泣かないで
鍾桂は何も言わずに宵の手を引いた。
「やめて!」
咄嗟に宵は鍾桂の手を振り払う。
理由は何も分からない。分からないが、鍾桂の表情から良くない事が起こっているのだと感じた。
手を振り払われた鍾桂はただ宵を見て立ち尽くしている。
「説明してよ鍾桂君。いきなりこんなの……怖いよ」
宵の問い掛けに鍾桂は俯いたまま答えない。ただ拳を力強く握り締めているだけだ。
「鍾桂君。話してくれないと分からない。どうしたの? 何があったの?」
宵の問い掛けに、鍾桂はようやく顔を上げ口を開く。
「俺と一緒に、軍に戻って来て欲しい。君の力が必要だ」
「え!?」
宵はもちろん、程燐械も劉飛麗も一様に声を上げる。
予想はしていたが、鍾桂の口からその誘いが来るとは思わなかった。
「豊州はまだ離れているから知らないのかもしれないけど、実は朧国の軍が葛州の国境、景庸関に侵攻を始めた」
「何だと!? つまり、それは戦が始まる……という事か?」
目を丸くした程燐械が言った。
「ええ。そうです。まだ朧軍は景庸関に到達していませんが、あと5日もすれば景庸関への攻撃が始まるでしょう」
「そんな……この平和な閻が……戦だなんて」
程燐械は鍾桂の衝撃的な話に頭を抱えて項垂れた。兵士の格好をした鍾桂が口にする“開戦の報せ”は一介の役人に過ぎない程燐械に計り知れない衝撃を与えた。
一方、すでに賊軍との戦闘を経験している宵は、その報せに程燐械程の衝撃は受けなかった。それよりも複雑な心境が宵の心を駆け巡っている。
「ん? 待てよ。仮に戦が始まるとして、何故宵が連れて行かれる? 宵はただの役人だぞ? 軍人ではない。軍に戻れと言ってなかったか?」
程燐械の疑問は尤もだ。ただの下級役人である宵が軍と関与している等考えられないのは当然。宵も梟郡に来てから兵法の話も汐平での話も口にしなかったのだから。
程燐械の疑問に宵も鍾桂も答える事はない。宵の軍との関与は極秘事項。他に漏らせば軍令違反として罰せられる。
それを分かっていながら、鍾桂は程燐械の前で“軍に戻れ”と言ったのだ。余程逼迫した事態なのだろう。
「詳しい事は話せませんが、俺は宵を連れて行かなければならない。そう命じられた」
「廖班将軍の命令なの? 鍾桂君。私、もう関わりたくないから、だからここにいるんだよ? 知ってるよね?」
「知ってる。知ってるさ。でも、廖班将軍の命令を聞かないわけにはいかないんだ」
「そっか……」
宵は小さく息を吐いた。仕方がない。軍は国を守る為に必要な人材を求める。その人の意思は関係ない。
それにしても、鍾桂を寄越すなんて残酷だな──
「鍾桂く──」
「やっぱり、忘れてくれ」
宵が返事を返そうとした矢先、鍾桂は突然首を振りながら後退りを始めたかと思うと、踵を返し暗い人通りのない街の方へと走っていった。
「あっ……」
宵が呼び止めようと声を掛けるより先に、走り出した鍾桂は暗闇の中で両膝を突き、そして自ら地面に頭を何度も打ち付けて慟哭し始めた。
ただ事ではない。
驚いた宵は鍾桂のもとに駆け付け、身体を起こして自傷行為を止めさせた。
「鍾桂君!? やめて! 何があったの!? ちゃんと話してよ! 私、話聴くから、ね?」
鍾桂の兜は砕け、額から血が流れている。
「ごめん、ごめんな、宵……俺……」
興奮したまま嗚咽混じりに謝罪を述べる鍾桂を、宵は優しく抱き締めた。
「うん。大丈夫。ゆっくりでいいから、落ち着いて話して」
「俺……君をもう戦に巻き込みたくなかった。なのに、こうして君のところに来て軍に戻れだなんて……」
「鍾桂君が私の事をちゃんと考えていてくれた事は分かったよ。ありがとう」
宵が優しい言葉を掛けると、鍾桂は歯を食いしばり宵の胸から離れた。そしてズルズルと膝を地面に突いたまま後退し、改めて宵と向かい合い、震える唇を開いた。
「俺は、廖班将軍に“宵を10日以内に連れて来なければ家族を逮捕する”と言われた」
「……え!?」
「だから俺は考えた。宵と家族、どちらを選ぶか。考えて……考えて……だけど、気が付いたらすでに5日経っていた。もう訳が分からなくなった。とにかく動かなきゃ……そして、俺はここに来ていた……ごめん。俺は、家族を選んだんだ。君を、君を裏切っ」
言いかけた鍾桂を宵は再び抱き締めた。
「言わないで。私はそんな風に思ってない。君は何も悪くないよ鍾桂君」
「……宵。でも君を戦場に連れ戻す事になってしまう……君が忌避した戦場に……だから俺は」
「5日も悩んだんだよね。凄く辛かったよね。でも、もう大丈夫だよ。私、戻るから。話してくれてありがとう」
額から血を流し、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの鍾桂に、宵はニコリと微笑んだ。
「宵……」
「だからもう泣かないで。戦場に行ったら、君が私を守るんだから、ね?」
鍾桂は唇を噛み締め、また嗚咽を漏らしながら宵の胸で泣いた。そんな鍾桂の背中を優しくさすってやった。大きい男らしい背中なのに、今はとても弱って見えた。
「泣かせるじゃないか、お前達」
袖で目元を拭いながら程燐械が抱き合う宵と鍾桂のもとにやって来た。隣には劉飛麗の姿もある。
「程燐械殿……あの、申し訳ございません。私、急に衙門を辞めなければならなくなりました」
突然の退職願に程燐械は黙って頷いた。
「宵、お前が何故軍に必要とされてるのかは、詳しくは聞かない。お前が衙門に入ったのも李聞殿の推挙だったし、まあ、事情があったんだろう。お前が只者じゃないってのはここ数日の仕事振りで理解した。衙門の心配はいらん。謝響先生もいるしな。ま、尤も、戦となっちまったら俺達も仕事どころじゃなくなりそうだ」
「感謝致します。短い間でしたが、お世話──」
「待て。何言ってるんだ、お前。さっさと戦を終わらせて戻って来いよ。それまで休職扱いだ。お前のような有能な人材をみすみす逃すものか」
「程燐械殿……分かりました! また戻って来ます」
「宵様」
静かな声が、宵の耳に届いた。劉飛麗。終始無言で程燐械の隣に立って宵と鍾桂の会話を聴いていた。1人で軍に戻ると決めてしまったが、まだ劉飛麗の意見を聞いていない事にようやく気付いた。
「はい……飛麗さん。すみません、私、勝手に決めちゃって」
劉飛麗の表情は無。どういう感情を抱いているのか読み取れない。そういう所が、少しだけ怖かった。
「仕方ありませんよ。人質を取ってまででも貴女の力が必要。そういう事でしょう。とにかく、鍾桂様を家の中へ。手当致します」
劉飛麗はそう言うと、踵を返し家の方へと歩いて行った。




