カタブツ王太子は愛妻家
悪阻の症状は個人差があります。
都合のいい悪阻なのはそのせいです。
(やはりコーエンはよい男だ)
王太子リヒャードはすっかり静かになった自身の執務室を見渡し、しみじみと思う。
つい先程まで、双子の弟王子コーエンに妹王女エーベル、それから六つ年の離れた弟王子バルドゥールがリヒャードの執務室に集い、久方ぶりにきょうだいの語らいをしていた。
もともとは偶然予定のあいたリヒャードと双子の弟妹とで、チェスをしないかというものだった。
しかしそこに末の王子が、初心で微笑ましい恋の相談に訪れ、そこで弟の話に耳を傾け、三者三様の助言をしたのである。
間もなく十八になる第三王子バルドゥールは、魑魅魍魎の跋扈する王宮内で育った王子であるにも関わらず、歳の割に純朴で擦れずに素直に育った。
国王と王妃もバルドゥールには甘かったが、それ以上にリヒャードやコーエン、エーベルが彼を可愛がった。そのためか、やや頼りなく甘えたところや考えの足りないところもあるが、心根が優しく、また頑固で芯の強いところもあり、その行く末についてリヒャードはさほど心配していない。
リヒャードが長年気掛かりであったのは、甘えん坊の第三王子バルドゥールではなく、軽薄な素振りを見せながら実のところとんでもない傑物である第二王子コーエンについて。
窓からは夕暮れ時の茜色が差し込み、リヒャードの黄金の髪を赤く染め上げる。
リヒャードは表に出したものの、一局も対峙することのなかったチェス盤を眺めた。
もしリヒャードがコーエンと一局交えていたら。
(あ奴の注意が最後まで保てば、私が勝つことはないだろう)
リヒャードとコーエン。二人の年の離れた弟であるバルドゥールの前で、コーエンはリヒャードを超人と称した。しかしリヒャードからすれば、超人はコーエンである。
一つ年下の弟、第二王子コーエン。
昔から何につけても比較され育ってきた。そして紙一重の差でコーエンが優れていた。
(いや。実際は紙一重などではない。コーエンが私に譲り、また奴の興味が続かなかっただけだ)
リヒャードは優れた資質を持つ王太子だ。
自身が優秀であることに疑いは持たない。だがコーエンがそのリヒャードを上回っていることもまた、疑いの余地はない。
努力のリヒャード。天才のコーエン。
教師陣が二人をしてそう呼んでいることは、リヒャードもコーエンも知っていた。
へらへらと笑いながら自分を慕うコーエンを弟として愛しく大事に思う一方、厭わしく憎たらしく思う己の狭量さ、心の醜さにリヒャードは苦しんだ。
リヒャードは自分よりよっぽど、コーエンの方が王太子として、後の国王として適しているとコーエンの才を妬んだ。
単純に学業であったり権謀術数に優れているというだけではない。
人心の機微に疎く融通の利かないリヒャード。
王太子であるリヒャードに集う者達の本音と目的を掴みきれず、右往左往しては独断し、非情で冷酷な王子と恐れられる。
一方でコーエンはいとも容易く人心を掌握し、柔軟に人いきれを泳いでいく。
リヒャードは父国王の御宸襟が読めなかった。
なぜ自分が王太子なのか。
コーエンとは年もたった一つしか変わらない。リヒャードもコーエンも共に王妃の子。それならば、資質のより優れたコーエンが王太子となるべきではないのか。
リヒャードは椅子の背に深く凭れ掛かり、組んだ両手を腹の上に載せる。顎を天井に突き出し、ずるずると頭髪を椅子の背になすりつけては瞑目する。
過去を思い返すリヒャードの口の端が不敵にあがる。
