知らない世界、もしかして異世界転移?
冷たい感触が全身に伝わる。
久しく嗅いでいない土の匂い。
木々の揺れる音。
瀬崎宵はハッとして目を覚ました。
暗闇の中、僅かに何本もの木々があった。世界は横。何故か木々は宵の右側から生えている……わけがないと、宵は倒れていた身体を起こす。
右頬や手脚には湿った土の感触が残っている。
辺りを見回すがどこからどう見ても
森。しかも、真っ暗。空には月が出ているようで、かろうじてその明かりで数メートル先くらいは見える。
「……え……どこ? 私……家にいたんじゃ……」
消え入りそうな程小さな声で心の声を漏らすが、それで誰かが疑問を解決してくれるはずもなく、耳に入るのは微かに吹く涼しい風に揺らされる木々の音。何かの虫の鳴き声。それだけだ。
怖い。宵の中には“ここは何処なのか”、“どうしてここに居るのか”と言った疑問よりも暗闇の森に1人存在しているという事実から来る恐怖心で満ち溢れていた。
突然獣が襲って来たらどうしよう。蛇や気持ち悪い虫が近くにいるかもしれない。悪い夢なら醒めてくれ。宵は鼻をすすり、自分の腕を擦りながらその場でしばらく恐怖に震えていた。
どれくらいの時が経っただろう。
宵の心にもこの孤独の暗い森に対する耐性が出来てきた。
宵は意を決して立ち上がろうと地面に足を付ける。
──冷たい。
その時、ようやく自分の足下に注意がいった。靴を履いていない。ストッキングは穿いている。服は……リクルートスーツ……。
それで宵は目醒める前の記憶を取り戻した。
祖父の部屋で古い竹簡を読んで身体が動かなくなり意識を失ったのだ。
だからと言って、この状況の説明にはならない。誰かに連れて来られて置き去りにされたのか。はたまた、無意識に森の中に歩いて来たのか。そこまで考えて宵は首を振る。後者は有り得ない。都心にある宵の家から、徒歩で来れる森などない。少なくとも電車か車で移動したに違いない。だとすれば、無意識に出来る事とは到底思えない。
考えてもここがどこで何故ここに居るのかという答えには辿り着けない。
宵はストッキング1枚のほぼ素足で湿った地面を踏み立ち上がった。
森。それはもちろん変わらない。ただ、あまりにも何も起こらないので、少しずつ冷静さが戻ってきた。
「そうだ、スマホ……」
スマートフォンのGPS機能を使えばここが何処なのかは分かる。宵は徐々に自分のペースを取り戻してきた。しかし、ポケットに手を入れて宵は固まる。
「……あ……鞄の中だ」
いつもスマートフォンは鞄の中に入れていた。その鞄も辺りには見当たらない。
だが、鞄ではないものが宵の視界に飛び込む。
「これ、あの竹簡」
暗くて今まで気付かなかったが、紛れもなく宵が意識を失う直前に持っていた古い竹簡だった。その竹簡は半分開いた状態で足下に落ちており、不思議と闇の中でも仄かに輝いて見えた。
宵はそれを拾い、なんとなく中を見る。
「あれ?? 何も書いてない……」
確かに文字が書いてあった竹簡はまっさらな状態になっていた。やはり竹簡自体が光っているのか、月明かりだけでも鮮明に見える。
不可解なその現象に宵の恐怖心はまた湧き上がってくる。
持ち物はスマートフォンどころか何一つなかった。普段腕時計は付けないしヘアゴムも使わない。財布やハンカチ、ポケットティッシュは鞄の中なので、今ある物と言ったら何も書いていないこの竹簡だけだ。
「はぁ……手元に持ち物が何もない事がこんなにも不安だなんて……」
宵は震える声でポツリと呟いた。
何が起こっているのか理解出来ないが、祖父の形見である竹簡だけは失くさないようにしっかりと持った。
いつまでもここにいても埒が明かない。
そう思い、宵は森から抜ける道を探し恐る恐るその1歩を踏み出した。
少し歩くとすぐに森が切れるところを見付けた。
