第229話 52日目⑬団子天消失事件と単環縫いミシン
箱庭の空からは太陽が姿を消し、茜色に染まった雲が上空を流れていて、V字編隊の渡り鳥の群れが渡っていく。暖流の影響かこの島はまださほど寒くないが、おそらく本土の朝晩はかなり肌寒くなっていることだろう。
地面というものは際限なく熱を吸収するから、なるべく早く地面に直接テントを設営している状態から高床の新居に寝床を移したいと思っている。
縄文時代の竪穴式住居が廃れ、地面から離れた高床式住居に変わっていった大きな理由の一つが冬の寒さ対策だったのではないかな、と俺は個人的に考察している。地面に直接設営している住居だと常に火を燃やしつづけていないと暖かさを維持できないから冬に薪を十分に確保できないと詰む。
俺が以前に調べたところによると、縄文時代には何度か大規模な人口激減期があったらしい。もしかしたら当時の小氷河期とも相まって冬の寒さの犠牲になった人間がかなりの数に上ったのではないだろうか。
現在俺たちが建築中の新居は、一階部分をダイニング兼キッチンにして、二階部分を寝室兼倉庫とするセパレート構造だが、これは下で火を燃やした熱が上の寝室を暖めてくれることを期待してのことだ。あと1ヶ月以内ぐらいでなんとか住める形にしたいと思っている。
なんて現実逃避気味に木の梢の隙間から見上げていた空から目をテーブルの上に落とすと、さっきまで積み上がっていたはずの団子天がほんの数個だけしか残っていない大皿と決まり悪そうに目を反らしている美岬。これが現実だ。
「……これさ、一応は保存性を上げるために手間をかけて団子天にしたんだが?」
作ったその日のうちにほぼ食い尽くすとはさすがに想定していなかった。
「……あ、いやその、この一口サイズってつまみ食いしやすいから、ここを通りかかる度についつい……ね?」
「……ん、まあその気持ちは分からんではないが、それにしたって限度があるだろ。遅めの昼メシで満腹に食ったのに……よくこんなに食えたな」
「さすがにお腹いっぱいで晩ごはんは食べれそうにないです。すいましぇん」
「そらそうだろ。これで晩メシも食うって言ったら心配するレベルだ」
団子天を揚げ終わって、粗熱を取って冷ますために大皿に盛ったままテーブルの上に放置し、俺は昼寝前に干し始めたスズキの切り身の手入れと薪集めに行き、美岬は洗濯物の片付けや風呂の準備をするということで役割分担して、しばらくして俺が戻ってきたらこうなっていたというわけだ。
さすがにやらかしたとしょんぼりしている美岬の頭にぽんと手を置く。
「まったく、みさちは本当に揚げ物が好きなんだな」
「…………うん。しゅき」
「それなら仕方ないな。カレイはまたいつでも釣れるから団子天はまた作ればいいさ」
大好物をついつい食べすぎてしまうのはまあ誰にでもあるし、美岬は普段そういう部分を抑えているから、こういう年相応というか、これぐらいの年齢の子って本来これで普通なんだよな、と妙に納得している自分がいる。
好きなものを我慢できずに独り占めして、それで友達や兄弟とケンカしたり、そういう経験を通して我慢や譲ることを覚えたりして、次第に社会性を身に付けて大人になっていくというのは思春期の当然の通過点だと思う。
もし俺が美岬と歳が近かったらここで険悪なムードにもなったかもしれないが、団子天をほとんど食われたことへの怒りではなく美岬の新たな一面に新鮮味を感じて可愛いなーとしか思わないあたり、やはり俺も年相応にオッサンなのである。
そんなことを考えてしみじみしてると美岬が不満げに頬を膨らます。
「むうぅ。旦那さまがそうやって甘やかすから嫁が調子に乗るんだよ。たまにはメッて叱らないと」
「そうか。じゃあ、メッ!」
人差し指で美岬のおでこをツンとつつく。
「あうっ…………って! こんな優しさしかないメッで反省するわけないでしょ!」
俺が叱らないと美岬が自らお叱りを要求するあたり、全然調子に乗ってないしちゃんと反省してると思うのだが。
「まあ、俺は食べた量にちょっと呆れてただけで怒ってたわけではないしな。むしろ愛する嫁が大好物をたらふく食べれてエライ! 可愛い! みたいな? 見たところ全種類一個ずつは残してくれているあたりに一応の自制と俺への気遣いは感じ取れるし」
「いやそこは一個ずつしか残さなかった遠慮のなさを叱るべきじゃないかな?」
「んー、俺としてはこれだけ残しておいてくれれば十分なんだよな。……あー、じゃあそうだな、もしみさちが次に作る団子天を食べすぎたら、団子天で作る予定のおでんが中止になるということで」
「お、おでん!? 最近夜がちょっと肌寒いから絶対美味しいやつじゃん! ここで手に入る材料で作れるの?」