(幼かったな……。適するか適さぬか。私がコーエンの兄であることもまた、資質の一つであるというのに。無論コーエンが立太子されたとて、奴ならうまくやっただろうが)
余計な争いを生じないためにも、長兄であるリヒャードの立太子が望ましいなど。
あの頃のリヒャードには納得がいかなかったのだ。リヒャードが自身の努力で得た能力ではなく、リヒャードが長兄であることこそに価値があるなど。単に生まれた順のみが優先されるなど。それならば自分は何のために高みを目指しているのか。
民のためだ、という答えは、そのときのリヒャードの頭からすっかり抜けていた。
己より優秀な弟を前に敵愾心を燃やし、弟より前へ、先へゆかんと。ただそればかりで。
リヒャードが王太子の座をかけて争うのは、自身の自尊心を満たすためのゲームに成り果てていることに気が付いたのは、当時の婚約者バチルダに指摘されてようやくのこと。
バチルダは言った。
リヒャードの得心のためだけにコーエンを王太子にさせるなと。
「それはリヒャードが満足したいだけじゃ。自身より優れた者こそが王太子であれなど。おぬしのその傲慢な思想こそが国を乱すというのに。王族とは、国が良く回り、民が良く暮らすための歯車に過ぎぬ。歯車が自己を主張するでない。国がリヒャードを王太子であれと望むなら、素直に受け入れよ」
婚約者の辛辣な言葉がリヒャードの胸を貫いた。
そのとき初めて、リヒャードはバチルダの顔を正面から見たように思う。バチルダは大層美しい皇女だったが、それまでの逢瀬は単なる義務であり、公務であり、リヒャードの心に何ら残ることはなかった。
「そうか……。私は奢っていたのだな」
リヒャードはバチルダの言葉を噛みしめ、頷いた。
「うむ。わらわにはそう見えた。しかしリヒャードのその生真面目なところ、融通の利かなさ、思い込みの激しさもまた、愛しく思うぞ。それは誠実で真摯であるがゆえ。リヒャードはよい男じゃ」
顔を真っ二つにしたかと思うほど、大きな口を開けて無邪気に笑うバチルダ。幼いながらも老成し威厳に満ちた口調のバチルダだが、その頬は少女らしく薔薇色に染まり、リヒャードに告げた言葉に内心照れていることが伺えた。
リヒャードは目の前の少女に生涯をかけて愛を育み捧げようと誓った。
それは婚約者としての義務、つまりいずれ国を治める王太子としての義務から起きた決意ではなかった。
◇
静かな執務室で時計の音だけが響く。リヒャードはそこに自身の呼吸音が混ざるのを聞く。ゆっくりと深く息を吸い、吐き出す。
(今日もまた、コーエンがおらねばバルドゥールの悩みを晴らすことは叶わなかっただろう)
婚約者であるバチルダ以外の女を抱きたくなどない、と潔癖に拒絶していた昔の自分。そこに今日のバルドゥールが重なって見えた。
弟である第三王子バルドゥールの正式な婚約者ではないが、弟には恋する少女がいる。
友好国ガルボーイ王国の第一王女。ツァレーヴナ・アンナ・ガルボーイ。
彼女は母国の反国王派の起こした内乱から逃れるため、ゲルプ王国に亡命してきた。
王弟グリューンドルフ公爵の元に身を寄せるアンナとは、公爵邸で出会ったという。
グリューンドルフ公爵が嫡男フルトブラントと、弟バルドゥールは学友であり幼馴染だ。
それまでバルドゥールとアンナとが公爵邸で出会う機会がなかったのは、彼女の存在が公爵によって隠されていたからであろう。
王太子であるリヒャード自身、父国王からアンナがガルボーイ王国の第一王女であり王位継承権を持つ少女であるなどと、正式に告げられているわけではない。
リヒャードは弟バルドゥールの恋する青少年ながらの潔癖さと不安、同時に貪欲な性への渇望といった煩悶が手に取るようにわかった。だから弟の力になりたいと思った。
