娘のように
景庸関の東側~朧軍陣営~
夜更けになって急に風が吹き始めた。
清春華と共に兵舎の前の小さな階に腰掛けて兵達の働きぶりを視察していた厳島光世。その綺麗な茶色い髪が夜風でふわりと揺れた。
昼間から兵達に作らせていた木の杭を組んだ馬止めの柵は、陣営の左右の邵山と琳山に沿って隙間なく並べさせた。増設した物見櫓には弓兵をみっちりと配備し、山からの奇襲に目を光らせている。
そして別の兵達には設置した馬止めの柵や櫓、さらには武器庫や兵糧庫の外壁に湿った泥を塗るように指示を出した。
兵達はその行動の意図が分かっていないようだが文句を言う者はいない。
風が吹き初めても彼らはそれに気付きもせず、ただひたすらに建物や柵に泥を塗っていた。
風は徐々に強さを増す。
夜空に浮かぶ月は短い間隔で雲の隙間から顔を出したり隠れたり、まるで明滅しているかのようだ。
風は光世と清春華の閻服の袖や裙を大きく靡かせた。強風に晒される度に光世と清春華は同時に裙を押さえる。
「ちょっ……と風が強くなってきたね。中に戻ろうか」
「そうですね。光世様」
2人は裙を押さえながら頑丈な景庸関の中のへと戻った。
景庸関の角楼に昇れば、朧軍陣営の反対側、つまり、閻帝国側の閻の大軍勢が一望出来る。砦を明け渡してからすぐに閻軍は景庸関の目前まで進軍して来たが、景庸関に攻撃してくる様子は今のところない。
「おお、光世嬢。まだ起きていたのか」
景庸関の角楼の中で茶を飲んでいた徐畢が言った。
卓の向かいには陸秀もいる。
2人は閻軍の動きを観察しながら茶を飲んでいたようだ。
「ええ。敵の奇襲が気になってしまって」
「夜襲の可能性も十分にあるからな。だが、哨戒の兵がいるのだから、軍師の其方は休んで良いのだぞ」
徐畢は言いながら卓の上にあった急須から小さな湯呑みに湯気の立つ茶を入れると光世へと差し出した。
「座って飲め。落ち着くぞ。そっちの下女も」
徐畢は手招きして光世を隣の席に座らせた。
清春華は2人の将軍と同じ卓に着く事を躊躇っていたが、光世が座るように言うと光世にくっつくように隣に腰を下ろした。
「仲がいいのだな、2人は。まるで友人同士のようだ」
徐畢が笑いながら言うと清春華は首をブンブンと横に振った。
「滅相もありません。光世様は主であり、友ではありません。わたくし如きが友などとは……畏れ多い」
「そう否定するな。光世嬢は其方の事をただの下女とは思っておらんだろう」
まるで父親のようににこやかに光世と清春華の関係を訊ねる徐畢。光世も笑顔で頷く。
「友達です。たまたま主従関係にありますが、街で出会っていれば私達はどこにでもいる友達同士になっていたでしょう」
光世の答えに清春華は嬉しさを隠しきれず飛び切りの笑顔を零し光世の肩にもたれる。
すると徐畢は呵呵と笑った。
「実に微笑ましい。光世嬢の懐の深さは心に染みるな」
「徐畢将軍こそ、私にとても優しくしてくれる、まるでお父さんのようです」
光世が言うと、また徐畢は笑った。
「お父さんか。実を言うと俺には光世嬢と同じくらいの歳の娘がいる。優しくて気の利くいい子でな。光世嬢と話をしていると、故郷に残して来た娘と話している気がして懐かしい気持ちになるのだ」
「そうだったのですか」
「ああ。だから早く閻帝国を平定して故郷に戻り、娘を思い切り抱き締めてやりたい」
「なるほどぉ、それでしたら徐畢将軍。閻帝国平定までの間、私で良ければいつでも抱き締めてくれていいですよ?」
光世がニヤリと笑いながら言うと、清春華はクスクスと笑った。黙って茶を飲んでいた陸秀も薄らと笑みを浮かべている。
「その気遣いには感謝する。だが、光世嬢はあくまでも部下であり、1人の女だ。気安く抱き締めたりなどせん」
