Say!Cheese!
高校生になって一か月が過ぎようとしていた。
目の前では河川敷を走る野球部員の姿がある。僕の背中の向こうにある学校自慢の広いグラウンドでは、僕と同じまたはほとんど同じ年齢の少年少女たちが汗を流してそれぞれの放課後を満喫しているのだろう。
思わずため息を吐いた。
彼らと比べ僕はいったい何をしているのだろうか。誰かと雑談するわけでもなく、ボールを追いかけたり爽やかな汗を誰かと流すわけでもない。ただ学校近くの土手で未練がましく空を眺めているだけだ。
「こんなはずじゃないんだけどな」
ぼそりと呟いて、土手に横になる。呑気に浮かんでいるちぎれたわたあめに似た雲が憎々しくて、思わず苦笑した。
小学校、中学校と過ごした時間が楽しくなかったわけではない。人並みに友達もいた。恋人もいたりした。いじめられていたわけでも、何かに飢えていたわけでもない。
それでも何かを変えたかった。だから僕は同中の生徒がいない、地元から距離のあるこの高校に進学したのだ。
でも入学して一か月近く経った今、依然として『何か』がわからない。何故『何か』を変えたいのかも、そもそも『何か』の正体さえ僕にはわかっていないのだ。
「こんなはずじゃ、なかったんだけど」
いつの間にか過去形になった口癖が妙に寒々しく僕の胸の中でこだまする。そんな僕が彼女と出会ったのは、一週間後のことだった。
いつの間にか指定席となった河川敷の例の場所に僕がのろのろとやってくると、そこの先客がいるのに気が付き歩を止めた。
彼女は伸びかけの緑の絨毯に横になって、ぴくりとも動かず何かと一心ににらめっこしている。彼女の視線をポカンと口を半開きにしたまま追うと、彼女のにらめっこしている相手と目が合う。
それは全身の毛を逆立てて僕とファインダー越しに自身の姿をとらえている彼女を、交互に見つめている。そう、彼女のにらめっこの相手は子猫に毛が生えたような大きさの三毛猫だ。
僕と彼女と僕らを警戒しまくっている猫一匹。なんだか微妙な空気に、僕はその場で固まって動けなくなってしまった。
柔らかな五月の風が三度彼女の肩の上で切りそろえられた風を揺らした。黄色の蝶が一匹僕の目の前を舞うように通り過ぎる。その時、彼女の指がシャッターボタンを押のが瞳の端っこに映った。
同時にカシャリとよく聞くようで実は久し振りの音が短く鳴った。猫はその音に驚いたのか一度短く鳴いて、飛び跳ねるように土手を走り去って行く。
残された彼女はすかさずデジカメの液晶画面をチェックして、満足いく出来だったのか笑みを作って小さく頷く。
「あの」
なんだか彼女に気づかれていないようで、僕はその場に立ち尽くしたまま話しかけてみる。「え? あっ待ってたよ」
僕の姿を捉えた瞬間驚いたような表情を浮かべたのから察するに、おそらく彼女は僕の存在に気づいていなかったのだろう。まあ、ここまでは想定内だ。
しかし彼女の言葉は少し、いやかなり僕の想像を超えていた。
「待ってたって、俺のこと知ってるんですか」
「うん。あなたは一年四組の波木佑輔くん、私は二組の河嶋圭。よろしくね」
へへっと照れくさそうに笑いながらも、河嶋さんとやらは僕を真っ直ぐ見る。その視線から若干目を逸らしながら、僕は口を開く。
「どうして俺の名前知ってるんだ」
「う〜ん、理由聞かれても……強いて言うなら興味があるから。かな」
「興味ねぇ。ここに来たのもそれが理由?」
以前としてうつ伏せに寝転がったまま、地面に肘をついていたまま、いたずらっぽく笑う彼女は少し得体が知れない。
探るように、彼女と距離をとって質問を続ける僕はなんとなくさっきの猫に似ている。
「偶然。正直びっくりしてる」
「いやだってさっき待ってたって」
「そんなこと言ったっけ」
「言っただろ、思い切り」
わざとらしく嘘ぶる態度の河嶋さんに、僕はもう疑いの念しか持っていない。だから急に下から腕を差し出された腕の対処に困ったのも必然だろう。
