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 まるで賓客のように公爵の邸宅に迎え入れられたアトラは、立派すぎる部屋を割り当てられてさらに当惑することになった。前庭だけでも驚くほど広いのに、表玄関のある建物のファサードを回り込むと、さらに広い中庭といくつもの建物があったのだ。

 見慣れたラクス伯爵邸とはだいぶ様相が違う。伯爵邸は古城が元になっていたためか、こぢんまりと纏まった印象だった。防衛しやすいように規模をあまり広げず、建物も散在することなく纏まっていた。平面に広がるというより、高さのあるつくりだった。

 しかし公爵邸は正反対だ。南部の暑さに対応するためだろうか、開放的で風通しがいい。ところどころ、庭なのか建物内と呼ぶべきなのか分からないようなところもある。壁を作らず吹き放ちにしてあるのだ。

 アトラに用意された部屋もそうした場所だった。寝室などはもちろん普通の部屋だったが、応接間からそのまま屋根つきのテラスに出ることができ、遮られていない視界の先は芝生の庭だ。夏の雨を眺めながら薔薇や檸檬で香りづけされた炭酸水を飲むと、つくづく遠くへ来たものだと思った。

 薔薇には正直あまり思い出したくない記憶もあったのだが、自分のために整えられて用意されたものだと思うと、嫌な記憶も塗り替えていけそうな気がする。起こったことは変えられないが、意味づけは後からいくらでも変えられるのだし、もっと他に記憶していきたいことなど山ほどある。ウィリディスたちのことはいったん頭の片隅に追いやり、アトラは――なかば恐る恐るではあったが――テネブレ公爵領に歓迎されている状況をありがたく受け取ろうと決めていた。

(……とはいえ、何か落ち着かない……)

 いくつもの部屋を自分ひとりで使えるなんて、本当にいいのだろうかと思ってしまう。掃除だけでなく、籠に果物を用意したり、花を活けたり、呼び鈴ですぐに対応できる場所に控えたり、そうした一つ一つのことに手間暇がかけられていることを、使用人側として暮らしてきたアトラだからこそ身に染みて分かっている。

 そうしたもてなしを受ける側になっていることに慣れられる気がしないし、イーラの世話さえある程度手が離れている。

 イーラの部屋も、アトラに割り当てられたいくつもの部屋の中の一つだ。調度品もあるが人間用ではなく、紗が一点で吊られて垂らされた天蓋付きの寝台は巨大な鳥の巣のように円形だ。敷き詰められた布やクッションなどは人間が使っても心地よさそうに見える。他にもハンモックのようなものや、ちょっとしたアスレチックのようなものもあった。室内とは何かを再考したくなるような様子だ。

 もちろん庭に出ていくこともでき、イーラは気ままに遊びに出ては体を動かしているようだった。アトラが付いていく必要がないし、むしろ邪魔になりそうだ。モーリスは馬車で移動する二か月の間にイーラが放し飼いをしても問題ない魔獣だと見定めたらしく、ここに着いてからは自由にしていいと許しを出している。イーラの方も文句はないようで、問題を起こすこともなく過ごしている。イーラが何かをしでかすことがあったらアトラも連帯責任になるだろうが、アトラはもうイーラを信頼していた。家族とも呼びたくない家族たちより、イーラの方がよっぽど家族だ。

 そんなふうにして日々を過ごし、公爵として忙しく動いているモーリスともそれなりの頻度で食事を共にし、何不自由ない生活を送らせてもらっている――のだが。

(やっぱり、落ち着かない……! こんなに長く休んだり自由にしたりすることなんてなかったし……!)

 染みついた使用人生活の習慣が抜けない。長年溜まっていた心身の疲労や旅の疲れは癒えてきたし、伯爵邸では考えられないようなご馳走のおかげで栄養状態も改善されてきた。ぼろぼろだった髪や爪や肌も健康的になってきている。

 それは栄養を取れているおかげだけではない。

「あの、サリさん。そのくらいは自分で……」

「いーえ! これは私の仕事ですから! ご自身では届きにくいところもありますし、お任せください! それと、私にさん付けはいりませんよ? 何度も申し上げておりますが」

 そう言いながらアトラの手にせっせと軟膏を擦り込んでいるのは、アトラに付けられた侍女だ。サリという名前で、同年代だ。溌溂として気が利くので、アトラはひそかに感心している。見習いたいと思っているのだが、それを正直に言ったら軽い説教が始まりそうなので黙っている。

 軟膏だけではない。香油だの乳液だの、よく分からないけれどいい香りのするものだの、そうしたものを色々と使ってサリはアトラを磨き上げてくれている。おかげで肌がきれいになっていくのだが、健康のためを通り越して美容のためになってきている気がするので、アトラは言ってみた。

「もう充分、治りましたから……そのくらいで……」

「何を仰います! 治してからが本番です! 磨き上げて、閣下を驚かしてさしあげたいじゃないですか?」

「…………!」

 アトラは口をぱくぱくさせた。婚約者として招かれていることが周知されているのだが、サリたちはもう結婚まで既定事項だと見ているらしい。なんでも、公爵は本当に、今までこういった話がなかったのだとか。

「公爵閣下、ああ見えて一途だと思いますよ? 先代テネブレ公爵も奥様一筋の方でしたし。そういう家ばかりでないことは分かっていますけどね。クラーウィスの中央貴族たちって普通に愛人を作るのでしょう?」

 愛人を作るどころか、その愛人を横紙破りで後妻に据えたアトラの父のような者もいたりするわけだが。

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