しかし悩めるバルドゥールの憂慮を払ったのはコーエンだ。
己と重ねた悩みを抱えたバルドゥールを前にしても。それでもリヒャードはやはり繊細な心の動きには疎く、丁寧に慮って導くことはできない。
リヒャードの出来ることは、ただそこにある、ということ。
国民に臣下、弟や妹が己に向ける憧憬と畏敬に相応しく振る舞うということ。それが王太子たるリヒャードの歯車としての役割。
それでいい。
リヒャードは己の役割に納得しているし、出来もせぬコーエンの真似をしようとは思わない。
リヒャードはコーエンほど器用ではないが、コーエンほど繊細でもない。図太さなら自信がある。
それはリヒャードがバチルダと共に過ごすうちに、バチルダの存在に支えられ、時にはバチルダを支え励まし。そうして自信を培ってきたからこそ。
(ああ……。バチルダに会いたい)
気が付くと空はすっかり薄暗く、てっぺんから垂れ込めるような深く昏い紫紺色が茜色の地平線に降りている。一番星の白い点が西の空にぽつんと記され、その宵の明星は間もなく視界から消え失せるだろう。
リヒャードは窓の前に立ち、しばし逡巡する。
バチルダは今、酷い悪阻の最中にあるという。おそらくリヒャードの訪れはバチルダの負担になる。
加えてリヒャードがこれからバチルダと娘の住まう離宮に向かうとなると、リヒャードを護衛する騎士がリヒャードに付き従うという任につかなくてはならない。
リヒャードが王城に留まるのなら、護衛騎士は通常通り一人でいいし、超過勤務もない。
身重な妻の夫として。王太子として。
正しく振る舞うのならば、リヒャードは王城に留まるべきだ。
リヒャードは固く目を瞑ると身を翻した。
スタンドに掛けておいた上掛けをさっと羽織る。
襟元を金細工に大粒のサファイアを埋め込んだブローチで留め、白い絹の手袋を外して、リヒャードが乗馬用に愛用している炭黒色のヌバックのグローブを嵌める。
「蒼の離宮に向かう」
リヒャードは一言告げ、厩舎へと足早に進んだ。
◇
「おや。わらわが愛しの旦那様。ようやくの訪れじゃ」
蒼の離宮は長い廊下の片側をどこまでも続くかのように、大きな窓が延々と続く。その窓ガラスは薄い蒼の色ガラスを嵌め込んでいて、天井から床まで届く。
一面の窓ガラスから月光が差し込み、バチルダの白い頬を蒼く照らした。
「……会いたかった。バチルダ」
リヒャードの熱に浮かされたような切羽詰ったような声色に、バチルダはクスクスと笑う。
「わらわはてっきり、腹が膨らみ抱けぬ妻など用はないと、おぬしに見捨てられたかと嘆いておったというのに」
バチルダの腹はまだ薄い。
懐妊が知れたばかりで、体調も気分も安定しない。既に第一子の出産を経験しているバチルダだが、経産婦だからと悪阻が軽くなるわけでもない。
リヒャードはゆっくりと歩を進め、小さく華奢なバチルダの正面に立つ。
「……そのようなことが冗談でもあると思うか?」
リヒャードがバチルダの頬を撫ぜると、バチルダはリヒャードの手の上から自身の細い指でそっと包み込む。
「おぬしに冗談は言えぬな」
バチルダの蒼い目が月光を弾いてリヒャードを射抜く。
リヒャードはバチルダの腹に衝撃を与えぬよう気遣いながらも、情欲に塗れ、僅かに急いた手つきでバチルダの腰を引き寄せた。
ゆっくりとリヒャードに倒れ込むバチルダの顎を掴み、リヒャードは深く口づける。よろめくバチルダの腰をしっかりと支え、バチルダの口腔内を味わい尽くす。
バチルダが空気を求めてリヒャードの胸元を叩くと、リヒャードはようやくバチルダの唇を貪るのをやめた。
