2
アトラの肌に薔薇の棘が傷を作る。庭仕事用の手袋を使えば簡単に防げる怪我だが、そうしたものを妹が用意してくれるわけもなく、父も継母も当然アトラの味方ではなく、むしろ嬉々として虐げてくる。庭師たちに借りようとしても碌なことにならない。アトラを憐れんで貸してくれようとする者もいるが、後で家族の誰かに罰されたり、仲間から爪弾きにされたりする。自分に親切にしてくれる者をそんな目に遭わせるのは忍びなく、我慢するほかなかった。アトラに好意的ではない者に頼もうものなら、仮にも主筋であるというのに露骨に見下し、ときに告げ口し、嘲笑してくる。そんな目に遭ってまで頼みたいとは思わない。敬えなどとは言わない、対等にしてほしいだけなのに、それさえ叶わない。
そうした嘲笑や悪意や、ときには直接的な暴力が、身を心を苛んでいく。母譲りの美貌もくすんで目立たず、整えられていない黒髪が顔を半ば隠すせいで陰気な印象が強まる。そんな姉と対比されるようにみんなから愛される金髪で明るい妹ウィリディス。アトラは彼女の添え物、引き立て役だ。
薔薇を抜いて花壇を整え、植えるものの選定や配置などは専門の庭師に任せる。アトラが箒を取って石畳の掃除を始めたあたりで、ウィリディスが婚約者の第一王子エゼルと談笑しながら歩いているのが見えた。
たとえ薔薇の花弁を集めることに時間を割いていなかったとしても、庭を整え終わるまでにはかなりの時間がかかる。お茶会までに終わるはずもなく、そのくらいはウィリディスも承知しているはずだ。
(目につかないように下がっていて、ね……。白々しい)
掃除を放り出せばそれを種に後であれこれと理不尽な扱いをされる。掃除をするしか道は無いし、下がろうにも終わるはずがない。本当にアトラのことを目にしたくないならわざわざこちらまで歩いてくる必要などない。庭は広いし、見るべきものなどいくらでもある。
これも、わざとなのだ。案の定ウィリディスはエゼルに耳打ちするような仕草を見せ、エゼルと二人そろってこちらを見た。ご丁寧にこちらを指さし、嘲笑する様子を見せる。
声は聞こえないが、何を言っているか想像するのは容易い。みっともない黒髪、みっともない格好、あれが王子の婚約者でなくなってよかった、といったところだろう。
「…………」
アトラは無言で耐えた。普通の貴族令嬢であれば泣き出して逃げ出すところだが、アトラには幸いにも――と言っていいのか分からないが――耐性がある。痛みと憤りを感じはするが、鈍い。そして何より、逃げ出す先など無い。
家族はアトラのことを死んだっていいくらいに思っている節があるが、積極的に死なせようとまではしていない。仮にもラクス伯爵家の娘で、南部の大貴族メリディ侯爵家の血も継いでいるのだ。利用価値はあると判断しているのだろう。
――現在のところ、その利用価値なるものが、使い勝手のいい使用人かつ鬱憤晴らしの対象でしかないのだが。
正式の使用人ではないから、待遇への考慮など無い。好きに虐げていいし、嫌なら出ていけばいいと言わんばかりだ。
だがアトラには逃げ場がない。家事掃除その他の技能は上達していっている自覚があるが、仮にも伯爵家の令嬢を下働きとして雇ってくれるところなど無い。面倒事の種でしかないし、待遇も賃金も下手な条件を提示しては伯爵家への無礼だと見做されるからだ。かといって好条件を提示するくらいならもっと安上がりで余計なしがらみのない労働力を雇うだろう。
母の実家であるメリディ侯爵家を頼ろうにも、今の当主は母とはあまり折り合いがよくなかったという一番上の兄だ。可愛い姪っ子として迎えてくれる図が見えない。
いっそのこと全てを投げ出して逃げ出して平民になりたいとも思うが、何の取柄もない自分が生きていける未来が見えない。野垂れ死にするのが落ちだ。
(それでもいいかと思うこともあるけれど……)
アトラはまだそこまで生を諦めてはいない。理不尽な扱いを受けながらも強かに、伯爵家の片隅で生き延びようとしている。
「……え? 薔薇の花弁を持って行った? ……全部?」
アトラの呆然とした呟きに、年かさの女性使用人は尊大に頷いた。
「あんな邪魔なところに広げておくから悪いんじゃないか。ちょうど奥様が癇癪を起して枕を駄目にしてしまったとかで、詰め物に使ったよ。むしろ光栄に思ってほしいもんだね」
「邪魔なはず……」
反論して抗議しようとしたが、使用人の意地悪な笑みを見て悟った。無駄だ。
無いものは仕方ない。アトラはいたずらに言葉を重ねることをせず、その場を後にした。「可愛げのない」などという言葉が背後に投げかけられるが、振り向かない。
妹が飽きて処分を命じた薔薇の花弁を、アトラは物置の使われていない一室に広げて陰干ししておいた。食料にするためだ。水出しのお茶と同じように使え、栄養が取れる。家族の食卓になど加えてもらえず、使用人からも気まぐれに意地悪をされるアトラにとって、食べられるものの確保は重要なのに。
(それなのに、枕……)
確かに、薔薇の花弁は枕の詰め物に使われることがある。いい香りに包まれて眠れるとかで、貴婦人に好まれる。だが、貴重な食料になるはずだったものを勝手に持っていかれ、よりによって枕に使われたという。
アトラの自室――と呼べるほどのものではないが――は屋根裏の一隅で、とても花弁を干しておける広さなど無い。なけなしの毛布と、寝具代わりに暖を取るくらいにしか使えない「お下がり」のドレス類、それらで埋まってしまうくらいに狭い。
妹はドレスを大量に持っていて、気に入ったものはもちろん手放さないし、気に入らないものも不要なら売ったり生地として取っておいたりしているようだが、いらないが処分できないものも中にはある。婚約者のエゼル王子からの贈り物などがそうだ。
好みではないドレスを贈られて困ったとき、処分先はいつもアトラだ。「感謝してよね」などと言いながら押し付けてくる。
受け取らなかったら癇癪を起こされて面倒だから受け取るものの、ろくに使い道などない。着たら嘲笑されるだけだし、そもそも元婚約者が妹に贈ったドレスを身に着けてもみじめになるだけだ。そもそもドレスなど日々の労働に適さない。
かと言って売り払える先があるわけでもなく、いたずらに溜まっていくそれらを寒い冬の夜にかき集めて暖を取るくらいしか使っていない。
どこかに売れないだろうかと部屋から持ち出したこともあるのだが、折悪しく妹に見咎められ、元婚約者を諦められない往生際の悪い姉によって盗まれたという話にされて妹からも王子からも容赦なく甚振られた経験があるので懲りた。
いらないものは押し付け、その他のすべてを奪っていく。アトラにとって伯爵家の人々は、家族云々ではなく、そうした厄介な存在だ。