「何、これ」
「ちょっと助けてくれないかな。腕引っ張って上まで連れて行ってくれない」
「なんでさ」
「一人だと上まで行けないもんで」
すまなそうに笑う河嶋さんに眉をひそめた後、土手の上に顔を向ける。車や自転車などが走っている路肩に、ひっそりと銀色の車いすが止めてある。
はっとして横になっている河嶋さんの足に視線を移す。そこまでしてようやく彼女の足が一本足りないのことに気がついた。
「お願い、このままじゃ私餓死しちゃうから」
迷って迷って、冗談を飛ばす河嶋さんの腕をようやく僕は握った。
「いやぁ本当に助かった。ありがとう波木くん。部活の人にもここにくるって言ってないし波木くんが来なかったら一晩ここで過ごさなくちゃ行けなかったかも」
普通は他人に感謝されるとなんとなくくすぐったいとか、誇らしいとか、僅かに優越感を感じるのだが、今の状況はなんとなくバツが悪い気しかしない。
「なんでこんな無茶するんだよ」
「お恥ずかしながら、写したいって思ったものがあると我を忘れちゃうんだよね」
「それで校門で猫追っかけて来て土手に滑り込んだっての?」
「ま、まあそんなとこ」
どれだけアクティブなんだよ。と僕は呆れて河嶋さんを見る。
車いすに乗っていることを除けば、セーラー服を着たクラスの女子と別段何も変わらない少女だ。それがどこに体を泥だらけにしながら猫に迫る行動力があるのか、関心するどころか呆れてしまう。
「あ、さっき猫の写真見てみる?」
返事を返す間もなく、カメラの液晶を僕の眼前に突きつけた。
「ぶっさいくな猫だな」
僕は思わず噴き出した。
警戒心いっぱいの猫の顔は引きつっていて、よく写真に乗っているかわいい猫たちとは程遠い。大体、顔も相当へんてこだし野良猫らしく体も汚い。
多少ぶれているところから見るに、河嶋さんの技術もそんなに良くはないのだろう。
「そう? いいじゃない生きてるって感じで」
笑みを浮かべて言う河嶋さんは全く気に留めていないようだ。ついでにさらっとこう付け加える。
「あとさ、部室に戻んなきゃいけないんだけど、出来るだけ早く」
「……了解了解わかったよ。連れていきゃ良いんでしょ」
あっさり折れて河嶋さんの車いすのハンドルを握ったとき、僕らの交流は静かに始まったのだろう。
あの日以降、僕と河嶋さんはよく会うようになった。時々の休みの日には彼女の散歩に御同行させてもらったり、帰りを一緒に帰ったり。彼女が所属している写真部にも時々顔を覗かせるようにもなった。
彼女と一緒にいるとなんとなく僕が求めていた『何か』を変えられた自分になった気がして、この高校に来た意味を掴んだような気もして、僕は勝手に充実した気になっていたのだ。本当は何も変わっていやしないのに。
「河嶋さんはさ、何が撮りたいわけ」
学校近くの河川敷で、いつものように彼女の車いすを押しながら僕は彼女に尋ねた。
「いまさらどうしたの」
河嶋さんはこちらを振り向く、表情は出会って間もなかった時は短かった髪も今は二つに結っていて彼女の頭の両側で音もなく揺れている。
「だってさいっつも撮ってるもの違うじゃないか。猫撮ってたり、雲撮ってりさ。この前も人を撮ってるかと思ってたら次は道端の石ころ撮ってたじゃん」
「第六感で感じたものを写真に収めているのさ」
「かっこつけんなって」
茶化す河嶋さんにツッコミを入れると、肩をすくめて小さく下を出した。その姿は正直可愛い。
「半分本当だよ。ぼんやりと風景を眺めててさなんとなく感じたもの写してるだけ」
「感じるって何を?」
僕は興味をそそられて彼女の背中に質問する。ほんの僅かな間、沈黙して不意に僕の方に振り向いて一言口にする。
「あっ、こいつ頑張って息してるなって感じたもの」
僕は歩を止めた。
そしてじっと河嶋さんの瞳を見る。河嶋さんも僕の瞳を見ている。
