烟火は必ず素より具う
閻軍~麒麟浦砦~
景庸関の奥で火が上がった。
閻軍軍師・瀬崎宵の目からもそれは良く見えた。
砦の物見櫓の上。宵の隣にはしっかりと鄧平がついている。
宵は鄧平を横目でちらりと見るとその口を開く。
「動きましたね。作戦通り。前線の指揮官達に伝令を。敵がこちら側に逃げて来たら投降を促してください。絶対に殺してはいけませんよ。投降する者は丁重に迎え入れるように」
「投降しない者は?」
「捕虜として拘束します」
「御意!」
鄧平は拱手して櫓から降りようとしたが一度立ち止まり宵の方へ振り返る。
「どうしました?」
「いえ、軍師殿も降りられますか?」
「はい。そのうち降りますけど」
「今なら私がおぶって降りられますよ? 軍師殿高い所が怖いのですよね? いつも櫓をビクビクしながら昇り降りされてますし」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。もう少しここに居ますし、それに、1人で降りられますので」
宵はムッとして羽扇を振る。
「そうですか、では後ほど」
鄧平は宵の塩対応にも動じず笑顔を見せるとスルスルと梯子を降りていった。
宵はそれを見届けると、また朧軍の陣営へと目を向ける。
どうか誰も死にませんように。
そう願いながら、風に揺れる羽扇を胸の前でギュッと握り締めた。
***
景庸関~朧軍陣営~
燃えない筈の建物が次々と火に呑まれていく。
混乱する朧軍。さらにそこに邵山と琳山から閻軍の奇襲部隊が逆落としをしかけて来ていた。2つの山にはまだ松明の火が数千は灯っている。
「……火が……」
厳島光世は目の前の状況に戦慄し小さく呟く。
ふと、隣の清春華を見ると肩を竦め俯いていた。
「軍師殿!」
そこへ兵士が大慌てで1人部屋へ駆け込んで来た。
「敵の間諜と思われる男が松明を持ち、我が陣営の武器庫、兵糧庫を内側から火を点けて回っています!」
「間諜……!」
光世は呟いたが清春華の方は見なかった。ただ真っ直ぐ報告に来た兵士だけを見る。
「現在邵山、琳山から降りて来た閻軍を徐畢将軍が迎撃しております。間諜は陸秀将軍が行方を追っているようです」
「わ、分かりました。とにかく、閻軍を抑えて、間諜は捕らえて──」
光世が命令を言いかけたその時、隣で俯いていた清春華が手を握ってきた。
清春華を見ると、大きな瞳を潤ませて、何も言わず、ただ何かを訴えていた。
何が言いたいのか、光世には理解出来た。
しかし──
「御意! 間諜は必ず捕らえます!」
兵士は拱手して部屋から駆け去ってしまった。
部屋にはまた光世と清春華だけになった。
「知り合い……なの?」
小さな声で訊ねると、清春華は微かに頷いた。
清春華の手は震えている。手に握る汗もじんわりと光世に伝わる。
光世の誤算。清春華が間諜として潜り込んでいたのに、他の間諜の存在を見落としていた。
『火、内に発せば、即ちこれに外に応ず』。敵軍に潜り込んでいた間諜が内から火を放つ、そんな初歩的な事を考慮しなかった。
だが、孫子を極めた宵はまさに教科書通りの火攻めを徹底してきた。武器庫、兵糧庫の内部から簡単に火が点いたのは、あらかじめ燃焼しやすい物を間諜に仕込ませていたに違いない。『烟火は必ず素より具う』だ。
邵山と琳山の閻軍に気を取られてすでに手を回されていた事を見抜けなかった。兵法を学んだ身としてはあるまじき失態。
次々と燃えていく武器庫や兵糧庫はやがて大火になり、朧軍の退路を断っていく。
そんな光景を目の当たりにした光世は1つ溜息を漏らす。
「やっぱり……勝てないか」
すると、光世の手を握っていた清春華の手にギュッと力が篭った。
「諦めるんですか? まだ皆戦ってるのに」
