第236話 55日目②スリング
風呂小屋で清拭と着替えを終わらせ、汚れた洗濯物をすでに木灰を混ぜてアルカリ液にしてある風呂桶の残り湯に漬け込む。このまま朝食を食べ終えるぐらいまで漬け込んでおき、小川の水で濯げば汚れも綺麗に落ちる。
炊事場に戻れば、俺がやりかけていた雑煮作りを引き継いでくれた美岬がいつものようにお腹をぐうぐうと鳴らしながら鍋をかき混ぜていた。
「うぅ、お腹すいた」
「すまん。待たせたな」
声をかけると美岬がぐりんっと身体全体で振り返る。俺の接近に全く気付いていなかったようで恥ずかしそうに頬を染め、早口で言う。
「あ、おかえり。ちょうどできたとこだよ。早く食べよう?」
「そうだな。じゃあ器によそっておいてくれるか? その間に俺は薬味を刻んでおくから」
「おまかせられ」
今日の薬味は、ミツカドネギの小口切りだ。切り口が三角形になるミツカドネギは薬味としての味もいいが見映えもいい。
大きめの器に美岬がたっぷりよそってくれた雑煮に薬味のネギを散らし、テーブルに向かい合って座り、両手を合わせる。
「「いただきます」」
さっそく美岬が両手で持ち上げた器の縁に口を付けて汁をすする。
「……はわぁ。おいしぃ……。しあわせぇ……。ずっと美味しそうな匂いがしてたからこの一口が堪らないよぅ」
「ふふ、旨いだろー。一晩水で戻した煮干しと干しエビの出汁をベースにして塩麹の旨みも加わってるからな。具はたっぷりのモヤシとサヤインゲンとムカゴ、あとはみさちが仕上げてくれたハトムギ餅。これ一杯でビタミン、ミネラル、たんぱく質、炭水化物がたっぷり摂れる欲張り雑煮だぞ」
「おぉ、いいね。このお雑煮だけで栄養バランス的に完結してるってのが最高じゃん! 味も美味しいし。ムカゴのホクホク感もモヤシのしゃきしゃき感もいいよね」
「それなー。それにみさちが作ってくれた餅もいい感じだ。表面のコゲがまた旨いんだよな」
「わかるー。このオコゲの香ばしさ、そしてこのオコゲがちょっとふやけた感じがいいんだよね。このちゃんとみょーんと伸びるところもちゃんとお餅になってて、ハトムギのお餅って餅米のお餅と違い分からないね」
「だな。ハトムギは思った以上に優秀な穀物だったな。それにハトムギ餅はエネルギー源としても優れてるし、腹持ちもいいから朝の活動を始める前に食べるのに最適なんだ。今日は長い一日になりそうだし」
「あー、もうモエギの出産って始まっちゃってるかな? もし、もう産み終ってたりしたら……」
「んー、まあその時はその時だな。でも、モエギとルビーが巣に籠るのに半日ぐらいタイムラグがあったから、モエギの出産が終わってたとしてもルビーの方には立ち会えるんじゃないかと思ってるんだけどな。それに、モエギが先に出産するにしても、産まれた仔が視覚で親の刷り込みをすることを考えると少なくとも周囲が明るくなってから産むんじゃないか、とは予想してるんだよ。だからワンチャンまだモエギの出産にも間に合える可能性はある」
「なるほど。とりあえず、今日は一度浜の方に行っちゃったら行きっぱなしになっちゃいそうだし、しっかり腹ごしらえをして、お洗濯とかやらなきゃいけないことは早めに終わらせておかないとだね」
「そういうことだな。もし、俺たちの助けが必要になる場面があったらすぐに駆けつけられるようにはしていたいもんな」
「んふふ。ノアズアークはもう大事な家族だもんね」
「そういうことだ」
「今日もスリングの練習をしなきゃだね」
「こればかりは練習あるのみだな」
ノアズアークが俺たちの傘下に入って三日、いや四日。積極的に交流を図ることでお互いへの信頼度もだいぶ深まった。簡単な言葉による意思の疎通──俺たちがこれまでにゴマフに教え込んできた言葉とその意味については、ノアズアーク全員がだいたい理解できていると思う。
信頼関係については最初は家族ごとに温度差があった。初めはノアとその番たち──ノアーズ一家と、ゴマフとその父親のシノノメ──アカツキ一家の二家族が俺たちに心を許してくれていたが、ヒスイの家族──ジュエリーズ一家、ヒイロの家族──カラーズ一家、ソロのドーラは少し俺たちへの警戒心を見せていて、どう接したらいいか距離感を掴みかねている感じはあった。
しかし、ジュエリーズ一家の巣作りの手伝いに始まり、その後の数日間の交流を経て、俺たちはノアズアーク全員からの信頼と信用を勝ち取ることができたと思う。そうでなきゃ戦士であるオスたちが俺たちの前で無防備に寝転がって弱点である腹を触らせてくれたり、出産を控えているモエギとルビーとの触れあいを許してくれたりはしないだろう。
