飛麗さんと清華ちゃん
軍議が終わると議場の外で、瀬崎宵は李聞と楽衛に中庭に呼ばれた。
「李聞殿、先程はお口添えをして頂きありがとうございました」
「礼には及ばん。劉飛麗がそんな酷い目に遭っていたとは知らなかった。気付いていれば軍師に手間を取らせる事もなかった」
「え……いえ、そんな」
礼を言った筈なのに、何故か謝罪されて困惑する宵。すると、楽衛が口を開く。
「軍師殿。軍の事で何か悩みがあればお1人で悩まず我々に言ってください。微力ながらお力になります。貴女はこの軍に来て日も浅い。我々の方が色々と融通の効いた事が出来ると思います」
「有難いのですが、李聞殿も楽衛殿もお仕事があります。邪魔をする訳にはいきません」
すると今度は李聞が首を振り口を開く。
「相談くらいなら聞く。聞いた上で出来るか出来ないか判断する。軍師よ、もしあの時廖班将軍が感情のままに剣を振っていたらお前は死んでいたのだぞ? 運に身を任せるなど……」
「いいえ、李聞殿。廖班将軍は私を殺しません。姑息な手を使ってまで私を梟郡から呼び戻したのは、私の兵法の力を利用して武功を上げ、自分の官爵を上げる為。短い付き合いですが、あの人がそういう人だというのは分かっています。それに、私は軍法に反したわけでもありませんし。斬られる理由はありません。廖班将軍だって、皆さんの前で正論を述べる軍師を斬れる筈がありません」
「成程。皆の集まる軍議で廖班将軍を問い詰めたのは、我々の目を使ったという事か。流石、軍師。聡明だ」
「いえ、そんな。でも、李聞殿がまさかあんなに強く廖班将軍を咎めてくれるとは思いませんでした。お陰で廖英様に告発する手間が省けました」
宵はニコリと笑った。
「報告!!」
その時、3人のもとへ1人の兵士が慌てて駆けて来た。
「どうした?」
李聞が訊く。
「巴谷道に伏兵を発見。廖班将軍より出撃準備をせよとの事です!」
待ちに待った伏兵発見の連絡。3人は顔を見合せ頷く。
「俺は行く。楽衛、軍師。高柴の守りは頼んだぞ」
「お任せ下さい!」
宵は楽衛と共に拱手した。
「報告!!」
出撃命令を伝えに来た兵士が駆け去ると、入れ替わるように今度は2人の兵士が駆けて来た。
2人の兵士は片膝を突くと、拱手した。
「邵山と琳山の調査が完了しました。実際に歩いて地図を作りました。ご確認ください」
2人の兵士はそれぞれの懐から1枚ずつ折り畳んだ絹を出し楽衛に渡した。
「歩曄、甘晋ご苦労。軍師殿。以前調査を命じていた邵山と琳山の地図です」
当たり前のように楽衛は宵に2枚の地図を差し出した。
「これは?」
「軍師殿が景庸関を防衛するに当たり、左右の邵山、琳山の地形を調べるようにと命じたではありませんか。私はあの後すぐに2人を派遣し行軍可能な道を調べさせたのです。景庸関は落とされてしまいましたが、この地図は景庸関奪還の際に役に立つかと」
楽衛から受け取った地図を、宵は1枚ずつ食い入るように見た。そこには、山の地形が事細かに記されており、さらに、行軍可能な道が数本ずつ記載されている。
「凄い……ここまで精密な地図を書けるなんて……」
あまりの出来の良い地図に宵は興奮して笑顔を見せた。李聞も宵の手から地図を取り、内容に感心して頷いている。
「楽衛殿。こちらの2人とお話させてもらっても良いでしょうか?」
「ええ。それは構いませんよ」
「感謝致します!!」
事が順調に運び始め、宵の緊迫していた心は軽やかになっていた。
♢
未の刻に歩曄と甘晋を部屋に来るように指示を出すと、宵は真っ直ぐに自室へと向かった。足取りは自然と駆け足だ。
成虎と龐勝が出陣する前に、兵法書を渡しに行かなければならない。新人軍師の宵に、ゆっくりしている暇などない。
部屋の中に人の気配。
そして、自室の扉の取っ手に手を掛け、深呼吸する。
ゆっくりと扉を開く。
目に飛び込むのは渇望した女の姿。宵を見て、柔らかな笑みを浮かべる。
「飛麗さん……」
「宵様」
あまりの嬉しさに、宵は飛び付くように筵の座布団に座っていた劉飛麗に抱きついた。
匂い、柔らかさ、体温……その愛しいものの全てを宵は1日たりとも忘れた事はなかった。ほんの数日会えなかっただけだが、自分のもとに戻って来てくれた嬉しさは計り知れない。
「ずっと会いたかったです。突然いなくなっちゃって、廖班将軍に酷い事されてるんじゃないかって……もう二度と会えないんじゃないかって……私」
「宵様。ご心配をお掛けしてしまい申し訳ございませんでした。感謝とお別れを申し上げに参りました」
「……え?」
感動の再会に目を潤ませていた宵には何を言われたのか理解出来なかった。劉飛麗のその美しい顔から笑みは消え、無機質な表情に変わった。
「軍師様」
困惑する宵に清華が話し掛ける。初めから部屋に居たようだが、劉飛麗に意識を全て持っていかれていた宵はその存在を認識していなかった。
「わたくし達下女は皆、廖班将軍から職を解かれました。雇い主がいなくなった以上、こちらに留まる理由はありません。新たな雇い主を見付ける為、他の下女達は高柴を去りました。劉さんも例外ではありません」
「違っ……私はそんなつもりで皆さんを廖班将軍から解放したんじゃ……」
