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「……あの、閣下……」
「閣下ではなく、できれば名前で呼んでほしい。モーリスという」
「…………モーリス、様……」
名前を呼ぶことは求婚を受け入れることではないかと思ったが、真っ直ぐに、どこか縋るように求められてしまうと、そうしなければならない気がした。
身分や立場の差とか、戸惑いとか、常識とか、そうしたものの一切を抜きにして……アトラは心の奥底で悟っていた。自分はきっと彼の求めを……断れない。こちらからも求めて……望んでしまっている。
モーリスはそれを感じ取ったのだろうか、破顔した。さらに距離を詰め、視線を捉えて言う。
「レディ。あなたの名前も教えてくれないか。あなたの口から」
彼はアトラの名前を知ってはいるだろう。招待客として来ていたのだからラクス伯爵家の家族構成はおそらく知っていただろうし、会場でもアトラの名前を聞いたはずだ。あれだけ悪目立ちしてしまったのだから知られていないはずがない。
だから、儀式めいたこれは、名前をというより、心を交わす行為だ。結びつきを作るための、最初にして重要な一歩だ。アトラは囁くように声にした。
「アトラ……と、申します。……モーリス様」
「アトラ……!」
彼の口から呼ばれると、自分の名前がまるで違ったもののように聞こえてくる。思えば伯爵邸では、アトラの名前を呼ぶ人などいなかった。ウィリディスはわざとらしく「お姉様」などと呼ぶし、父に至っては「お前」としか呼ばない。継母からは言うに及ばずだ。
この名前は母が付けてくれたものだ。この身とともに、ほとんど唯一と言っていいアトラの持ち物だ。それが大切に愛しそうに扱われるのは、心を底から温めた。
公爵の……モーリスの指が顎にかかる。ほとんど力を込めずに、そっと固定するだけの優しさで。瞬時に察して小さく震えたアトラを脅かさないように、自分から顔を近づける。
その唇がアトラのそれを重なる――直前。
『我がいるのを忘れていないか?』
不機嫌な心の声とともに、ぐいっとイーラが二人の間に割り込んだ。
(完全に忘れてた……)
人目がない馬車の車内だとはいえ、とうぜんイーラの目はある。人の言葉を完全に解する魔獣の視線にさらされていたのだと気づくと恥ずかしい。見せられないことをしているとは思っていないのだが、それでも抵抗があるのは確かだ。
モーリスの方はまったくそんな葛藤を感じていないらしい。我に返ったアトラをただ残念そうに解放し、抵抗せず引き下がった。分厚い敷物の上のクッション――魔獣を一緒に運ぶためか、この馬車には座席がついていない――に腰を下ろし直し、アトラにも座るように勧める。
勧め通りに大人しく座り直し、無意識にイーラの極上の毛並みを撫でながらアトラは心を落ち着かせようとした。いろいろといっぱいいっぱいで、情報も感情も整理しきれない。そんなアトラの浮ついた内心を察しているのか、イーラが呆れたように尾で床をはたいた。
『恋を知り始めた小娘に言っても無駄だとは思うが……お主はもう少し落ち着いた方がよいぞ。まあ、あの家にいた時のように気持ちを張り詰めさせろとは言わぬが』
「恋!? そう言うイーラはどうなの!?』
『!? 今、我の話はしておらぬ!』
動揺のあまり心の声に普通の声で返答してしまい、確かに落ち着きが足りないかもと即座に反省する。同時に、少し頭に引っかかるものがあった。
(あれ……? もしかして……)
しかしその考えが形になる前に、モーリスの笑い声によって思考が中断された。
「仲が良いのだな。イーラよ、心配せずともアトラのことは大切にするぞ。今のはまあ、ちょっと急いてしまったが」
気負いなくモーリスは言うが、その言葉は重い。言葉を違えたらイーラはモーリスを八つ裂きにしかねない。それを分かった上での言葉だからだ。
(……どうしよう。嬉しい……)
すでにもう、充分すぎるくらい大切にされている。何も始まっていないはずなのに、そんなことを忘れてしまうくらいに。
「アトラ。あなたはまだ伯爵令嬢のままだ。あの家の者がどう動くか分からないが、ひとまず私の婚約者として来ていただけないだろうか。できれば、早いうちに結婚して身分を盤石なものにしたいのだが……」
「え!? えっと、ちょっと、急すぎるというか……」
アトラのためを思って言ってくれた言葉なのは分かる。嬉しいと思う。だが、客観的に見ればちょっと急ぎすぎではないだろうか。嫌だというわけではないが、モーリスにとってそれで大丈夫なのだろうか。
(いくら、つがいと言っても……)
魔獣になじんで生まれ育ったとはいえ、モーリスは人間だ。つがいというものが本能的に刷り込まれているわけでもなく、さまざまな人間関係のしがらみもある。何も知らないアトラが入り込むようなことになって大丈夫だろうか、と案じてしまう。
「そうだな、急ぎすぎた。では、当面の間は、婚約者ということで」
「……はい、よろしくお願いします……?」
なしくずしに丸め込まれてしまった気がするが……そう答える以外の選択肢は、アトラには残っていなかった。




