消えないで
ここは、超能力者の集う学園。
超能力者というと、常人とは違う感覚や価値観を持っていると思われるかもしれない。しかし、超能力者も、元を正せばただの人間である。故に、迷うこともある。時には、普通の人間と同じように。時には、自らの持つ超能力のせいで。
そういった生徒たちのために、この学園にはカウンセリングルームが設置され、日々利用する生徒は増えている。
そして今日も、また一人、カウンセリングルームに、悩める生徒が訪れていた。
「先生、俺もうやっていけないよ……」
「元気を出して、半田くん」
「そう言われてもさあ!」
部屋の中にいたのは、カウンセリングを担当する教師と、半田と呼ばれた男子生徒。
「何で俺の超能力が、『体が半透明になる』なんて中途半端なやつなんだよおおおお!」
半田は突然、頭を抱えて叫んだ。正直言って下らない内容だと思われるだろうが、彼にとっては真剣な悩みらしかった。
「せめて『透明人間になれる』とかだったらいいですよ! でも何で半透明? 普通に見えるじゃないですか! 超ダサいじゃないですか!」
「まあまあ、もしかしたらその超能力にも良い使い道があるかもしれないじゃない」
「どうやって使うんですか、こんな能力!」
「それにね、どんな超能力を持っていたとしても、それだけでその人の価値が決まるわけじゃないわ。確かに、あなた自身は自分の超能力に納得がいっていないのかもしれないけれど、そんなことであなたの人間性が損なわれることはない。半田くんはもっと、自分に自信を持っていいと思うわ」
「ううっ、先生……、ありがとうございます……」
――それから十分後、半田のカウンセリングは終了した。
彼がカウンセリングルームから出ていった直後、部屋の中に一人の男が入ってきた。
「やっと終わりましたか」
男が入ってきたのは、部屋の入口とは反対方向にある扉からだった。このことから、カウンセリングルームの関係者であることが窺える。
「ええ、終わったわよ。良かったわね、あなたの出番がなくて」
「あんな下らない奴に、わざわざ俺の超能力を使うことなんて絶対ありませんよ……」
そう言ってため息を吐く男には、無視することのできないある特徴があった。
「そんなこと言わないであげなさいよ。あなたと同じ、この学園の生徒じゃない」
そう言われた男は、この学園の制服を着ていた。つまり、この男は学園の生徒であり、本来であればカウンセリングルームを利用する側の人間なのである。それが今、生徒のカウンセリングを担当する立場にある教師と、対等に話していた。
「あんな奴の相手もしなきゃいけないなんて、泉先生も大変ですね」
「そう? 私の仕事なんて、あなたのに比べれば楽な仕事よ? 相手の心を少し読んで、相手の望んでいる対応をして、相手の望んでいる言葉をかけてあげるだけだもの」
泉と呼ばれた女性教師は、この学園の卒業生であり、『相手の心の一部を読むことができる』超能力者である。その能力を買われて、今は学園にカウンセリングルーム担当の教師として雇われている。
「簡単に言いますね」
「清澄くんこそ、いつも汚れ仕事ばかりやってくれてありがとうね」
「そういう言い方やめてください」
そして男子生徒の名は清澄翔。この学園の生徒でありながら、学園の要望を受けてこのカウンセリングルームに協力している立場にある人物である。
「汚れ仕事なんて、そんな大層なものじゃないですから」
カウンセリングというのは、抱えている悩みを何でもすぐに解決できるわけではない。人が自分自身の悩みと向き合えるようになるまでは時間がかかるし、もし向き合えるようになったとしても、全ての悩みが解決、解消できるわけではないのが現実である。
本来であれば、それらの事情も考慮して進めていくのがカウンセリングというものだが、この学園においてはそうもいかない。超能力という、普通の人間にはない力を持つ生徒にとっては、精神の揺らぎというのは超能力の暴走など、かなりの危険をもたらすことになる可能性がある。よってこの学園のカウンセリングでは、通常のカウンセリングとは異なり、生徒の問題の早期解決が求められるのだ。
では、すぐに解決できない悩みは、どうすればいいのか?