光世は真剣な眼差しで見つめてくる清春華を見た。
清春華にとっては宵の策が成って朧軍が危機に瀕しているこの状況は望むべき展開の筈。それなのに、清春華は敵である光世を奮い立たせようとする。
「諦めないよ。この状況を乗り切らなきゃ。ついてくるんだよね? 春華ちゃん?」
「もちろんです。光世様もわたくしもこんな所で死ぬような女じゃありません」
「強い子だよね、春華ちゃんは」
光世が微笑むと清春華も微笑んだ。
「それじゃあまずは安全な場所に皆を誘導して体勢を立て直そう。『囲師には必ず闕く』。逃げ道は必ずある!」
光世はそう言って部屋の外にいた兵士を捕まえて護衛につけると、清春華と共に角楼の階段を降りて行った。
♢
姜美は槍を片手に500の兵を伴い、斜面を一気に駆け下りる。
かなり起伏の激しい道だったが、姜美が鍛え上げた精鋭の500名は足場の悪さなどものともせずに喊声を上げて勢い良く駆け下りていく。
琳山は馬が通れない為、500の兵は全て槍と剣だけを持った軽装歩兵。もちろん、姜美自身も徒歩だ。
騎兵の逆落としとまではいかないが、火攻めで混乱する朧軍へは十分な脅威となる。
だが、麓まで降りて全軍の勢いが弱まった。
暗闇で見えなかったが馬止めの柵が琳山に沿うように横一列にならべられていたのだ。
それでもたついている隙に、こちらの接近に駆け付けた朧兵達に隊列を組み直す隙を与えてしまった。
「臆するな! まだ朧軍は混乱している! 一気に攻め掛かれ!!」
だが、勇将・姜美は怯まない。
姜美は自身の掛けた号令と共に手にした愛用の槍で馬止めの柵を叩き壊して見せると、500の兵達はまた喊声を上げ、同じく馬止めの柵を槍で叩いて破壊し一直線に敵陣へ突っ込んで行った。
「作戦通り、朧兵は景庸関側まで追い立てろ!!」
姜美の声は兵達の喊声に負けず500の兵達を手足のように自在に操る。
──が、姜美の視界に、馬に乗り偃月刀を持った大男の姿が飛び込んできた。
「また会ったな! 姜美! 今こそ決着をつけてやろう!」
「ふん! 今貴方の相手をしている暇はないのですが、貴方を討たねば事が上手く運ばなそうですね、徐畢将軍」
「そういう事だ。この前は逃げられたからな。今度は逃がさん」
徐畢はニヤリと不敵に笑い顎髭を撫でた。
燃え盛る炎を背にしたその徐畢の姿は姜美が今まで出会った事のない強大な敵に思えた。
「田燦! 私が徐畢を止めます。貴方は兵を100だけここに残し、残りの400を連れて手筈通り敵を景庸関まで追い立てなさい!」
姜美はそばについて来ていた校尉の田燦に命を言い渡す。
「……しかし、姜美様!」
「私が徐畢を止めなければ、せっかく混乱させた朧軍の足並みがまた揃ってしまう! 私しかこの男を止められない! 行け!! 田燦!! 命令だ!!」
田燦は姜美の命令に歯を食いしばりながらも、反論しかけた言葉を呑み込んだ。
「御意!! 必ず、お戻りください!!」
「もちろんです!」
姜美が答えると、田燦は声を上げて槍を振り上げ、瞬時に軍を2つに分けた。そして400の兵達を引き連れ、混乱する朧軍を追い立てていった。
「徐畢将軍、この姜美の槍捌き、とくとご覧あれ!」
槍を身体の周りで器用にくるくると回して見せる姜美。味方の兵達がその槍裁きに歓声を上げる。
「ふん! 馬に乗れ姜美! これでは対等ではない!」
徐畢はそう言うと、姜美の近くで乗り手を失ってキョロキョロしていた馬を指さした。
「では、拝借」
姜美は身軽に馬に飛び乗ると、再び馬上で槍を振り回す。
「ははは! 器用なものだな! だが、俺の偃月刀の威力の前ではその槍も意味をなさん!」
大きな偃月刀の切っ先を姜美へと向ける徐畢。
「いざ!!」
姜美の掛け声と共に2人な武人とその部下の兵達が駆け出した。