彼女にもう一つだけ質問したいことがある。でものどの奥に引っ掛かって、中々言葉に言い表せられない。いや、言葉にしてしまうのが恐ろしいのだ。でも聞いてみたい。そんな感情のせめぎあいの中、尋ねたい事柄が声を持って口の中から転がり落ちてしまった。
「俺はどうだ。俺のことは写真に写したいと思う?」
背中を流れた冷たい汗が彼女の答えを予想していたのかもしれない。
「今の波木くんは撮りたくない」
「……そうか。まあそうだよな俺カッコ良くないし、しょうがないよな」
空笑いして頭を掻きながら僕は止まっていた足を動かし始める。
「しょうがなくないよ」
こちらを見ることなく言った彼女の言葉と、取水塔の向こうに見えた夕日だけが今でも記憶の片隅に残っている。
僕はその日以来、河嶋圭に会うことを避け始めた。
あれから二週間が過ぎようとしていたある放課後のこと、クラスに最後まで残っていた僕はじっと窓からグラウンドを見つめていた。
どんよりとした雲のせいで外はまだ四時だというのに薄暗く、グラウンドにいる生徒たちも以前より明らかに数が減っている。
ただグラウンドを見るのが久し振りだから人が少ないのが天気のせい。とは一概には言えないのだが。
学校に入学して二か月近く経った今、僕は入学した当初のような葛藤から逃れるためになるべく部活動に入っていない、またはあまり熱心ではないクラスメイトと一緒にいたり、自分に都合のいい連中と積極的に関わるようになっていた。
だから放課後のグラウンドは都合の悪いものに指定し、なるべく視線を落としていた。そして多分、河嶋さんから離れているのも同じような理由だ。
それが悪いとは思わない。むしろ少しだけ成長し大人になったとまで感じる。無駄に悩んだって仕方がなく、手際よく都合よく周囲との関係を作っていく。これなら自分も相手も苦しませる可能性だって低くなるに違いない。
河嶋さんだってそうだ。
きっと彼女は僕を拒否したくて、突き放したくてあの言葉を告げたのだろう。だったら僕はそれに応じればいいだけだ。彼女の為に、引いては僕の為に。
「ちくしょう」
言い聞かせていた途中、ポケットの中で細かく揺れるケータイがこの十分間で五回目の着信と一通のメールがあることを僕に知らせ続けている。
『今日あの川の近くで待ってます』
無機質な明朝体の文字を思い出し、僕はただ唇を噛みしめた。
学校から出る時にはすでに小雨だったが、家に着くころには本降りに近くなっていた。濡れた頭をタオルで拭きながら、テレビのスイッチを付ける。
結局今日も河嶋の元へ行くことはなく、今ここにいる。
天気も悪いしもういないだろう。と適当な理由を付けて、いつもの場所を遠回りして帰ってきた。
いつの間にかうまくなった自分への言い訳に気づかないふりをして。
両親は仕事でおらず一人きりの家。窓を叩く雨の音。僕の手の中にあるテレビのリモコンにかかる指は自然と天気予報を探し始め、しきりにボタンを押していた。
「今日は全国的に大雨の予想で、とくに関東地方ではこれから夜にかけて非常に激しい雨の降る恐れが……危険ですので川の傍には近寄らないようにしてください」
お馴染みのキャスターが読み上げる言葉を全てて聞き終わらないうちに、僕はもう雨のなかを飛び出していた。
――馬鹿な、いるはずがないだろう。
この短い期間に築き上げた僕の分身が走りだした僕に、さっそく意見し始める。
それを無視して一番最初の角を曲がる。手には親父のこうもり傘が握られているが、走るのに邪魔なので閉じたままだ。
――今更彼女の元へ行ってどうする? 謝るのか、では謝ってどうする。
胸がずきりと痛む。一か月ぶりの、懐かしい胸の奥の痛みだ。
全力疾走で橋を渡り切り九十度に曲がって土手を走る。川の水量はまだそんなに増えてはいない。
――川はまだまだ大丈夫だ。ほらもう帰れろう、彼女も帰ってる。お前はまた苦しみたいのか。答えもない『何か』に悩み続けるのか?
