、上位貴族として実家に魔獣の一匹や二匹くらいいるのは当然よね?」
「そうとも、可愛いウィリディス。だがまあ、とりあえずは一匹だな。一匹で様子を見てみよう」
デルウェンは愛娘に相好を崩しながら言う。
アトラは冷や汗を流しながら思った。
(ウィリディスの入れ知恵……いえ、浅知恵だわ。この人たち……絶対、ことの重大さを分かっていない……!)