5「脱げ」
「ででで、では、いいってくる」
「はい、お気をつけて!」
朝食を終えてすぐ、魔王は籠を持って薬屋を出た。笑顔で見送るララはこれまでのように止めようとすることはなく、魔王は魔王で逃げるために無理矢理こじつけた口実、薬草採取から解放されて。
その名分となったのが『食料調達』だった。
ララに好きにするよう言ってあった保存食はやはりもう残っておらず、それを誤魔化すために香草入りのスープで飢えを誤魔化していたらしい。
魔王はなかなか集まらない食料を毎日かき集めに奔走し、保存食を作るための準備も同時に進めた。
そうしたことで魔王が感じたのは、一日の短さだった。
朝食をララと食べてから食料探しに森へ出て、昼は薬屋へは戻らず夕方に帰路につき、夕食をまたララと食べる。そうしてララが深く寝入った頃に、魔王は薬を作り始める。数時間の睡眠を得て、また朝が始まる。
「こんなに時間に追われることがあっただろうか……」
ララとの生活は、これまで魔王がひとりで過ごしてきた時間とまったく違った。
「人間一人を養うことが、これほどに大変だとは」
金銭的な面ではない。
何もないところに一人分の生活基盤を、それも生活破綻している魔王が一から作らねばならないことが大変なのだ。想像もつかない不備がポロポロと出てきて、ではあとは何が足りないのかとどれだけ考えても、考えが及ばない。
なぜなら魔王は前世の記憶から魔王だったし、今世では人間と離れて暮らしていたからだ。
「ふぅ……」
魔王は行き着いた池で、揺れる水面をぼんやりと見つめた。
食料調達はその日分を集めるだけで精一杯、保存食に回すには正直足りない。薬草は山ほど採取して乾燥させてあるのでそちらは問題ないが、調薬できる時間が限られているせいで薬作りが進まない。
いっそ、ララに調薬を任せてみようか……。
いや、と魔王は首を振った。
まがりにも薬屋で薬師をしている身だ。素人のララに任せて薬に問題が起きては困る。
「はぁぁぁ〜……」
魔王は大きくため息をこぼした。
その嘆きを聞きつけて、二羽の小鳥が木の枝からふわふわと舞い降りる。魔王の頭の上にとまった。
「む、なんだお前たち」
二羽の小鳥は魔王の頭の上で、仲睦まじくくちばし同士を甘噛みさせている。それは鳥同士のコミュニケーションなわけだが、わざわざ魔王の頭の上ですることではない。
水面にうつる自身の姿を目にして、小鳥を乗せたまま魔王は首を傾げた。
「……なんだこの頭は」
魔王の頭、つまり髪型だ。先日の深夜の騒動から、魔王が意識して直すことをしなかったのでいまだにチリ毛のアフロが保たれている。
魔王は調薬を覗いていた犯人探しで肝を冷やしていたために、魔力の暴発による自身への被害を顧みることをしていなかったのだ。
おかしな髪型になっていることにようやく気づいた魔王は、その場で籠やら衣服を置いて池に飛び込んだ。
透き通る池に、裸の魔王が浮かんだ。
「冷たいな……」
魔王は空を見上げた。
いつの間にか夏は終わり、秋の澄んだ青空になっていた。木々に揺れる葉はわずかに色付きはじめ、夏の盛りの青々しさはもうない。
どうりで木の実が少なかったわけだと、魔王は冷たい水に目を閉じた。
「気軽な水浴びも、これで最後か……」
秋が訪れたということは、これまでのように気が向いた時に池や川に飛び込むことはできない。とはいえ生業上、不衛生は決して許されないので濡らしたタオルで体を拭うか、湯を沸かして湯浴みをしなければならない。
それがなかなかに手間なのでギリギリまで水浴びで済ませたい魔王なのだが、ふと嫌な考えがよぎった。
――ララはどうしていたのだろう、と。
魔王の目がカッと開く。心臓はドンドコドンドコ大きくなった。覚えのある感覚に、魔王は冷たい水の中で体を熱くした。
水浴びはしていたのだろうか。薬屋のまわりに水場はないが、飲料用の水瓶はある。
好きにしろと言っていたので勝手に料理はしていたが、水浴びまではどうだ? 体を拭っていたのだろうか? 不潔な匂いはしなかったはずだし、見た目だって整えられていたように思う。
しかし、気づいてしまった以上、それとこれとは話が違ってくるのだ。
魔王は勢いよく水から上がると、濡れた体に衣服を纏って薬屋へ駆けた。適当に背負った籠からなけなしの木の実が転がり落ちるが、そんなことは気にしてなどいられなかった。
ララを湯浴みさせたい。
その一心で魔王は薬屋に飛び込んだ。
「わぁっ、おかえりなさいマーマオ……様……」
勢いよく戻ってきた魔王に、ララは目を丸くした。ズカズカと大股で距離を詰めてくる魔王。
ララに映る姿は、濡れて中途半端に伸びたチリ毛がぼたぼたと魔王の顔に水を垂らす異常な様子だった。
いつになく鋭く真剣な眼差しに驚いたララは、魔王の言葉にさらに驚かされた。
「脱げ」
「へっ……?」
ふぅふぅと火吹竹を吹く魔王は、せっせと湯を沸かす。沸いた湯はもう使わなくなっていた洗濯用の木桶にどんどん溜めていく。
薬屋の裏、木伝いに大きな布を張り巡らせて目隠しをつければ、簡易浴場ができあがった。
熱さを調整できるよう水の入った桶も用意して、ララをその中に押し込んだ。
「お湯に浸かれるなんて、幸せです……」
洗濯用の木桶は大きくはないが、ララが膝を抱えれば浸かれるほどの余裕はある。
ほかほかと湯気の立つ心地よさの中でララは、ほぅ……と頬を上気させた。
「ゆ、湯が足りなければ、持ってくる」
自身の髪をタオルで拭きながら、魔王は目隠しの布に背を向けて立っていた。
聞けばララは、魔王が不在のうちや深夜に体を拭ったり髪を洗ったりはしていたらしい。けれどやはり水なり湯なりに浸かることはできず、今回の魔王の暴走はかなり喜ばれるものとなった。
しとやかな水音を立てて、ララは静かな調子で魔王に尋ねた。
「マーマオ様は、なぜ深い森の中で薬屋をしているんですか?」
「ぼ、僕には、それしかなかったからだ」
「優しいマーマオ様に、それしかないなんてことはありえません」
魔王は答えに困った。優しいと言われたことがはじめてで、胸の内が妙にくすぐったく感じる。
けれど、ララがなぜそんなことを急に尋ねてきたのか、意図が読めなかった。
少しの沈黙の後、ララは打って変わって今度は明るく水を跳ねさせた。
「やっぱり、ここまでしていただいてマーマオ様のお手伝いができないのは私が納得できません」
「お、お前は怪我人だ」
「マーマオ様、私にも調薬をさせてください!」
「し、素人には、任せられない」
前回はなぁなぁで逃げたララのお願いに、魔王はハッキリと返した。弟子がどうのと引き下がってくるかもしれない。駄々をこねて「教えろ」と騒ぐかもしれない。
そんな魔王の心配と不安をよそに、ララの態度はあっけらかんとしたものだった。
「マーマオ様、私は素人じゃないですよ?」