二人の間を繋ぐ銀糸が、月光によって艶めかしく光った。
「……はっ……」
バチルダの呼吸が整うのをリヒャードは待つ。大きく上下する胸を宥めるように、リヒャードはバチルダの背を摩る。
バチルダの呼吸が次第にゆっくりと間をとり、整っていく。リヒャードは愛しい妻を抱く手に力を込める。
「容赦がないな、おぬしは……」
恨めしげなバチルダの眼差しに、リヒャードは眉尻を下げる。
「すまぬ。君を前にすると、どうにも余裕が持てぬのだ」
連れ添って六年。
既に子を設け、新婚というわけでもない。だがリヒャードは未だにバチルダに焦がれ、リヒャードの内に住む愚かな獣がバチルダを求めて飢えている。
「……苦しかったか?」
気遣わしげにリヒャードがバチルダの白い頬をカサついた指先を滑らせ、幾度も往復する。
バチルダはほんのりと頬を染めながら、婉然とした微笑を口元に讃える。
「ふふ。おぬしに求められることに歓びを覚えるわらわとて、愚かな女に過ぎぬな」
リヒャードはバチルダの挑発的な言葉と艶姿に欲望がもたげるのを感じた。
「……あまり私を煽るでない。抱けぬ苦しみから酷くしてしまいそうだ」
「ふっ……はは! 抱けぬのに酷くするとは、これいかに!」
高らかに笑うバチルダをじっと見つめたあと、リヒャードの琥珀色の瞳に獣性が宿る。
「……こうするのだ」
性急な手つきでバチルダを掻き抱くと、リヒャードは細い頸にかかった亜麻色の髪を払う。そして露わになった艶めかしいうなじへと勢いのまま噛み付いた。
◇
胸元の空いた夜着を身に纏い、バチルダはしどけなく寝台に身を横たえていた。
バチルダのすぐ隣に横臥するリヒャードの目に、自身が散らした小さな赤い花が写りこむ。
つっと指先でその花をなぞると、バチルダが僅かに身をよじった。
「……これを娘は見つけるだろうか」
罪悪感の滲んだ声色。
上目遣いで懇願するようにバチルダを見上げるリヒャードに、バチルダは呆れたように嘆息する。
「何を今更。……しかしわらわとて、見せびらかす趣味はない。明日は襟元の詰まったドレスを用意させるとしよう」
バチルダの言葉に安堵し表情を緩めるリヒャード。バチルダはその様子を見て、チクリと刺す。
「懐妊中、締め付けられる装いは何かと苦しいのだぞ? 先の妊娠で、リヒャードも知っておろう」
「……悪かった……」
ガックリと項垂れるリヒャードにバチルダは苦笑した。
「そのように可愛い姿を見せられては仕方がない。惚れた弱みよの」
バチルダはリヒャードの艶のある濃い黄金色の髪をゆっくりと撫で梳く。リヒャードが目を瞑る。
「愛しいリヒャード。今日は何か、よいことがあったのだな?」
リヒャードはバチルダに撫でられながら、ぽつりぽつりと言葉にする。
「ああ。弟妹と語らった」
「そうか。それはよき時間を過ごしたな」
「うむ。……バルドゥールはガルボーイ王国第一王女の胸部に触れたらしい」
バチルダは可笑しそうに声をあげた。
「ははは! あのわっぱも遂にそのようなことに興味を示す頃合いか! 子供の成長は早いのう」
リヒャードと共にゲルプ王国末王子の成長を見守ってきたバチルダ。
バルドゥールはもう間もなく十八になる青年なのだが、バチルダの中では未だ恋も知らぬ稚い少年のままだ。
「そうだな。しかしあの子も間もなく成人する。それを鑑みるに、あの子は初心だ。閨の講義すら拒む」
「ふっふふ……。まるでかつてのリヒャードのようじゃの?」
相変わらずバチルダに頭を撫でられながら、リヒャードはムッと微かに拗ねたような声色を出す。
「……私は十三の頃だったぞ」
