飛麗さんを探して
楽衛と安恢に陣形の基本を伝授し、調練の視察を終えた瀬崎宵は、その後、楽衛に間諜に適した兵士を5人程紹介してもらい、それぞれ話をしてみた。
ところが、どの兵も間諜を任せられるかどうか、宵には判断がつかなかった。どの兵も、優秀そうに見える一方、凡庸にも見えてしまった。決定的な決め手がないのに、命の危険のある敵国内に送り込む事は出来ない。
明日、李聞や他の将校達の部隊の兵士も見に行く事にして、今日のところは一旦部屋に戻る事にした。
宵は外にいた下男に茶を淹れて貰うと、一口飲み、そして、成虎と龐勝に渡す兵法書の作成を再開した。
竹簡に文字を認めている最中、昼食を運んで来たのは鍾桂ではなく下男だった。最早、食事に関しては宵が頼まずとも勝手に用意されるようだ。
宵は下男が持って来てくれた食事を残さず綺麗に食べ切った。
♢
兵法書が完成したのは夕食を終えた頃だった。
夕食を運んで来たのも鍾桂ではなく下男。
朝食を運んで来て以来現れない鍾桂。まだどこの部隊も出撃したという報告はないが、こうも会えないと少しもどかしい気持ちになる。
宵は卓の上に広げたままの自筆の兵法書に目をやった。
兵法書と言っても、宵の自説などは入っていない孫子の写し。書き始めると止まらなくなり、当初予定していた内容よりも多く書いてしまっていた。
書いたのは、『始計』『作戦』『謀攻』『軍形』『兵勢』『虚実』『軍争』『九変』『行軍』『地形』『九地』の11篇。一部だけ伝授するつもりだったが、考えてみれば、孫子は前の篇での内容とそれ以降の篇の内容が密接に関係している事があり、部分的に書いてもその極意が伝わらない可能性がある。故に、全13篇中、11篇を書く事にしたのだ。
成虎と龐勝、それぞれに1巻ずつ渡す為、同じ物を2巻書こうかとも思ったが、流石に疲労困憊だった。原本があれば、あとは成虎と龐勝の兵が書き写してくれるだろう。
やるべき事を終えた宵は、寝台にゴロリと横たわった。
1人切りの部屋。まだ深夜というわけでもない。寝るには少し早い気もする。
そう思った宵は寝台から身体を起こすと、祖父の竹簡だけを持ち部屋を出た。
部屋の外には下男が待機していた。
「少し出掛けます。部屋には誰も入れないように、見張っていて貰えますか?」
「かしこまりました。軍師殿」
“お願い”をしたつもりだが、“軍師殿”と返されると、何故か命令をした気分になり、違和感を覚える。まあ、それもそのうち慣れるだろうと考え直し、宵は蝋燭と月明かりだけの仄暗い通路を歩き、廖班の部屋を探した。
廖班の部屋の場所を知らない宵は、その辺に控えている下男に場所を聞き案内してもらった。至る所に下男がいるのはとても便利である。ただ、昼間は何人か居た下女が、この時間になると1人も見掛けない。宵はそれが少し気に掛かった。
廖班の部屋は宵の部屋のある場所から歩いて5分程の所だった。宵の部屋は内城の中にある廖班の屋敷の一部分で、言うなれば、宵は廖班の家の部屋を借りている状態だ。
宵の部屋とは比べ物にならないような、建物丸々一つの部屋は、外観からして偉い人間が住んでいるのが容易に想像出来る。
明かりの入った灯篭の並ぶ石畳の先に、ちょっとした階段があり、その上には障子の襖がある。襖の前には鎧兜を纏った兵士が2人、槍を携え入口を護るように直立していた。
きっとこの部屋に劉飛麗がいる。
宵がゆっくり近付くと、2人の兵士は槍を互いに交差させ宵の行く手を阻んだ。
「廖班将軍に用があり、お目通り願いたいのですが」
「申し訳ございませんが、廖班将軍に何人も通すなと言われております。お帰りください」
「私は軍師です」
「存じ上げております。さりとて、どなたであろうと、通す訳にはゆかぬのです。急用であればお伝えしますが?」
「急用という訳では……」
「ならば日を改めてお越しください」
頑なに通さない兵士を押し切ってまで通る事が出来る筈もなく、宵は渋々一歩引いた。
“軍師”という肩書きは、廖班の前では大した力がなさそうだ。そもそも官爵を貰った記憶がないので、名ばかりの軍師なのかもしれない。
肩を落とし、今日の所は帰ろうと踵を返した時、部屋の方から女の喘ぎ声が聞こえた。
思わず振り向く宵。しかし、目の前の光景は先程と変わらず、兵士が2人、平然とした顔で直立しているだけ。声は間違いなく、襖の向こうから。
女の喘ぎ声は留まる事を知らず、しばらくの間辺りに響き渡った。それは快楽に浸るような、生々しく厭らしい声。年頃の宵は顔を真っ赤にするような状況だが、そうはならなかった。
──声の主は劉飛麗ではなかろうか。
──廖班に無理矢理夜の相手をさせられているのではないか。
そんな恐ろしい妄想が宵の頭を駆け巡るが、事実を確認する術はない。祖父の竹簡を握る手に力が入る。
宵は得体の知れぬ不安と、無力な自分への苛立ちを抱えたまま、その日の劉飛麗捜索を泣く泣く諦めた。
♢
廖班の部屋を後にし、宵はまっすぐに自室に戻り寝台に潜り込んだ。さっき聞こえたのは劉飛麗ではなく別の女の声に違いない。劉飛麗は誰とも結婚するつもりはないと言っていた。だから廖班なんかの夜の相手もする筈がない。
そう言い聞かせても、廖班の部屋に劉飛麗が入って行くのを見たという下男の情報、下女という劉飛麗の弱い立場、そして、劉飛麗の飛び抜けた美貌を思うと、廖班に抱かれていないと思う方が難しかった。
「飛麗さん……」
大嫌いな廖班に、姉のように慕う劉飛麗が汚されてしまう事は、宵にとって耐え難い苦痛だった。
悔しさに枕を濡らす宵……だが、布団の中でその拳を握り締めた。
「私は……軍師。大切な人は私の知謀で取り返す」
この瞬間、宵の軍師の血が猛烈に滾ったのだ。




