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モーリスのことは好ましく思っているし、こうやって公爵邸に迎え入れてもらえたのは本当にありがたいと思っている。あれ以上伯爵邸にはいられなかったし、かといって行く当てもなかった。考えられるとしたら一か八かで母の実家を頼ってみるとか、働き口を探すとかなのだろうが、明るい展望もないし、イーラと一緒にいるのも難しかっただろう。
モーリスには何から何までお世話になっているし、婚約者としていつまでも滞在してくれていい、ずっとここにいてほしい、と言われているのだが……
(……言葉に甘えてばかりではいられないもの)
アトラはまだ、単なる客人でしかない。婚約者というのも口約束だ。もちろんその口約束を信じているし、未婚の娘が未婚の男性のところに住まわせてもらうという悪用しようと思えばいくらでもできる状況にあっても、滅多なことにはならないと思っていられる。ことあるごとに口説かれるが、それ以上のことはない。モーリスは二十六歳で、十八歳のアトラとは八つも離れている。そのぶん経験も余裕もあるのだろう。
アトラが望めば、このままここでのんびりと暮らしていくことができる。でも、それでは何も解決しない。ラクス伯爵家からイーラが受けた屈辱が晴らせないし、アトラの身分も屈託もあの家に縛り付けられたままだ。イーラのためにも、アトラ自身のためにも、ここで英気を養わせてもらいつつも状況を変える力を身につけなければ。
「あの、サリさん。お願いがあるのですが……」
「でしたらまず、さん付けをおやめください。丁寧な口調もです」
「……分かったわ、サリ。それで、お願いなのだけど。公爵邸にはたくさんの魔獣がいるし、きっと調教師もいるのでしょう? 学ばせてもらいたいの」
言葉や状況に甘えるにしても、甘え方というものがあるはずだ。ただ享受するのではなく、お返しができるようにならなくては。魔獣と心を通じるというアトラの能力は珍しいものだとモーリスも認めてくれたし、きっと使いようがあると思うのだ。
(それに、なにか進めていないと落ち着かないし……! イーラ以外の魔獣とあまり心を交わしたこともないから自分の力がどの程度のものなのかも確かめたいし!)
馬車を曳いてくれた魔獣はモーリスにべったりで、アトラに何かを伝えてくることなどなかった。相手にその気がなかったのか、そもそも伝えたり受け取ったりということが不可能だったのか、それさえ分からない。公爵邸に来てからも他の魔獣と接する機会がない。のんびり昼寝しているところを見かけたりはするのだが、邪魔はしたくないし、下手すると襲われたりしそうな気もする。本来魔獣は人に馴れない生き物なのだ。
なにかと忙しそうなモーリス本人に頼むのは気が引けるから、せめて調教師なら。モーリス一人で屋敷の魔獣すべてを管理しているわけもないだろうから、誰かしら専門の人はいるはずなのだ。手間を増やしてしまうのは申し訳ないが、代わりに掃除でも何でも、お返しにできることはあるかもしれない。
アトラの腕に丹念にクリームを擦り込んでいたサリは、思わずといったように手を止めて瞬きをした。
「アトラ様……いえ、お心がけは立派と思うのですが……そう来ます?」
「……変かしら。でも、私は魔獣の心の声が分かるから閣下のお目に留まったのだし……」
「それはきっかけに過ぎないと思いますけどね。もしかしてアトラ様、いつも人の役に立っていないと自分は存在価値がない、みたいに思っておられませんか?」
「…………!」
サリの言葉に、アトラはぎくりとした。……その通りすぎる。
それはもしかして、伯爵邸で虐げられつつ刷り込まれた価値観かもしれないし、現状の幸せの釣り合いを保とうと無意識に思ったせいかもしれない。我ながら難儀な心だとは思うが、今すぐに変えられるものではない。普通の伯爵令嬢として育った娘なら、招かれた場所でのんびりくつろぎながら鷹揚に過ごすことができるのだろうが。
身を竦めるようにしたアトラに、サリは少し苦笑して言った。
「悪いことをなさったわけではありませんし、咎めるつもりもないのですが……もしもお心当たりがあるなら、少し考え方を変えてみられるといいかと思いますよ。あえて言うなら、ご自身に悪いことをなさったと言えるかもしれませんし」
「……そうかも。ありがとう、ちょっと考えてみる」
確かに、自罰的な考えだ。傲慢でさえあるかもしれない。人の役に立っているかどうかなんて、しょせん自分の尺度でしか測れない。人だろうが魔獣だろうが何だろうが、神様に許されてこの世に生まれてきたのだから、生きていていいのだ。自分が独りよがりに許さなくても、神様は許してくださる。
母が生きていた時なら、アトラとてこんな考え方はしなかったと思う。母はアトラが生きることを喜んでくれたし、許す許さないなど問題にもならなかった。
「サリ、ありがとう」
「いーえ! どういたしまして! じゃあ、肌のお手入れが終わったら行きますか。調教師にお会いになりたいのですよね?」
「え……いいの?」
「お望みなら、もちろん。後ろ向きな考えからではなく、そうしたいのだと仰るなら否やはありません」
サリはそう言って明るく笑った。