「ははは! しかしリヒャードは涙ながらに、わらわに問うてきたではないか。わらわ以外の女人を抱きたくないが、どうすればよいのかと」
リヒャードは恥じ入るかのように頬を赤らめるが、瞑っていた目を開けバチルダの蒼い瞳を見つめた。
「その思いは今も変わらぬ。バチルダ以外の女を抱くなど考えられぬ。……我儘が押し通るのならば、夜会も君とだけ踊っていたい」
「はは! それはわらわもじゃ! しかしさすがに叶わぬなぁ」
愛おしさを滲ませ、バチルダはリヒャードの髪を梳く。が、そこでバチルダは形のよい眉を顰め、手を止めた。
リヒャードから離れ、両手で口元を覆うバチルダ。
慌ててリヒャードは起き上がり、バチルダの背を撫でる。
「っ……! すまぬ! 無理をさせた!」
バチルダは口元を抑えたまま首を振る。
「厠へゆくか? それとも間に合わぬか? 私の胸へ吐け! 堪えるな!」
オロオロと狼狽えるリヒャード。
バチルダは生理的な涙を目に浮かべて、優しくも頼りない夫の肩に縋った。
リヒャードの肩口に引き結んだ口を強く押し当て、迫り上がってくる吐き気と止めどなく溢れ出てくる唾液をやり過ごす。リヒャードの肩がバチルダの唾液でぐっしょりと濡れた。
ぐっと篭った呻き声を零すバチルダに、リヒャードは何も出来ぬ無力さを胸中で嘆く。
愛する妻が我が子を腹に宿し、育んでくれているのに、男のリヒャードは何もできない。それどころか己の欲望のままに懐妊中の妻に無体を働いた。
情けない。
リヒャードはバチルダの苦しむ姿が痛ましく、また申し訳ない。
ゆっくりと優しくバチルダの背を撫ぜ、バチルダの苦しみが薄れることを願う。
バチルダはふぅーっと細く長い息を吐き出した。徐々に落ち着いた吐き気。
口腔内に溜まった唾液をゴクリと飲み込み、リヒャードにしがみついていた手を緩める。
リヒャードは未だバチルダの背を撫ぜてくれている。
眉尻を下げて泣きそうな顔をしているリヒャードに、バチルダは笑った。
「そのような顔をするでない。わらわは嬉しかったのだぞ?最近あまりにリヒャードがわらわに触れぬから。気を遣っていることはわかっていたが、もはや女として求められぬのかと」
「そんな筈がなかろう!」
ニヤリと笑うバチルダにリヒャードは思わず身を乗り出しそうになったが、踏みとどまってバチルダの背を一定の速度で撫ぜ続ける。
「ふふ。妊婦とて愛しい夫に触れたい時がある。しかし、悪阻とは自制の利かぬもの。突然苛立つこともあれば、わけもわからず嘆き悲しむこともある。何が吐き気を催すのかわからぬことも多い。先の懐妊時はあんなに好ましかったリヒャードの匂いに辟易としたものよ……」
第一子を妊娠した折のことを思い出し、バチルダが遠くを眺める。リヒャードもまた、愛する妻に「寄るな!」と激しく拒まれたことを思い出す。
「……バチルダには不自由を強いているな。すまぬ。だが感謝している。我が子をその身でもって育んでくれてありがとう」
外では決して見せぬ、バチルダだけが知るリヒャードの顔。厳しく冷酷非情だと恐れられる王太子の顔は、ここにはない。
バチルダは逞しいリヒャードの胸元に凭れ掛かる。
「リヒャードほどよい男は他におらぬな……。わらわは本に幸せな妃である」
バチルダはリヒャードの背に腕を回し、ギュッと力を込めた。リヒャードはバチルダの背を撫ぜていた手とは逆の手で、バチルダの後頭部を軽く引き寄せる。
「私がよい男となれたのはバチルダのお陰だ。君なくして私はここまで歩むことは出来なかった」
バチルダを締め付け過ぎぬよう気遣いながら、リヒャードはバチルダの額に口づけた。