徐畢は茶を飲み干すとキッパリとそう言った。
その厳格な線引きに、徐畢の将たる器の大きさを光世は改めて思い知らされた。
「それよりも光世嬢。俺が戦場で死んでも泣くんじゃないぞ? 其方は俺が負ける度に暗い顔をしていた。俺が万が一死にでもしたら立ち直れるか心配だ」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ。徐畢将軍は生きて帰って娘さんを抱き締めてあげるんですよね? それまでは何があっても死んじゃ駄目です」
「だがな、光世嬢。俺が確実に生き残れる保証はない。戦では人が死ぬのが当たり前。現にすでに多くの朧軍の兵が閻軍に殺された。校尉だと文謖も死んだ。ならば俺も突然矢に当たって死ぬ事もあるだろう。故に俺が死んだ時、どう行動するか、それが肝要だ」
「死んだ時……どう行動するか……?」
「そうだ」
徐畢は頷いた。
陸秀も目を瞑り静かに頷いている。
「さて、俺は寝る。敵が襲って来た時に寝不足で戦えぬという事があってはならんからな。光世嬢も早く休むのだぞ」
徐畢はそう言って立ち上がると大きく伸びをしながら部屋を出て行った。
光世は湯気の立つ茶を一口飲んだ。
「光世」
不意に陸秀が口を開いた。
「はい」
「逃げるなら今だぞ」
「え?」
「敵が邵山と琳山から攻撃して来ると言うのなら、ここは戦場になる。今までのように後方から安全に見ていられるわけではない。今度は其方が死ぬかもしれぬのだ」
「それは……」
「其方の本来の目的は友を探す事であろう? 軍人ではない其方が逃げたところで処罰はしない。ここで死ぬよりは、軍の協力が得られなくとも自力で友を探しに行く方が良いではないか?」
光世は湯呑みを握り締め俯いた。
「ありがとうございます、陸将軍。せっかくのお気遣いですが、私はここで戦います。確かに私の目的は友を探す事。しかしながら、私はこの軍でもかけがえのない仲間を得ました。彼らを見捨てて逃げるなんて出来ません。それに、桜史殿も別の場所で戦っているのです。こんな中途半端なところで……私だけ逃げたくありません」
「なるほど。徐将軍の話は杞憂だったか」
光世の覚悟を聞いて陸秀はフッと笑った。そして立ち上がると光世の隣へ来て肩に手を置いた。
「徐将軍から、このまま戦い続ければ光世の心が壊れてしまうかもしれないと聞いていたのだが、どうやら大丈夫そうだな」
「え……」
光世が陸秀の話を詳しく聞こうと立ち上がったその時──
「敵襲! 敵襲!」と叫びながら兵士が部屋に駆け込んで来た。
「邵山と琳山から閻軍が我が陣営に火矢を放っています!」
兵士の報告に陸秀は顔色を変え慌てて窓から外を見たが、清春華はただ顔を伏せた。
どうやら清春華は閻軍が火攻めを仕掛けてくる事を知っていたのだろう。だが、その事を光世には話さないでいてくれた。清春華は光世の願い通り閻軍の秘密を漏らさず、それでいて光世に協力してくれているのだ。
窓から見える朧軍の陣営には、兵士の報告通り、無数の火矢が左右の山から降り注ぎ火の雨を降らせている。
一方、閻側で景庸関の手前に布陣している閻の大軍は動く気配はない。
「火攻め……風が吹き始めるのを待っていたのね。さすがは閻の軍師ちゃん。天候をも操っちゃうなんて」
「感心している場合ではないぞ光世。火矢なんかを陣営に放たれたらここは火の海になる。其方は早く逃げろ」
「ご安心を。すでに手は打ってあります」
落ち着いた声で言った光世が陣営を指さすと、陸秀と清春華は釣られて光世の指が指す方をを見た。
「……これは……」
陣営に広がる不自然な光景に陸秀は小首を傾げた。