学園側が出した答えは、単純かつ残酷である。
〈解決できない悩みならば、忘れさせてしまえばいい〉
清澄が持つのは、『人の記憶を消す』超能力である。その能力を持つがために、彼は生徒の身でありながら、「見聞きした内容は決して他言しない」という条件のもと、カウンセリングの最終手段として学園に協力を依頼されたのだ。
「そういえば、俺がこの前記憶を消した一年生は、その後どうですか?」
「ああ、木村さんね。彼女はあの時かなり錯乱状態にあったから、あなたがいてくれて助かったわ。あの後は落ち着きを取り戻して、今は超能力が暴走しないよう、学園が一時的に隔離して様子を見てる」
「そうですか……」
彼が今までに記憶の消去を行ってきた生徒の人数は、決して少なくはない。本人は、「こんな程度の仕事、大したことじゃない」と言ってはいるが、その本心はまだ誰にも分からない。『人の記憶を消す』という行為は、その人が今まで生きてきた時間を奪うということ。それは、どんな大義名分があったとしても、重大で、残酷なもののはずなのだ。
二人が部屋の中でしばらく話をしていると、ふいに入口の扉がノックされた。
「あら、もう次のカウンセリングの時間なのね。清澄くん、悪いけど話の続きはまた後でね」
「いいですよ。次も俺の出番が必要ないことを願ってます」
そう言って、清澄は奥の扉の向こうへと姿を消した。
「だといいんだけどね……」
それを、泉は悲しげな眼で見送った。
「次の子は、そういうわけにもいかないのよね……」
そう言いながら、泉はドアを開ける。ドアの前には、一人の女子生徒が立っていた。
「こんにちは、望月叶です! 今日もよろしくお願いします!」
望月と名乗ったその女子生徒は、悩みなどという言葉が無縁そうなほどに、明るい笑顔を浮かべていた。
◇ ◇ ◇
放課後、その日に行われる予定だった全てのカウンセリングが終了し、清澄は帰り支度をしていた。泉は教師としての仕事がまだ残っているため、清澄は先に帰るというのがこの部屋の日課になっていた。
清澄は、自分がカウンセリングルームの関係者だと他の生徒にばれないよう、裏口を通って部屋を後にした。
ほとんど人のいなくなった学園の廊下を歩いていると、一人の生徒とすれ違った。それは、今日カウンセリングルームを利用した生徒の一人、望月叶だった。彼女の今日のカウンセリングは、特に何事もなく終わったので、清澄が関与することは全く無かった。だからというわけでもないが、清澄は何も言わず彼女の横を通り抜けようとした。しかし。
「あ、あのっ」
望月が、突然声をかけてきた。
「……何?」
清澄は、感情を表に出さずにそれに応じた。
「あの……、どこかで会ったこと、ありませんか?」
そう尋ねる望月の表情は、カウンセリングの時とは比べ物にならないほど、どこか思い詰めたような表情をしていた。
「……いや、知らないな」
「そうですか……」
そう言って、望月は肩を落としながら去っていった。その姿を最後まで見送ることなく、清澄は歩き出した。
「会ったことなんて、ないさ……」
その呟きは、誰にも聞かれることなく、校舎の静寂の中に消えていった。
◇ ◇ ◇
「お願いだよ望月! 俺、どうしても叶えたい願い事があってさー」
ある日の休み時間、清澄が廊下を歩いていると、一人の女子生徒が男子生徒に絡まれていた。よく見ると、その女子生徒は望月だった。
「……誰から私の超能力について聞いたの?」
望月は、静かに、しかし確かな焦りを表情に浮かべながら問いかけた。
「あ? まあ、とある筋からちょっとな。まあ、そんなことはどうでもいいんだよ! この通りだからさ、頼むよ!」
「そんなこと言われても……」
気軽に頼み込んでいるような様子の男子生徒に対して、望月は明らかに追い詰められたような表情をしていた。
普通ならば、面倒ごとに巻き込まれたくないならこの状況を無視して通り過ぎることもできた。実際に、清澄は面倒ごとは嫌いな性格だった。しかし、彼にはこの状況を放っておけない理由があった。
清澄はそっと男子生徒の背後に忍び寄り、そっと彼の背中に触れた。そして――
「あ? ……あれ、俺、何してたんだっけ」
「え?」
突然様子がおかしくなった男子生徒に、望月は困惑している。
「あ、もう授業始まるじゃん! やべえ!」
男子生徒は、今まで望月に迫っていたのが嘘のように、足早に立ち去って行った。
清澄は、男子生徒に超能力を使った。つまり、記憶を消したのだ。消した記憶の内容は、〈望月叶に関する記憶の全て〉だ。