うるさい、黙れ。歯を食いしばり隙間から声を漏らす。打ちつける雨を無視して腕を大きく振ってただひたすら走っていた。
そしてその腕は唐突に止まり、僕は歩を止める。同時に頭の中の声も消え去った。
目の前を一人でゆっくり進む車いすの姿が見えたのだ。
ぐっしょりに濡れた髪の毛と、のろのろと進む彼女の背中。そして深く落としている肩を見て、僕は一瞬戸惑った。ほんの一瞬だけ、だが。
彼女の後ろに立った僕は、無言で傘を彼女の頭上で開く。雨は遮られ、傘の下の世界には河嶋さんと僕の右半分の体だけになった。
「ごめん」
小さく謝った僕に、ずぶぬれの河嶋さんは小さく微笑んだ。
公園の藤棚の下に僕と河嶋さんは二人座っている。いくら天然の屋根があるとはいえ、葉や幹の間をすり抜けてくる雫もあるので、傘は差したままだ。
「帰らなくて大丈夫? 親とか心配するんじゃないの」
「大丈夫その辺は抜かりないから」
久しぶりに交わす彼女との会話は電波の入らないラジオのようにぶつぶつと途切れる。
「……どうしても言っときたかったことがあって、待ってたんだけど来ないから波木くんの家に押しかけようとしてたとこだったの」
相変わらずの行動力に、僕はただ舌を巻いた。
「でもよかった来てくれて、ありがとう」
微笑んだ彼女の笑みが痛い。僕はお礼なんか言われる立場ではないのだ。そう思うと理不尽な怒りの波が僕を飲み込む。
「なんでお礼なんか言うんだよ。今まで連絡無視してたの俺だろ!? ずっと逃げてたのは俺なんだ。謝るんじゃねえよ」
波にのみ込まれて叫ぶ僕を河嶋さんはただじっと僕を見つめている。
「そうだよ、あんたの言うとおり俺は頑張って息をしてなんかいねえよ。逃げて逃げてここまで来た。あんたと仲良くなったのもただの自己満足さ、優越感に浸りたかっただけだよ。でもそれの何が悪いんだ!?」
傘の柄が手のひらに食い込むほど強く握りしめ、三分の二の真実に残りを嘘で固めた言葉を紡いで乱暴に投げ捨てた。
静寂が僕たちを包みこむ。
震える唇を舐める僕を尻目に、河嶋さんは地面にこぼれた一文字一文字を丁寧に拾い上げるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「私が波木くんの名前知って理由はね、波木くんがよくあの土手で横になってるのを見てたからだよ。それから廊下でも見かけるようになってさ、それで感じたんだ。ああこの人一生懸命生きてるなって、息をしようとしてるなって。だから会いたくなったの」
僕は黙って顔を上げる。彼女はまた小さく微笑んでいた。
「俺は『何か』を変えたくてここに来た。でもその答えが見つからなくて悩んでた。一人称を僕から俺に変えてみたり、しょうもないことばっかり考えてた。でも君と出会って、一緒にいる『僕』が僕の望んでいた『僕』になれた気がしてた。でも違うんだ」
自分でもわからない。今になってもわからない僕が『何か』で何を望んでいたのか、何もわからない。
「しょうもなくないし、しょがなくもない」
河嶋さんは強く言って傘の柄を握る僕の手にそっと手のひらを重ねてきた。冷えた体の中にほんのりと温かさが宿っていて、無性に泣きなたくなった。
「悩んで、苦しんでない人なんていないから。私と出会ってから、波木くんはずっとそのことから目を逸らしてた。遠くから見てた時は向き合って悩んでいたのに。だからね私後悔してたの」
視線を上げると、河嶋さんは初めて泣きそうな表情を浮かべた。
「私が波木くんに会っちゃったから向き合うこと止めたのかって。それなら離れようと何度も思ったの。でもね、一緒に帰ったり写真を撮りに行ったりするのがたまらなく楽しくて、それで私は――」
彼女の言葉を聞いて、瞳からこぼれる涙を見て、僕ははっと視線を上げた。
わかった。僕が求めていた『何か』を、僕はもう昔の僕が持っていなかったものを手に入れていたのだ。
入学して一か月前にそれはあって、気づいたのはほんの5秒前。黙ったまま今度は僕が彼女の手を握り締めた。
『何か』を言葉にしよう。そうすればきっとキミは泣き止むはず。
写真だって撮ってくれるようになるだろう。
僕も迷いながらも進んでいけるだろう。答えなんてない人生だけど、前を向いて歩いていけるはず。頑張って息をしながら生きていける。
雨の音が遠ざかる。彼女の濡れた瞳が僕を見上げた。
「『何か』の一つの答えが今、わかった」
軽く息を吸って、安っぽいだろうけど軽くはないそんな『何か』を紡いで、河嶋さんに受け渡した。
言った瞬間、耳の奥でシャッター音とともに彼女の明るい声が聞こえた気がした。
「Say!Cheese!」
『何か』の一部は誰かに必要とされたいそんな僕の願いだったんだ。
久しぶりの投稿です。かなり青臭いもの語りになってしまいました。