ベランダにスニーカー
放課後、彼は机五つ分離れた向かい側の景色を眺めていた。
黒板、時間割表、電波時計。彼の視界には入っても、どれも彼の原動力にはならなかった。足元に落ちているペンを拾う気になれない。
机の上にある一枚の紙には、問題文ばかりが並び、解答欄は全て空白のままだ。
彼は考えることを放棄した。
「わっびっくりした」
唐突に聞こえた声に、彼はまさに突っ伏そうとしていた顔を上げ、前方の入り口へと視線を向けた。
「ごめん! 本当はびっくりしてない」
クラスメイトの陽香だと彼が認識した時、彼女はそんなことを口にしていて、思案する表情を見せた。
「痛くないのについ、『痛』って言っちゃうことない? そんな感じ」
彼女は机の中から一枚の紙を取り出した。彼にひらひらとそれを揺らして見せる。
「宿題のプリント忘れちゃって、それで取りに戻ったの。橘君は?」
今度は彼が思案し、左側のドアを指差した。
「俺はあれ」
「ベランダ?」
彼女は小走りにやって来て、ドアを控えめに開けた。凛とした冷気が彼の背筋を伸ばした。
「スニーカー?」
「うん。今朝の雨で濡れたから乾かしてる」
「結構降ってたもんね。晴れてからずっと干してたんだ」
「いや、さっき出した」
彼女は無邪気に笑って、ドアを閉めた。
「どのくらい乾くかな」
その笑顔は包容力さえ感じるものだった。彼は空白の解答欄に視線を向け、口を開いた。
「帰りたくないって思ったから」
「うん?」
「雨水で重くなったスニーカーを持った時、帰らなくていい理由を見つけたと思った。別に家が嫌とかじゃなくて。最近楽しいって思う度に、馬鹿言って笑っている奴を見る度に、ずっとこの生活は続かないんだよなって考えるようになって」
ドアを閉めたから、だけではない。彼女が相槌を打つ度に、彼は肌にまとわりついている冷気が取れていく感覚がした。
「進路とか将来とかよく分かんないし。今日も何か考えてて、そしたらここに居座ってた。スニーカーが乾くまでは居させてよって」
それはとても重く彼の歩みの邪魔をする。彼は自嘲気味に笑った。
「私も靴持って来ていい?」
彼女は返事を待たずに走って教室を出て行った。隣の机に置かれた宿題のプリントが、彼女が必ず戻って来ると伝えていた。
「ありがとう」
彼は足元に落ちているペンを拾い上げた。
雨水と一緒にそれは少しだけ消えていた。