記憶を消された男子生徒は、きっと目の前にいる女子生徒が誰なのかも、自分が何故この場所にいて、何を目的にしていたかも忘れ、呆然としたことだろう。
そして、清澄は何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとした。しかし。
「あの!」
その背中を呼び止めたのは、望月だった。
「何?」
「さっき、あなたが助けてくれたんだよね?」
「さあ、何の事だか」
清澄は一応とぼけてみせたが、それは全くの無意味だったようで、清澄に助けられたことを確信した望月は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう! 今度お礼するね!」
そう言って、自分の教室に戻りかけて、途中、「あ、そうだ」と言いながら再び清澄の方へ振り向いた。
「私、二年の望月叶! あなたは?」
唐突な自己消化に少々面食らったが、清澄は渋々といった様子で答えた。
「……清澄翔。同じく二年」
その返事を聞いた望月は、満足気な表情で去っていった。
「またね、清澄くん!」
そう言って手を振る彼女の姿を、清澄は黙って見送った。
「またね、か……」
寂しげに呟いた後、一つ溜め息を吐いて、彼もまた自分の教室へと入っていった。
望月が入っていったのと、同じ教室に。
◇ ◇ ◇
「うう、恥ずかしい……。まさか清澄くんが同じクラスだったなんて……。しかも、それを全然知らなかったなんて……」
時刻は昼休み。先ほど清澄が教室に入ってきた瞬間、「え、噓でしょ?」などと素っ頓狂な声を上げていた望月が、学食で昼食を食べていた。そしてその正面には、清澄が座っていた。「さっきのお礼にお昼ご飯奢るから!」と、半ば無理やり学食へ連れ出されたのだ。
「まあ、気にするな」
学食で一番安価なメニューである、かけうどんを食べながら、清澄は慰めの言葉をかけた。
「気にするよ! 私そんなに物覚え悪い方じゃないはずなのになー……。ていうか、清澄くんも言ってくれればよかったのに」
「面倒くさいだろう」
「もー……」
不貞腐れつつも、望月はどこか楽しそうだった。彼女が笑顔で何かを話せば、清澄が無愛想に相槌を打つ。そんな平和で穏やかな時間は、あっという間に過ぎていった。
◇ ◇ ◇
「この前、カウンセリングに来た望月さんの心を読んだわ。清澄くん、あなた、またやってくれたわね」
放課後のカウンセリングルーム。いつものように、清澄と泉が話をしていた。しかし、泉の表情は、これまでにないほど真剣で、危機感を感じさせるものだった。
「確かに、教師の目が行き届かない場面において彼女を護衛することをお願いしたのは、私たち学園側よ。でも、必要以上に関わりすぎるのは危険だって、何度も言わなかったっけ?」
「好きで深く関わったわけじゃありませんよ。元はと言えばあいつが……」
「そんな言い訳が通用するとでも思っているの? 下手すれば、あなたのせいで彼女は死ぬことになるのよ」
「それは……」
「とにかく、またいつものように、お願いね」
「……了解です」
◇ ◇ ◇
「あ、清澄くん! 奇遇だね!」
カウンセリングルームを出て帰ろうとした矢先、望月に出会った。
二人は、並んで歩きながら色々な話をした。クラスであった出来事の話、近いうちにあるテストの話、今日食べたお昼ご飯の話。どれも他愛ない内容だった。それでも、望月は終始楽しそうで、笑顔を絶やさなかった。
「やっぱり、清澄くんといると楽しいな」
「……まだ会ってそんなに時間経ってないだろ」
「そうだっけ? ……でも、何でだろうな。よく分からないけど、すごく楽しいんだよね」
そう言った望月の頬は、ほんのり赤く染まっていた。
「良かったら、また一緒にご飯食べに行こうよ!」
「ああ……そうだな。望月が覚えていたらな」
「やったあ! 私、絶対覚えてるからね!」
上機嫌になった望月は、鼻歌交じりに一歩先を歩き始めた。
「……いや」
清澄は、そんな彼女の背後から、そっとその体に触れた。それと同時に、彼女は意識を失い、地面に倒れ伏した。
「ごめんな。それは、無理なんだよ」
彼は、望月に対して超能力を使用した。つまり、彼女の記憶を消したのだ。消去したのは、彼女の持つ、〈清澄翔に関する記憶の全て〉。
これが彼女のためなんだ。
彼女を守るためには、こうするしかないんだ。
必死に自分に言い聞かせた。もう何度目になるか分からないその行為への、罪悪感に押しつぶされてしまわないように。