「おう。そもそもおでんのあの独特の出汁の味は、煮干しの出汁で練り物、大根、干し椎茸を煮ればできるからすでに材料は揃ってるんだよな。こんにゃくやゆで卵は無いけど、さつま揚げ、はんぺん、チクワとか練り物のバリエーションを増やして、タコや貝なんかの具材も入れればいい感じに具だくさんのおでんになると思うぞ。……さあどうする? 揚げたての団子天とじっくり煮込まれたアツアツのおでんのどっちを選ぶんだ?」
ぶっちゃけ、つまみ食いをしすぎなければ両方選べるのだがあえてそれは言わない。美岬がオーバーリアクションで頭を抱えて葛藤している。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……お、おで、おでんたべたい」
「なんかゾンビみたいになってるぞ」
「あ゛あ゛、意識が……あたしがあたしじゃなくなる……あ゛あ゛……つまみぐいしたい。おでんたべたい。あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~」
「美岬! 意識をしっかり保つんだ! お前はまだゾンビになりきっていない! 人間に戻れる!」
「ガクちゃん……逃げて! あたしがあたしでいる間に……あ゛あ゛あ゛あ゛……」
「ダメだ! 諦めるな! 諦めたらそこで終了だぞ!」
「うう……先生、おでんが食べたいです!」
「……うん。なら次回はつまみ食いを控えてもろて」
「いえっさー」
唐突に始まったゾンビごっこは一瞬で終息した。たぶんネタが続かなかったんだな。
食べ過ぎた美岬は晩メシはパスとのことなので、今日は晩メシの仕度はしない。僅かに残った団子天は俺の夜食として適当な頃合いを見計らって食べるとしよう。
まあそんな感じで、普段なら晩メシの仕度に追われている夕方の時間がぽっかりと空いてしまった。せっかくなので、ノアズアークへの対応で後回しになっていた寝間着である襦袢作りを本格的に始めることにして、徳助氏が遺してくれた布素材や裁縫道具が収納されている『長持ち』を開ける。
徳助氏は既製品の衣類もそれなりに持ち込んでいたが、必要に応じて仕立てることも想定していたようで『長持ち』には布素材に加え、裁縫に使う道具もいろいろと仕舞ってあった。糸や針やハサミやメジャーなどが入った道具箱と古い手回し式の小型ミシン。
さすがにミシンまで持ち込んでいるとは思っていなかったが、あったら非常に助かるのは間違いない。さすが、徳助様々だ。
ちなみにこのミシンだが、幅25㌢、高さ30㌢、奥行き15㌢ぐらいの木製の小さなトランク型のケースに入っているまるでオモチャのような可愛らしい卓上ミシンだ。黒い鋳物製で向かって右側に手回し用のハンドルがあり、本体には金字でReadのロゴ。
以前どこかで、たぶん昭和の生活用品を扱っていた民俗資料館かなんかで見た記憶はあったのですぐにそうと分かったが、確かこれ100年ぐらい前──昭和初期の単環縫いミシンだったはず。
今のミシンは上糸と下糸の二本の糸を交差させながら縫う構造だが、より原始的な構造の単環縫いミシンには下糸が無く、上糸一本だけを使って縫う。
糸を通した針が下がったら、針板の下で回転する鉤が糸を引っ掛けて捻って輪を作る。針が上がった時、下には鉤に掛かったままの糸の輪が残っている。次に針が降りてきた時、針は糸の輪の中を通り、そこでまた鉤が糸を拾って新たな輪を作り、針が抜かれて輪だけが残る。
これの繰り返しで、まさに鉤編みの要領で一本の糸で作った輪を鎖状に繋げていくのが単環縫いだ。これで縫った布は、表面は点線の普通の縫い目になるが、裏面は鎖編みになるという特徴がある。そして元々は一本の糸なので、編み物と同じく縫い終わりをちゃんと結んで止めておかないと糸を引っ張れば全部ほどけてしまう。
文化的背景の違いだが、西洋の場合、オーダーメイドで作った服をほどいて仕立て直すことは基本的にしないのでミシン縫いも上糸と下糸で頑丈に縫える方が望ましく単環縫いミシンはすぐに廃れたが、日本の着物の場合、季節ごとにほどいてサイズ調整して仕立て直すという文化があったので簡単にほどける単環縫いミシンは逆に重宝され、このタイプの小型単環縫いミシンは戦前の若い女性の嫁入り道具として大人気だったらしい。
このミシンもおそらく徳助氏の母親か祖母──美岬にとっての曾祖母か高祖母が嫁入り道具として持ってきたものだろう。
専用の木製ケースに収納されていたので約100年も昔の物なのに今でも普通に使えるのはありがたい。さっそく使わせてもらおう。俺たちの場合、縫製は不慣れなので縫いに失敗してもほどいてやり直せるというのが単環縫いミシンの最大のメリットだな。
よーし書き上がったぞーと前回の更新日を確認して…………は? え、嘘? 1ヶ月前ですと? 忙しすぎてタイムリープしてしまった?
まあその、確定申告とか、季節の変わり目で体調崩したりですとか、まあ色々とあったのでございます。大変お待たせいたしました。楽しんでいただけると幸いです。引き続き応援もどうぞよろしくお願いいたします。