ノアズアーク全員が俺たちにすっかり心を許して懐いてくれて、俺たちとしてもすっかり情が移ってしまったので、あいつらの為に尽力することにもはや躊躇いはない。美岬の言う通り、あいつらはもう俺たちの大事な家族だからな。
気になるのは戦士であるオスたちの体表の傷だ。明らかに最近付いたであろう闘いの痕跡。特にゴマフの父親であるシノノメにはまだ新しい噛み傷が何ヵ所かあるが、それはゴマフの母親にあった歯形と同じものだ。彼女にとって致命傷となった傷の形や特徴はノートに記録してあったがそれと完全に一致していた。
このことから、おそらく身重であったゴマフの母親が敵に襲われ、シノノメが助けに入って敵と戦っている間に番を逃がし、逃げた番がなんとかこの場所にたどり着いて最期の力を振り絞ってゴマフを産んだというのが事の真相だと俺たちは考えている。
おそらく、ゴマフの母親やドーラの番を殺し、ノアズアークのオスたちに傷を負わせた敵はまだ生きている。敵の正体までは分からないがかなり危険な存在であることは間違いないだろう。
ノアズアークが俺たちにとって家族も同然の大切な存在となった今、彼らの敵である存在への対処についても考えていかなければならない。もし、敵がこの箱庭にまで攻め込んできたらどうするか。どうすれば彼らを守れるか。おそらく単体ではノアズアークの戦士であるオスたちよりも強く、俺からすれば圧倒的に格上であろう存在に対して、十分なダメージを与えられるほどの威力を出せる武器、しかもここにある材料で作れるものとなると…………まあ、考えてみれば意外とあるんだな、これが。
そもそも柔軟な思考と器用な手で武器を作り、自分より圧倒的に格上な存在との生存競争を勝ち抜いて地球の弱肉強食のピラミッドの頂点に君臨しているのが我らホモ・サピエンスなわけで。素の能力では中型以上の肉食獣には勝てないが、道具を使っていいなんでもありなら生物界最強の戦闘力を持つチート生物だからな。人類最大の武器は知能と器用さだと思う。
原始時代からマンモスやオーロックスをご先祖様たちは原始的な武器で狩っていたわけだし、現代でもインドネシアのソロール諸島では島民たちが手漕ぎボートと手製のモリという原始的な装備だけでマッコウクジラを狩っている。
俺が構造を理解していて再現可能な原始的な武器でも、格上の敵と戦えそうなものはそこそこあるので順次作っていこうとは思っている。とりあえず第一弾として、襦袢作りのついでに古代の投てき武器の一つである投石紐を俺と美岬の分、作っておいた。
スリング──それは2㍍ほどの紐の真ん中に石をセットするためのホルダーを取り付けただけの、遠心力を利用して石を高速で投げる為の道具だが、これで投げた石の威力は割とえげつない。なにしろ特に身体を鍛えていない一般人でもこれを使えば普通に120km/hぐらいの速度で石を投げられる。プロ野球のピッチャーなど訓練を積んだ人間が投げれば200km/hぐらい余裕で超えてくる。
メカニズムとしてはバッティングセンターのピッチングマシンに近いが、ピッチングマシンから120km /hで握り拳サイズの石が飛んで来たらどれだけ危険か想像に難くない。
狙い通り正確に当てるには練習が必要だが、熟練者が使うと普通に人を殺せる。古代の戦争でよく使われていたれっきとした武器だ。
有名なのは旧約聖書のダヴィデとゴリアテの決闘の話だな。真偽のほどは分からんが、石投げの名手だったダヴィデはライオンや熊もこれで仕留めたと伝えられている。ミケランジェロのダヴィデ像には彼の象徴ともいえるスリングがしっかり表現されている。
そんな古代からの由緒正しい武器スリングだが、最大のメリットはとにかくコスパがいいことだ。本体はただの紐だし、弾はその辺に転がっている石だからどこにでも持っていけていつでも使える。ちなみに今回の材料は紐部分はパラコード、ホルダーはデニム布の端切れだ。ちょっとした隙間時間にいつでも練習できるから、この二日ほど二人で時間を見つけては練習している。気になる腕前の方は…………うん。最初よりは上達したが伸びしろはまだまだ十分にあるな。
古代の戦争ではスリングは非常に重宝された武器でした。会戦の前哨戦で石投げで相手の戦力を削ることもよくありました。ちなみに作者にとって印象的なスリングが使われている映画はもののけ姫です。
スリングを使えば一般人でも120km/hで石を投げれるわけですが、生身で160km/hのボールを投げるメジャー投手はやはり化け物で、メジャーでよくあるデッドボールの報復合戦はマジで危険な行為です。野球ボールは軽いのでまだマシとはいえ、メジャー投手が石を投げたら本当に人死にが出るでしょうね。