◇ ◇ ◇
望月叶。彼女の超能力は、この学園の中でも危険な部類に入るものだった。
『自分の命と引き換えに、何でも一つ願いを叶える』
それが、彼女の超能力。
学園の調べによると、彼女の母親も、同じ超能力を持っていたことが判明している。その母親は、娘――つまり望月叶――に家庭内暴力を振るっていた父親を、超能力を使って殺した。そして、超能力を使った母親は、その代償として命を落とした。その後、両親を失った望月叶は、学園によって保護されることになった。
そうした生い立ちのせいか、望月は、自分から何かを望もうとしない、無欲な性格に育っていた。それは、彼女にとっては不幸なことかもしれないが、周囲の人間にとっては願ってもない幸運だった。
彼女が何かを『願う』ことは、学園にとっては脅威でしかなかった。母親の前例があって、すでに人の命を奪うほどの力を持つことは証明されている。もしもその願いを叶える力に上限が無かったとしたら、どれほどの被害を周囲に振りまくか予想がつかない。
だから学園は望月に、何一つ望ませることなく、何一つ願わせることなく、ただただ無欲に日常を遅らせることを画策した。定期的なカウンセリングを行うことによって、彼女の精神の安定化を図り、超能力が暴走しないようにした。
さらに学園は、『人の記憶を消す』超能力を持った清澄翔にある依頼を追加した。それは、望月の超能力を利用しようとする人間の記憶を消して、彼女の存在を隠すこと。そしてもう一つが、望月に何かを願おうとする兆候が見えた時、彼女の記憶を消すことだった。
もしも、それらが叶わず、望月叶の超能力が暴走しそうになった時、その時は。
――彼女は、危険因子として、学園によって、殺処分されることになる。
◇ ◇ ◇
清澄が望月の記憶を消した次の日の放課後、彼はカウンセリングルームの手伝いを終えて帰路につこうとしていた。
「清澄くん、昨日はお疲れ様」
帰ろうとする清澄に、泉が声をかける。
「別に、疲れるほどのことはしていませんよ」
「もう何回目になるのかしらね」
「……もう、数えるのも疲れましたよ」
清澄が望月の記憶を消すのは、昨日が初めてのことではなかった。彼女が何かを望みそうになる度に、記憶の消去は何度も行われている。
本来は、ここまで頻繁に記憶の消去が行われる予定では無かった。しかし、誰にも予測できなかった事態が、望月叶の中で発生していた。
「ねえ、失礼なのを承知で、一つ聞いてもいいかしら」
「何ですか」
「自分に好意を向けてくれる相手の記憶を消すのって、どんな気持ち?」
恋心。
それが、彼女に発生した最大のイレギュラー。彼女は、自らの記憶を消すために存在する清澄翔に、恋心を抱いてしまったのだ。
最初は、ただのクラスメイトとして。その次は、彼女の超能力を利用しようとする人間から助けてもらったことをきっかけにして。その次は、最も単純な一目惚れ。
どんな形であれ、何度記憶を消されても、望月は清澄のことを好きになっていた。これは、まだ誰にも原因の分かっていない、極めて異質な事態だった。
「……失礼します」
清澄は、泉の質問に答えることなく、部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
廊下に出ると、いつかと同じように、望月がそこにいた。そして、清澄の顔を見るなり、問いかけてきた。
「あの……、どこかで会ったこと、ありませんか?」
彼女は、清澄のことを忘れていた。先日助けてもらったことも、同じクラスであることも、一緒にご飯を食べる約束をしたことも、もう彼女の記憶には残っていない。
この、記憶を消した後のやり取りも、もう何回目になるだろうか。ここで何もかもを正直に話したら、彼女には、もっと幸せな日常が訪れるのではないか――。
そんなことを、もう何度考えたことだろう。
「いいや」
しかし清澄は、なるべく無感情に、そう答えた。
「そうですか……」
そして、望月は肩を落としながら去っていった。その背中が見えなくなるまで、清澄はその場に立ち尽くしていた。
窓から差し込む夕日と静寂によって彩られた廊下で、彼は一人呟いた。
「どんな気持ちかって? ……最悪だよ」
その言葉は、誰にも聞かれることはなかった。そして、誰にも聞かれるわけにはいかなかった。
「好きな人の記憶を、消さなきゃならないなんて」
誰にも予測できなかったイレギュラーは、一つだけではなかったのだから。
