水がこんなに美味しいなんて
瀬崎宵は李聞と鍾桂に牢から出され、廖班のいる幕舎へと連れて来られた。
「なるほど。それでその女を牢から連れ出したというわけか」
李聞が宵を連れて来た理由を述べると、1人食事を摂る廖班は不満そうに呟き宵を睨んだ。燭台の火が廖班の顔を時折翳らせる。
手を麻縄で縛られたままの宵はその猜疑心満載の視線に耐え切れず下を向く。
「左様でございます。どの道我々にはもう後はない。背後にある2本の川、荒水と墨水を最後の砦とし、背水の陣の覚悟で敵に当たらなければならぬのです。……まあ、一度この者の策を聞いてみるのも悪くはないかと。万が一、この場をやり過ごす為だけの出鱈目であれば斬り捨てれば宜しい」
李聞は宵を庇っているのだろうが、失敗した時のリスクがあまりにも大きく、まともな献策が出来るだろうかと宵の不安は募る。
「ははははは! 良かろう! 宵とやら。貴様に一度だけ機会をやろう。得体の知れぬ小娘が、敵の間者でない事を俺に示すがいい」
突然笑い出した廖班は食事を下げるようにそばにいた兵に手で合図を送ると、兵は手際良く廖班の前の机の上の食事を下げて部屋から出ていった。
「許瞻殿と将校達を集めろ」
廖班が誰にともなく言うと、入口に立っていた鍾桂が返事をして部屋から出ていった。
♢
5分もしないうちに、4人の鎧兜で武装した男達が部屋に入って来た。
「おやおや、間者の妖術師の女が何故ここに?」
部屋の真ん中に李聞と佇んでいる宵の顔を見るやいなや、4人の鎧兜達に紛れて文官風の着物を着た中年の男が小馬鹿にしたように言った。この男は、ここに初めて連れて来られた時にも居たような気がする。
「これよりこの者が我が軍が賊共に勝つ秘策を話すとの事です、許瞻殿」
「何と! ははは、それは面白い冗談だ」
許瞻という男が笑うと他の鎧を纏った男達も笑った。
どうやら、許瞻という男は他の鎧を纏った男達とは役職が違うようだ。廖班から“殿”と敬称を付けて呼ばれているところを見ると廖班よりも目上の存在。一見軍師にも見える文官の風貌だが、先程李聞は兵法を知る者はいないと言っていたので、恐らく朝廷から軍の監察の為に派遣された役人と言ったところだろう。
「許瞻殿、冗談ではありませんよ。この者は“兵法”に精通しているらしく、ちょうど士官先を探していたところだそうです」
「ほほう。“兵法”だと? そのような戯言を信用なさるのか? 兵法は数百年前に廃れた学問。この国でそれを知る者は土の下で眠る先人達くらいだろう。そんな小娘が兵法を知っているはずがない」
「聴くだけなら何ともありますまい。まったく道理の通らぬ事を話せば斬る。いくら兵法を知らぬ我々でも、我が軍を陥れようとしていればその時点で気付きましょう」
「なるほど。一理ありますな」
話を纏めた廖班は男達に座るよう指示を出した。李聞と宵だけがその部屋の真ん中で立ったままだ。
「よし。宵。策を練るのに何が必要だ? 言ってみろ。必要なものは全て用意させよう」
「あ、えっと……」
緊張のあまり頭が回っていない。刀を持った男達が睨み付ける部屋の真ん中で今から必勝の策を献策しなければならない。少しでも間違った事を言ったら首を斬られる。こんな状況で何が言えると言うのか。
「落ち着きなさい。おい、鍾桂。水を持ってこい!」
隣の李聞が宵の様子を見て指示を出した。
すぐに入口の外に控えていた鍾桂が、どこからともなく盃いっぱいに入った水を持って来てくれた。
「あ、ありがとう」
麻縄で両手を縛られたままの手に鍾桂は綺麗な水の入った盃をそっと置いた。宵はそれをゆっくりと震える唇に近付けた。冷たい盃の感触が唇を刺激する。そして、渇ききった口を潤しながらごくごくと喉を鳴らして飲み干した。ここに来て初めてこの世界のものを口に入れた。その水は緊張で発汗していた宵の身体に染み渡り、爆発寸前の頭を鎮めてくれた。生まれてこの方、水がこんなに美味しいと思った事はない。身体中に水が染み渡ると、自然と唇や身体の震えは徐々に収まってきた。
飲み終わった盃を鍾桂へと返す。
「頑張って」
ポツリと小さな声で鍾桂は去り際にそう言った。
その言葉が、今恐怖の真っ只中にいる宵に勇気を与えてくれた。1人きりだと思っていたが、味方してくれる心強いその言葉。宵は深呼吸した。
「では、まずこの周辺の地図を見せてください」
宵は意を決して声を出した。




