連鎖する不穏
春秋学院大学の考古学研究室の机の上にはカップ麺の空の容器やおにぎりの包装フィルムが散乱し、お茶のペットボトルや紅茶の紙パック、栄養ドリンクの空き瓶が、中央に広げられた竹簡を避けるように端に追いやられていた。
瀬崎宵の母から預かった竹簡の解読は思いのほか難航した。一晩で終わる見込みだったが、結局翌日の昼過ぎまでかかり、歴史学教授で武経七書研究ゼミ担当の司馬勘助、生徒の貴船桜史、厳島光世の3人は疲労と睡魔との戦いを強いられていた。
「まさか、本当に瀬崎教授の空想国家の話だったとはな」
作業の終了を告げるように、司馬教授は頭を掻きながら苦笑して言った。
「閻帝国、朧国、鳴国、蓬国……中国史に出て来そうな国名ですが、どれも実在しませんね」
桜史は机に広げた竹簡を見て言った。
徹夜で文脈が通るように並べ替え、折れた竹片は接着剤で固定し、計48本の竹片を細い麻紐で繋ぎ合わせて完璧に修復された竹簡は、やはり何の変哲もないただの竹簡だった。内容は瀬崎潤一郎の空想の国家の事が記されただけ。それが宵が倒れた事と関係しているとは到底思えない。
「瀬崎教授が漢文で空想の国家の話を記すとは思わなかったから、何か他に意味があるんだと考えが、結局ただの趣味を記した竹簡だった」
「えー、でも司馬教授。じゃあ何で宵はこの竹簡を部屋にバラバラにして倒れてたんですかね? よっぽど気に入らない内容だったから怒って壊した……っていうならまだ納得出来ますけど、瀬崎教授が書いた空想の国の話を宵が壊しますかね? そもそも、そんな気性の荒い子じゃないし。絶対この竹簡何かありますよ。ここに書いてあるように竹簡はもう1巻あるなら、そっちに秘密があるんじゃないですか?」
光世は眉間に皺を寄せ、竹簡の一番最後の文を指さして言った。
「そうだな。もう1巻が存在しているならそちらも調べたい気持ちはあるが……瀬崎さんが倒れた事とは関係ないだろう。竹簡に呪いでもかけられてるわけじゃあるまいし。ま、導入の文章は創作物としては面白いがな。流石、瀬崎教授だ」
「導入の文章……“困った時は声に出して読め”的なやつですよね? 怪しさムンムンだと思いますけど、私は」
「そうは言っても、声に出して読んでも何も起こらなかっただろ」
どうあっても竹簡が魔法の竹簡だと思いたい光世に、司馬教授は少し休みなさいと、熱いインスタントのコーヒーの入ったカップを差し出した。
難しい顔で竹簡を見つめたまま腕を組んで黙りこくっている桜史にもコーヒーが差し出された。
丁度その時、光世のスマートフォンに着信が入り、その軽快なメロディが研究室に鳴り響いた。
その着信は宵のスマートフォンからだった。慌てて光世は応答する。
「はい! 厳島です! ……あ、お母さん」
電話の相手はどうやら宵の母のようだ。
このタイミングで母からの電話という事は、宵が意識を取り戻した連絡だろう。そう思った桜史と司馬教授だったが、光世の反応にその安穏とした態度を改めさせられた。
「え!? 宵が? いなくなった!?」
光世の穏やかではない言葉に、コーヒーカップを机に置いて思わず立ち上がる司馬教授。桜史は声も出ずにただ固まっている。
そして、しばらく話した後、光世は電話を切った。
「いなくなったって? どういう事? 厳島さん」
深刻な顔の光世に桜史が尋ねる。
「朝はいたんだって。昨日と同じようにベッドで寝てたって。でも、宵のお母さんとお父さんが一瞬目を離した隙に……消えちゃったって……」
「消えた!? 病院から抜け出したって言うのか?」
珍しく大きな声を出した桜史の問に、光世は首を横に振る。
「ご両親が部屋にいた時だから、ドアからこっそり出て行くなんて出来ないって。窓から飛び降りたわけでもない。ホントに消えたんだって……」
光世は青白い顔をして言った。
桜史はにわかには信じがたい状況にまた言葉を失う。
「警察には届けたって?」
言葉を失った桜史の代わりに司馬教授が訊いた。
「はい。病院中捜しても見付からなかったから、さっき警察には捜索願を出したって……どうしよう……何が起きてるのかな……」
光世の問に答えられる者はここにはいない。
胸の前でスマートフォンを両手で握り締めたまま、光世は桜史と司馬教授の返事を不安そうに待つ。
「人が消える……そんな事があるはずないよ」
口を開いた桜史だったが、不安そうに唇に曲げた人差し指を当て俯く。
一方の司馬教授は目を瞑り顎髭を何度も撫でた。
ふと、光世が思い出したように呟く。
「困った時は、声を出して読め……」
そして、机の上の竹簡を睨む。
「『進退極まれし時、声を発し唱えよ。今宵、兵が集う戦乱の国に誘わん。徒し世なる閻、或いは朧、或いは鳴、或いは蓬にて……』」
光世が竹簡の漢文を途中まで読んだ時、突然光世は目を見開いたまま硬直してしまった。開かれた瞳が必死に何かを追うように上下左右にキョロキョロと動いているだけで、まるで感電しているように身体を小刻みに震わせている。
「え……厳島さん??」
普通ではない光世の様子に桜史が気付き、硬直し痙攣している光世の肩に手を置いた。
「っ……!?」
すると今度は桜史までもが光世と同様に硬直し痙攣した。
「おいおい、どうしたんだ2人とも!?」
驚いた司馬教授が2人に駆け寄ろうとしたその時、光世と桜史の身体から硬直が解け、ガクッと膝から崩れ落ち床に倒れた。
「冗談だろ!? 何なんだこれは!? おい! 2人とも、しっかりしろ!」
重なり合って床に倒れている2人に司馬教授は必死に声をかけ肩を叩く。
しかし、2人が起きる事はなかった。
突然の出来事に動揺しながらも、2人の脈や呼吸を確かめ生きている事を確かめる。
「とりあえず、救急車……」
上着の胸ポケットからスマートフォンを取り出し立ち上がった司馬教授の鼻が何かが焦げるような異臭を感じ取る。そして、その臭いの元を見ると、それは机の上の竹簡だった。束ねる紐の部分から白い煙が薄らと立ち昇ったのを見た。
その煙も臭いもすぐに消えてしまったが、竹簡が何かしらのエネルギーを発した事は明らかだった。
「瀬崎教授……貴方は一体何を作ったのですか……」
故人への問い掛けは当然答えを得られず、その問い掛けだけが1人きりになった部屋に虚しく響いた。