◇ ◇ ◇
それから数日後のカウンセリングルームで、再び望月のカウンセリングが行われた。
「聞いてください先生! 私、最近気になる人が出来たんです!」
「え、本当に? それは素敵ね!」
そう言いつつも、泉は内心で焦りを感じていた。恋愛というのは、常に葛藤や欲望が付きまとうもの。そんなものを望月に体験させるのは、彼女の超能力の暴走を引き起こしかねない危険なことだと判断しているからだ。
「それで、相手はどんな子?」
しかし泉は、この時点ではそこまで危機感を感じていなかった。理由は分からないが、どうせまた相手は清澄だ。今までうまくいっていたように、今回も早急に清澄に連絡し、うまく接触して記憶を消してもらえばいい。そう思っていた。
しかし、次に彼女から返ってきた言葉は、予想もつかないものだった。
「それが……分からないんです」
「え?」
「誰かは分からないけど、好きなんです。いつも私を助けてくれるんです。守ってくれるんです。でも、それが誰なのか、思い出せないんです」
「そう、なんだ……」
今までは、清澄に出会った後、彼に対して微かな好意を抱き始めるといったことの繰り返しだった。しかし、今回の彼女は、どうやらまだ清澄に出会っていない。それなのに――。
「でも、大好きだってことは、何故か覚えてるんです! いつか会ってみたいなーって、お話してみたいなーって思うんです。その気持ちが、止まらないんです」
そうやって、どこか幸せそうに話し続ける望月に対して、泉は、かつてない事態を目の前にして、恐怖を感じていた。
◇ ◇ ◇
それは、あまりに突然の宣告だった。
「清澄くん、今後あなたが望月叶に接触することを全面的に禁止します」
「……は?」
ある日、いつものようにカウンセリングルームを訪れた清澄は、泉から一方的に告げられた。
「日常生活はもちろんのこと、護衛としての接触も禁止。今後の護衛は他の生徒、もしくは手の空いている教員にお願いすることになるわ。というわけだからよろしく」
「ちょっと待ってください。いきなりどういうことですか」
「今までは、彼女があなたに多少の好意を抱こうが、あなた自身が処理できているから問題はないと判断していたのだけどね。でも、今の彼女とあなたを会わせるのは、危険なの」
「どうして」
「あなたの超能力の効果が、薄れてきているのよ」
事情を理解できていない清澄に対して、泉はゆっくりと言い含めるように、次の言葉を口にした。
「記憶を消しても、望月さんの中に残っているのよ。清澄くんのことを好きだっていう、感情が」
◇ ◇ ◇
休み時間、誰にも使われていないとある教室の中、一人立ち尽くす少女の姿があった。望月叶だった。彼女は物憂げに溜め息を吐きながら、自分の掌をじっと見つめていた。
「使ったら、死んじゃうんだよね……」
誰に答えを求めるわけでもなく、彼女は語り続ける。
「でもさ、やっぱり、私、会いたいよ。どうしても。あなただって、きっとそうだよね?」
そして次の瞬間、意を決したように、彼女は自分の手を強く握りしめた。その姿は、まるで何かを強く願うかのようだった。やがて、彼女の姿は、琥珀色の淡い光に包まれていった。
そして、彼女は呟く。
「ねえ……。清澄くん……」
もう、覚えているはずのない名前を。
◇ ◇ ◇
清澄の超能力は、人の記憶を消すことが出来る。しかし、記憶にまつわる感情までは、完全に消し去ることが出来ない。それが、望月のカウンセリングで判明したことだった。
何度記憶を消しても、望月が清澄に好意を抱き続けた理由、それは、彼女の中の清澄に対する感情が、消えずに残っていたからだった。
もしこれ以上、清澄が彼女に接触すれば、どんなことが起きるか分からない。もし彼女が清澄に対する明確な恋心を自覚してしまえば、それを叶えるために、無意識に超能力を使ってしまうかもしれない。そうなってしまえば、周囲へもたらす影響はもちろんのこと、何より、彼女自身の命が失われてしまう。
そういった経緯から、清澄は今後、望月に関わることを一切禁止された。
大好きな人に、会うことが出来なくなる。だが、清澄は、それでもいいと思っていた。
自分と一緒にいれば、彼女はまた、何度も記憶を消される日々の繰り返しだ。もし叶うならば、自分のことなんて全て忘れて、ただ、笑って生きていてくれたらいい――。
そう思っていた矢先だった。
「清澄くん、いる?」
教室に入ってきたのは、泉だった。走ってきたのだろうか、息を切らしている。普段なら。急なカウンセリングが入ったとしても、直接教室にまで来ることはない。