至る所に木の根があり足場が悪いのでストッキングの足裏はあっという間に破れてしまった。
しかし、今はそんな事よりも森の出口へ向かうことの方が大事である。
宵はやっと得体の知れない森から出られると一筋の希望を抱き、森の出口へと走る。
──が、そこは出口ではあるが、高さ15mはあろうかと言う断崖絶壁。ここを下りるのは無理だ。
絶望しかけた時、断崖絶壁の先に広がる平地の右側の方にぽつぽつと広範囲に渡り明かりがあるのに気付いた。
その明かりは静止していないので火が燃えているのだと分かった。
何にしても、人がいるかもしれない。宵は崖の上をその火の煌めく方向へと走った。
近付くに連れ、人の声が聞こえてきた。男の人達の笑い声。かなり多い。視認出来る所まで来ると、宵はその数の多さに目を疑った。
100人、200人というレベルではない。おそらく、1万人、2万人のレベルだろう。もしかしたらもっといるかもしれない。そして、火の正体が焚き火である事も確認出来た。
「キャンプ場……? にしては、人多過ぎるよね……」
やはり何も分からない。宵は頭を抱えた。とにかく、あの人達に事情を話して助けてもらわなければ。その為にはまず、この崖を下りなければならない。
そう思った時、背後から何かが近付いて来る音が聞こえた。
咄嗟に振り向くと、暗い森の中から2頭の馬に乗った人がこちらに向かって駆けて来ていた。
森の中に馬……やはり理解出来ない。
そうこうしてるうちに、2頭の馬は宵の目の前で止まり、騎乗していた人が下りて来た。
「貴様! こんな所で何をやっている! 賊の斥候か?」
下りて来た2人の男は恫喝気味に言ったかと思うと、腰からスラッと何かを抜いて宵に向けた。
「え!? 剣!? すみません、私気付いたらここにいて」
宵は反射的に両手を挙げて無抵抗を示す。
よく見ると2人の男は鎧兜を身に纏ったどこからどう見ても兵士という出で立ちだ。しかし、その鎧兜は日本の物ではなく、古代中国の物のように見える。宵に突き付けられた剣がそれを決定づける。日本刀ではなく、刃の幅の広い“柳葉刀”だ。日本で言う“青龍刀”である。
「女か……。賊ではなさそうだが、おかしな格好だな。異民族の妖術師か?」
男の1人が首を傾げた。だが、相変わらず剣は引かない。
「あ、あの……もしかして、何かの撮影中ですか?」
「さつえい? 何言ってるんだコイツ」
「待て、その手に持っている物はなんだ? 寄越せ!」
男の1人が宵の持っていた竹簡を乱暴に取り上げた。ボロボロの竹簡が壊れやしないかと身を縮める。
「何も書いてない……。もしや、密書か!? 敵に読めないように仕掛けが施されているのか?」
「ち、違います。それは元々何も書いてありません。私の祖父の形見です。あの……返してください……」
弱々しい声で懇願するが男達は取り合わない。
「さっきからコイツ意味の分からん事ばかり言うな」
「いずれにせよ、ただの村人ではないだろう。とりあえず、廖班将軍の所へ連れて行こう」
2人の男の中で話が纏まると、剣を納め、手際良くどこからともなく取り出したロープで宵の手首を縛った。
「すみません、あの、どういう事ですか? 何で私縛られて……」
「黙れ。大人しくしてれば痛い目には遭わさない。貴様がただの民間人ならな」
先に馬に乗った男が言うと、宵を抱き上げ、男の前に乗せた。
「行くぞ!」
「はぁっ!」
男達は掛け声を上げて馬を駆けさせた。
「やぁ!? ちょ、ちょっと、揺れる! 待って待って、掴む所は?? 怖い怖い! 落ちるってば!!」
初めて乗る馬。縛られて不自由な手。宵は何も理解出来ないまま何処かから何処かへと連れ去られた。
分かったのは、これが映画やドラマの撮影ではないという事だけだ。