狼狽える宵を優しく抱き締めながら劉飛麗が口を開く。
「分かっていますわ、宵様。廖班将軍に自由を奪われ辱めを受けるわたくし達を救ってくださった。心から感謝しています。ありがとうございました。ですが、わたくし達は生きる為に新しい主のもとへ旅立たなければなりません。わたくし達を自由にして頂いたのですから、宵様には何の咎もありません。どうかお気に病まれませんよう」
そう言うと、劉飛麗は宵の身体を離し、ゆっくり立ち上がった。
「嫌です……行かないでください。せっかくまた会えたのに……」
「宵様。わたくしは申し上げた筈です。わたくしが下女でなくなった時、わたくしと貴女は他人になると」
確かに言われた。梟郡の借家での最後の夜。劉飛麗と同じ寝台で寝た初めての夜。そして、主従関係の終わりが別離であるとキッパリと言われた夜。まさか、こんなに早く宵の下女でなくなる時が来るとは夢にも思わなかった。
しかし、宵はどうしても劉飛麗と別れたくはなかった。宵は既に、大切な家族や友達と離れ離れになっている。元の世界に戻る方法も分からない。もしかしたら、永遠に戻れないのかもしれない。そうであるなら、こちらの世界での姉のような存在である劉飛麗とは絶対に別れたくはない。
きっとそれは我儘なのだろう。劉飛麗は本当の家族ではない。赤の他人なのだ。
──赤の他人……
「なら飛麗さん。私が直接、貴女を下女として雇います。それなら、問題ないですよね?」
図々しくも思い付いたのは再雇用の提案。離れたくないから金で雇う。果たしてそれが正しい事なのか分からない。ただ、今の宵には劉飛麗の存在が必要だった。それは、“下女”としてではなく、“心の支え”として。
宵の提案を聞いた劉飛麗の表情は動かなかったが、ゆっくりと小さな口を開く。
「問題ありません。宵様がそうされたいのなら、謹んでお受け致します」
「良かった……ありがとうございます!!」
宵は安堵し深々と頭を下げ拱手している劉飛麗に合わせて拱手を返す。
ただ、劉飛麗の返事は機械的で感情が読み取れない。無機質な表情のままだ。宵は劉飛麗を繋ぎ止められて嬉しい筈なのに、笑顔を見せない劉飛麗の冷静さに少し寂しさを感じた。その冷静さは、まるで初めから宵が劉飛麗を雇い直すと見抜いていたかのようだ。
だが、劉飛麗とまた暮らせる事には変わりない。その喜びだけで、少しの寂しさなどすぐに忘れてしまった。──が、その喜びは横を見た瞬間に半減した。
清華。
この娘も宵のせいで雇い主を失った下女だ。劉飛麗だけ雇って、清華を雇わない訳にはいかない。
そこまで考えて、ようやく宵は金の問題に気付く。雇うという事は、給料を支払うという事だ。一体下女には、いくら位支払うのが相場なのか。日給なのか月給なのか。だが、さらに宵は自分自身がまだ給料を貰っていない事にも気が付いた。
急に青ざめる宵を見た清華はクスリと笑った。
「軍師様。わたくしの事はご心配なさらないでください。わたくしは下女ではなくなりましたが、間諜として働くので、軍からお給金を頂きます」
「え? え!? 清華さん?? 今……何て??」
「ですから、間諜として働くので、軍から」
「駄目です! 間諜の話は、飛麗さんの存在を確かめる為に、貴女達下女と接触する為の口実で本心じゃありません! そう言ったじゃないですか?」
「ええ。ですが、わたくしは軍師様に助けられた身。本当に嬉しかった。このまま毎日辱めを受けるのかと絶望しかけた矢先、軍師様が救ってくださいました。感謝してもしきれません。だからわたくしは、軍師様の為に命を尽くして従うと決めたのです。わたくしには家族や親戚もいません。戻る場所もないし、死ぬのは怖くないです」
「でも……そんな」
「もう決めたのです。戦に間諜は必要なのでありましょう? 大丈夫、上手くやります。もし、お許し頂けなくとも、わたくしは勝手に敵国に潜り込んで情報を持ち帰ります」
素朴な見た目とは裏腹に、清華は肝が据わっていて結構頑固なようだ。宵は少し考え、そして溜息をつく。
「分かりました。勝手に行動されても困りますから、きちんと間諜のお仕事を説明します。この後、他に歩曄と甘晋という間諜候補の方も来るので、詳しくはその時に」
「やった! ありがとうございます!」
清華は正式に間諜に認められた嬉しさを素直に表に現した。その喜び方にはまだ少し幼さが残っている。こんな宵と差程変わらない歳の娘を間諜に送り込んで大丈夫だろうか。
「清華なら大丈夫ですよ」
宵の心を読んだかのように、劉飛麗が言った。
「清華は頭も良いし、機転も利きます。そして勇気も持っています。捕まるようなヘマはしません。適材適所だと思います」
清華を知り尽くしているかのような劉飛麗の言葉に、宵の不安は消えた。いつも劉飛麗の言葉には絶対的な安心感がある。
「無茶は絶対しないでね。死ぬ事は禁止します」
「心得ました」
清華は拱手して応えた。
それを見て、宵は清華の耳元にそっと口を近付ける。
「ところで……下女のお給金って、いくら位が相場?」
宵の突然の下世話な話に、真面目な顔をしていた清華は吹き出して笑った。