「どうしました?」
クラスメイトに聞かれないよう、二人で教室の外に出て、なるべく平静を装いつつ、尋ねた。
「落ち着いて、聞いてほしいのだけど……」
嫌な予感がしてならない。それ以上先は聞きたくない。心に暗雲が立ち込めていくような感覚がする。そんな清澄に、泉はできるだけ簡潔に告げた。
「望月さんが、倒れたわ。つい先ほどのことよ」
◇ ◇ ◇
「清澄くん……やっと、会えたね……」
カウンセリングルームの奥の扉を開けると、そこに彼女はいた。いつものような明るい姿はどこにもなく、今はただ、備え付けられた一台のベッドに、力なく横たわっていた。
「何で……、どうして、お前……」
清澄は、部屋に入った瞬間、全てを理解した。望月は、もう忘れているはずの、自分の名前を呼んだ。彼女は、超能力を使ったのだ。自分のことを、思い出すために。たった、それだけのことのために。
呆然とする彼に、望月は、嗚咽を漏らしながら答えた。
「だって、覚えてたんだもん、あなたの、こと……。誰なのかも、分からなかったけど……どうしてかも、分からなかったけど……大好きなんだってことは、ずっとずっと、覚えてたんだもん……」
清澄は、ベッドに歩み寄り、横たわる彼女の手をそっと握った。その手は、今にも消えてしまいそうなほど、冷たくなっていた。誰の目から見ても明らかだった。彼女の命は、消えかかっている。
「馬鹿だろ、お前。本当に……」
清澄も、また、涙を流した。彼女の命と引き換えに叶えていい願いなど、あるはずがないと、あっていいはずがないと、そう、思っていたのに。彼女は、自分との思い出を取り戻すためだけに、自らの命を犠牲にした。それは彼にとって、あまりにも残酷な現実だった。
「えへへ……。清澄くん、私のために、泣いてくれるんだ……嬉しいな」
清澄の泣き顔を見て、望月は笑った。いつものように。二人で過ごした時間を、思い出させるように。
「でも……、でもね、やっぱり、いやだよ……」
しかし、その笑顔も、長くは続かなかった。
「死にたくない……、死にたくないよ……! だって、やっと、思い出せた……。大好きな、人……。清澄、くん……」
抑えていた涙が、感情が、そして『願い』が、堰を切ったように、溢れ出す。
「もっと、お話、したかった……。二人で、ご飯、行きたかった……。もっと……、ずっと、一緒、に……――――」
それが、彼女の、望月叶の最後の言葉となった。
願いを叶える力を持った少女が、最後の瞬間に言葉にしたささやかな願いは、叶えられることはなかった。
一人残された清澄の頬を、涙が静かに流れていった。
もしも自分が彼女の記憶を消さなければ、こんなことにはならなかったのだろうか?
もしも、彼女が願う以上の幸せを、自分の手で与えられていたなら、彼女は今も隣にいてくれたのだろうか?
どんなに後悔しても、もう遅い。もう、何も変わらない。
今まで数多くの人の記憶を、大切なものを消してきた彼だからこそ、誰よりも分かっている。一度失ったものは、もう二度と戻らない。そして、皮肉なことに、彼は今、初めて思い知った。失うということの、悲しみに。それに耐えられるだけの心を、彼は持っていなかった。
だから、彼は、願ってしまう。
こんなにも、辛いなら。悲しいなら。苦しいなら。いっそのこと――。
全部忘レテシマエタライイ――――。
◇ ◇ ◇
望月が息を引き取って数分後、部屋に泉が入ってきた。彼女は、沈鬱な表情を浮かべながらも、あくまで冷淡に、清澄に語り掛けた。
「今回の件は、あなた一人のせいじゃない。彼女の強い想いを、誰も止めることなんてできなかった。だから、……?」
泉の立つ位置からは、清澄の後ろ姿しか見えない。しかし、心を読む力を持つ彼女だからこそ、その違和感に気付いた。それはまるで――。
「清澄くん?」
――まるで、何か大事なものを、捨て去ってしまったかのような。
「なあ、先生」
もう冷たくなって動かない望月の手を、そっと握りしめたまま、彼は泉に問いかける。
「この子は、誰だ?」
その一言で、泉は全てを悟ってしまった。
「清澄くん……あなた……」
望月叶を失った清澄翔が、何をしたのかを。
「どうして……、どうして俺は、泣いているんだ?」
何が起きたのか、何を忘れてしまったのか、もはや彼には、何も分からない。
残ったのは、もうどれだけ願っても取り戻すことのできないであろう、心の空白だけだった。