7「切っちゃえば早いのでは?」
ララは考えていた。
テーブルの上に置かれた未使用の小瓶。これは、マルシャンと等価交換した貴族御用達のヘアオイルだ。
あの後、何度も魔王にそれを使うよう勧めたが頑として魔王は首を縦には振らなかった。両手をあげて降参ポーズで、むしろララが使うようにと必死に押し付けた。
ララだって使いたい。使ってみたい。けれど、ヘアオイルを半ば強引に等価交換したのは魔王の髪のためであった。
突然のイメチェンによって失われた羨ましいほどのキューティクル。そこに秘められた、ララがいまだ信じて疑わない魔王の心境の変化。つまり、臆病な魔王がララを弟子と認めるための勇気。チリ毛へのイメチェン。
……もはやララにもよくわかっていないが、とにかくヘアオイルは魔王のために手に入れたものだった。
あのキューティクルを取り戻してほしい。
綺麗な黒髪の、しっとり魅せる艶やかさ。チリチリと汚い縦ロールより断然に似合う、黒髪ストレートに戻ってほしい。
そんな悲願ばかりが募るララに、小瓶の中身はたったの一滴すら減っていない。置き場所を移動した形跡がなければ、持って悩んだ気配すらなかった。
「はぁ……」
ララは悩み肩を落とす。
おざなりながらも気がつきさえすれば、ララのことについては不器用に世話を焼いてくれる魔王は自分のことにとんと無頓着だ。
普通にしていれば見目麗しくあるのに、あの性格も相まってなんというか。……どちらにしろ、こんな辺鄙な場所でさえなければ女の子は放っておかなかったんじゃないかとララは思う。
ララはもう一度短く嘆息して、小瓶から顔をあげた。
「あ、鋏……」
顔をあげた先、薬棚には魔王が使ってそのまま置きっぱなしにしたらしい鋏が置いてあった。なんの変哲もない普通の鋏だ。薬包紙を切るために使ったのか、鋏の横には紙も数枚重ねられていた。
「鋏……」
その鋏は、ララの目になぜか留まった。
「……」
鋏……と、ララは心の中で繰り返す。
「……」
…………。
「――いや、切っちゃえば早いのでは?」
そんなわけで、マルシャンからありったけの保存食を得たおかげで本当はもうしなくていい食料調達をいまだに続けている魔王は、薬屋に帰宅するなりララに鋏をちらつかされて椅子に座っている。
首には大判のタオルを巻かれた。結い紐は解かれ、いうことのきかないちりちりの髪には可能な限り櫛を通された。
目の前で「さて、どこから鋏を入れましょう」と考えているララに、魔王は小刻みに震えていた。
一体なぜこんなことになったのか。
突拍子もなく「髪を切りましょう」と言われ、その起因がヘアオイルだということはわかった。だから「ほっといてくれ」と抵抗するも、すでに用意された処刑台……もとい散髪場が用意されてあってはぐいぐいと圧で押され椅子に尻餅をつくしかなかった。
すかさずタオルを巻かれ、逃げられぬようにと結っていた髪を房で捕えられて。
「な、ななななぜこんなことをする……っ」
鋏をシャキシャキと噛み合わせるララにちっぽけな抵抗を続ける魔王は、涙目だった。
「だってマーマオ様、ヘアオイルを使って下さらないから……。切っちゃえば早いかなと思いまして」
「だ、だから、なぜ切るのだ!?」
「なぜですって……?」
シャキンッとララが鋏を閉じた。
「マーマオ様に以前の素晴らしい艶やかな髪を取り戻してほしいからです! こんなチリ毛……こんな汚いチリ毛は、マーマオ様には似合いません!!」
「き、きた、きたなっ……」
「汚いです!!!!」
ヒィ、と竦む魔王の背後に回ったララは「さぁ、チリ毛は切ってしまいましょうね!」と容赦なく鋏を入れた。チリ毛との境目は、肩のあたり。
ザクザクザク、と魔王の帰りを待つ間に砥石で丹念に研いでいた鋏で荒々しく切り落とす。
竦んでいる魔王の頭は、ふわりと軽さを感じた。
「切り揃えるので、そのまま動かないで下さいね」
そう言うとララは、今度はとても丁寧に魔王の髪を扱った。櫛で梳かし飛び出た毛先を細かく整え、全体の長さをしっかりと合わせるとちょうど肩上の長さになった。
固まり続ける魔王の前に回ると、バランスを見ながら前髪にも櫛を通す。
「こっちも切りましょう」
「ヒェッ!?」
ようやく解放されると思っていた魔王は情けなく声を上げた。けれど、そんなことはララにはお構いなしだ。
櫛を通して前髪のチリ毛部分や長さを確認する。そのため近づいてきたララに、魔王は隠しようなく動揺して顔が赤くなったり青くなったりと忙しい。
顔を引くどころか体ごと逃げ出しそうな魔王の顎を、ララが捕まえる。
「ヒッ……」
「マーマオ様、目を閉じていて下さい。目を閉じていれば大丈夫です」
ぎゅっと目をつぶる魔王。
ララが魔王の顎を離し、また前髪に櫛を通す。柔らかく丁寧に、櫛を通す。
目をつぶったことにより、魔王の向ける意識がそこに集中してしまった。優しく扱うララの手つきにくすぐったさを感じる。
見えない分だけ、魔王の鼓動は早くなった。
「動かないで下さいね」
眉の下に冷たい鋏が当てられる。
ビクッと小さく跳ねた魔王の反応は見透かされていたようで、「切りますよ」と声を掛けてからララは鋏を動かした。
シャキ、シャキ、と水平に瞼の上を滑り、切られた前髪がはらはらと落ちていく。小気味よく鋏が進むにつれて、魔王の鼓動は大きくなる。
閉ざしているはずの世界に、ララの存在感だけが色濃く主張してきたから。
息がかかりそうなほど近く錯覚するララの気配に、魔王はもう限界だった。
鋏が止まったところで薄ら目を開くと、ララの瞳が錯覚ではなく近くて魔王はのけぞった。
「ハァッ!!!!」
「あっマーマオ様、動いちゃ……」
――ジャキン。
ばさっと塊が落ちるのを見たが、魔王はそれどころじゃない。呼吸が途端に激しくなり、息苦しくなった。思うように息ができない。
驚くララはすぐに察して魔王の両手を握った。
そして瞼を伏せて大きく息を吐く。顔を上げると、魔王に優しく微笑んだ。
「マーマオ様、落ち着いて。ゆっくりと息を吸って吐いて下さい。ゆっくりです、ゆっくり」
ララは自らその通りに呼吸をして見せた。息苦しさにパニックになっている魔王が真似できるように。
落ち着いて呼吸に集中できるように、一定のリズムで繰り返した。
「私と同じように呼吸して下さい。大きくゆっくり吸って、ゆっくり深く吐き出して。大丈夫ですよ、マーマオ様」
穏やかな声が魔王を安堵させる。
見つめる瞳は聖母のように慈愛に満ちていて、魔王の手を握る小さな両手はじんわりとあたたかくて。
ララを拾った日にもこんな事があったなと、魔王は釘付けになってララを見つめ返した。
「落ち着いてきましたね。もう少しだけ、このまま安静にしましょうね」
そう言って魔王の手を握ったままのララは、いつもは見せることのない大人びた微笑みを浮かべる。
すべてを包み込んでくれそうな安心感に、魔王はうっとりと頷いた。
先ほどとは違う意味で魔王の鼓動は大きくなり、胸がきゅうっと締め付けられた。