15
アトラは警戒しつつ、声のする方を振り返った。声に聞き覚えがないし、見ず知らずの人が自分を庇ってくれるとも思えない。これもウィリディスの嫌がらせの一環かと思ったのだ。
だが、ウィリディスやエゼルも驚いている様子だ。エゼルは思わずといったように声に出した。
「魔獣公爵……」
え、とアトラは驚いてその人を見つめた。
魔獣公爵とは、テネブレ公爵のことだ。公爵領はかつて独立した国であったが王国に併呑され、しかし支配者一族は公爵家として命脈を保っている。王国で、というか世界で唯一、人に馴れる魔獣が産出される特異な地域だ。
魔獣を産するという唯一性ゆえか、公爵家よりも上に立つはずの王家も、テネブレ公爵家には一歩を譲っている。……とはいえ、エゼル王子はこうして失言することもあるのだが。
魔獣公爵というのはもちろん正式名称ではない。現当主が歴代当主の中でも特に魔獣贔屓だからそう呼ばれているだけのことだ。当然、本人への呼びかけに使うべき言葉ではない。
魔獣公爵と呼ばれた青年は皮肉げに口の端を上げた。
思わず目を瞠ってしまうほど、美しい青年だった。少し癖のある黒髪、対照的に白い肌。獣を思わせる黄金の瞳。均整の取れた長身に黒を基調とした礼服を纏っている。白を基調とした宮廷服を纏うエゼル王子とは好対照だ。
王国では一般的に金髪が好まれるものだが、その風潮など歯牙にもかけないくらい、公爵は美丈夫だった。どこか獣めいた、野性的な美しさだ。
「いかにも、私は魔獣公爵だ。だが、テネブレの名前にも誇りを持っている。公爵位を押し付けたのはそちらだというのに、名前の呼び方もご存知ないと見える」
(公爵位を押し付けた……?)
なんだか引っかかる言い方だ。アトラは少し首を傾げた。だが、エゼルは別のところに引っかかったらしい。
「……っ、無礼な! 呼び方など……いきなり乱入してきた公に非があるだろう!」
「さて。先に無礼をはたらいたのはどちらかな」
軽く受け流し、公爵はアトラに視線を向けた。
「え……っと、あの。ありがとうございます……?」
多分これは、庇ってもらったのだろう。確信なくお礼を述べるアトラに、公爵はエゼルに向けたものとは少し色合いの違う笑みを向けた。
「レディ。あなたが、この夜会の主役たる翼獅子を馴らした調教師か」
「え……? 違います。私は調教師では……」
「肩書など無意味なものだ。魔獣と意を通じ、馴らしたのなら本来的な意味での調教師と呼べるだろう。制度上の肩書がどうあれ関係ない……とはいえ、人間社会ではそうしたものも重要だな。なのに、伯爵令嬢の身分を剥奪するとかいう横紙破りを宣う輩がいる」
「え……あの……」
庇ってくれるのは嬉しいが、仮にも一国の王子を輩呼ばわりして大丈夫なのだろうか。ちょっと好戦的すぎるというか、この人もこの人で大丈夫なのだろうか。
「……公には黙っていていただこう。ことは王家に関わる問題だ。この者を王家と縁続きにするわけにはいかない」
「社交の場に出ないから? 奇矯な振る舞いをするから? そのように強いられているだけのように思えるがな。それに、仮にそれらが本当であっても、軽々しく他者の身分を取り上げたり与えたりするのは理不尽であろうよ。クラーウィス家に言っても無駄だろうが」
(…………これ、大丈夫なの……?)
身の程知らずというか、怖いもの知らずというか、傲岸不遜というか。テネブレ公爵家よりもクラーウィス王家の方が明らかに格上なはずなのに、公爵の物言いが不遜すぎる。
そう思ったのはアトラだけではないようで、エゼルはぎりっと奥歯を噛みしめて絞り出すように言った。
「……公がどう思おうと勝手だが、ここはクラーウィス王国で、私は第一王子だ。私の立場も立場も、相応に敬っていただこう。公がいくら言を弄しようと、この者とウィリディスとの縁は切らせる」
「エゼル様……!」
驚いて不安そうな様子を見せていたウィリディスが、感極まった様子でエゼルの腕に縋りつく。そんなにか弱い性格ではないどころか強かで図太いと知っているアトラから見れば白々しいことこの上ないが、外見だけはお姫様そのもののような可憐さだから、そうした仕草が嫌味なほど絵になる。
「王家の都合で、伯爵令嬢として育てられた者からその立場を取り上げるのは無体にもほどがあると思うが。しかし、そうだな……」
公爵はウィリディスとエゼルの背後に目を走らせた。父デルウェンと継母オーリアがいるあたりだ。今日の夜会にはもちろん二人とも主催者として参加しており、この茶番が始まってからはウィリディスとエゼルを立てるように一歩下がって、しかし人々に紛れないくらいの位置を取っていた。
その立ち位置や表情や、こうなっても声を上げないところから、公爵も察しただろう。アトラを伯爵家から追い出したいというのは、彼ら全員の総意なのだと。
庇ってもらったのは嬉しいが、もしも公爵がエゼルをやり込めてアトラの身分剥奪が阻止されたとしても、同じことは遠からず起きる。だから私のことはいい。そう言おうとしたときだった。
公爵が爆弾発言を落とした。
「ならば、私が貰い受けよう」