バチルダの蒼い目とリヒャードの琥珀色の目がぶつかり、二人は微笑み合う。
「……愛している。バチルダ。君が私に愛も幸せも、全てを与えてくれた。これからも共に歩んでくれ。私にも君へと愛を捧げさせてくれ」
「無論だ。わらわの人生はリヒャードと共にある」
蒼と琥珀の瞳が閉じたとき、二人は静かに口づけを交わした。
◇
「して、コーエンはどうなった?」
明け方、微睡みの中でバチルダがリヒャードに問う。
リヒャードはバチルダがまだ夢の中にいる頃、湯浴みを済ませた。今は昨夜からのシャツに代わって、離宮に備えてあった自身の新しいシャツに袖を通しているところだ。
リヒャードはバチルダの横たえる寝台に腰掛け、腰を捻って振り返る。すると僅かに白檀が、ふうわり香った。懐妊中のバチルダが気分を害することのない香りであり、リヒャードを感じる香りでもある。
「君はコーエンがお気に入りだな」
眉尻を下げたリヒャードは、バチルダの額にかかった亜麻色の髪をそっと手で押し上げる。バチルダは気持ちよさそうに、うっとりと目を細めた。
「何。あ奴はわらわの最大の好敵手じゃからな。リヒャードの可愛い顔を引き出すことができるのは、わらわの他にコーエンしかおらんだろう」
バチルダの自慢げな口振りに、リヒャードは苦笑する。
「私の素顔など、バチルダしか知るまい」
「それは当然のこと。しかして昔からリヒャードの関心を引き続ける小憎たらしいやつよ」
ふん、と鼻を鳴らすバチルダ。
レースのカーテン越しに、窓の外は朝ぼらけの白む様子が見えた。
「それも間もなく終わるだろう。エーベルが嫁ぐ前に落ち着きそうだ」
「……そうか。それはよかった」
しみじみと頷くバチルダに、リヒャードも小さく頷く。
「ああ。可愛い弟だからな」
「うむ。わらわも不幸は望まぬよ」
バチルダはゆっくりと上半身を起こした。リヒャードはそんなバチルダの体を支える。
「気分はどうだ」
「うむ。非常によい。リヒャードと共寝できたからじゃな」
「……頻繁に通ってもよいのか?」
おそるおそる尋ねるリヒャードにバチルダは腕を組んで首を傾げる。それからリヒャードに向き直った。
「わからん。良いと思うときもあれば、嫌だと思うときもある」
「そうか」
歯に衣着せぬ妻の率直な返答に、リヒャードは頷いた。寂しくないわけではないが、悪阻中のバチルダに負担を強いたいわけではない。バチルダが単なる我儘女ではないと知っているからこそ。
「すまぬな。だがわらわの心は常にリヒャードの元にある」
「わかっている。バチルダが良く過ごせればよい」
リヒャードはシャツの釦を全て留め終えると、バチルダの手を取りその指先に口づけを落とした。
「王城へ戻らなくてはならない。娘の寝顔を覗いた後、ここを出る」
「うむ。またの訪れを待っておる」
「……そんなことを言われれば、今宵も足を運ぶぞ」
「来ればよい。追い返すやもしれんが」
「わかった。追い返される覚悟でまた来よう」
バチルダの言葉に頷いたあと、バチルダの夫としてではなく、王太子としての厳しい顔つきへと変えたリヒャード。バチルダは寝台の上に身を置きながらも、王太子妃として起こした上半身をぴんと伸ばす。
「いってらっしゃいませ」
「ああ。行ってくる」
リヒャードは上掛けを手に取り、バチルダに背を向けた。ぱたり、と閉まる扉。
バチルダは頭を垂れて王太子リヒャードの背を見送った。部屋には微かに白檀の香りが漂っていた。
了
【完結連載】「悪女を断罪した王太子が聖女を最愛とするまで(https://ncode.syosetu.com/n1380hf/)」の番外編抜粋の短編です。




