兵は国の大事なり
「張雄さん。怒らないで聴いてくださいね」
宵は恐る恐る前置きをすると、一つ息を吐いてからまた口を開いた。
「結論から申し上げますと、貴方のその提案には同意出来ません」
宵の拒絶に張雄の眉が動く。
「……理由を、聴こうか」
思いのほか張雄は冷静に応じたので、宵は頷きまた口を開く。
「そもそも、張雄さんの今のお話を聞く限り、閻帝国が他国と交戦状態にあるようには思いませんでした。先の汐平での戦も、賊を退ける為の戦闘行為であり、国家間の戦争ではない。そうですね?」
「如何にも。閻帝国は今のところ他国と戦争はしていない状態だ」
「国家を守る為に、防備を整える事には賛成です。備えがなければ、他国に襲ってくださいというようなものですから」
「おう、そうだ。分かってるじゃないか。若いのに大したものだ」
「しかし、国防の為に、鉄馬族の兵馬を奪うような事はやってはいけません。その行為は、私達が戦った賊軍と同じものです。何の罪もない鳴国に進攻し略奪をする。これは人道から大きく外れています。こちらが手を出せば、必ず相手は報復してきます。こちらから戦を仕掛ける事になるのです」
「何だ。どんな理由かと思えば、単なる綺麗事か──」
「“兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せずんばあるべからざるなり”」
鼻で笑っていた張雄だったが、宵の言葉を聞き目付きを変えた。
「戦とは、国民の生命はもちろん、国家の存亡がかかった一大事なのです。貴方のような一臣下に過ぎない方が、軽率に戦を起こそうなどとは考えてはなりません。戦とは避けるべきであって、自ら進んでするものではありません。これは、孫子の兵法の基本的な考え方です」
「戦をしない事が、兵法の教えだと?」
張雄は眉間に皺を寄せて宵を睨む。背の高い張雄に睨まれると恐怖で身体が硬直してしまう。だが、ここで言い返せなければ、また戦に巻き込まれてしまう。しかも、勝ち目のない戦にだ。
宵は目を瞑り、呼吸を整えると、再び張雄へ反論する。
「はい、そうです。兵法には、戦を起こす前に、熟考せねばならない事が12ヶ条あります。それを“五事七計”と言います」
「むう……」
張雄は難しい顔をして顎髭を撫でる。
「その中の“七計”に“主孰か道有り”、つまり、君主はどちらが道理を踏んでいるか。という考慮すべき項目がありますが、張雄さんの提案は、明らかに道理を踏んでいません。こうなれば、他の考慮すべき事項を例え満たしていたとしても、戦を始めるべきではないのです。これを無視して戦を始めても、確実に敗北します。無論、国家は滅亡するでしょう」
そこまで言うと宵は厳つい張雄の顔から視線を逸らした。視界に入った劉飛麗は、相変わらず俯いたまま、美しい彫像のように固まっている。
「ふん。兵法というのは詭弁にも使えるのだな。偉そうな事を言っても、本当は強敵の鉄騎兵を倒す策がないのであろう? 戦をするなと言うのなら、謀略を用いて鉄馬族を味方に引き込む策を申せ! それならば戦にはならぬだろ?」
張雄の横柄な態度と兵法を馬鹿にするような発言に、流石の宵も苛立ちが募り始める。
「張雄さん、貴方は“兵法”というものを勘違いなさっているようですね。“兵法”は何でも出来る妖術でも仙術でもありません。人が生み出した“学問”なのです。出来る事には限界があります」
「御託はいい! さっさと鉄騎兵を奪う謀略を申せ!」
「謀略はありません。そんなに欲しいのなら外交によって交渉し、借りるのが道理です」
先に癇癪を起こした張雄の恫喝に対し、宵は冷静にその愚かな男に道理を説く。
「貴様……!!」
張雄は顔を真っ赤にし宵の胸ぐらを掴み、右手の拳を振り上げた。
──殴られる。
「おやめください!」
目を瞑った宵の耳に、凛とした劉飛麗の声が響く。
目を開けると、張雄は宵の胸ぐらを掴んで拳を振り上げたまま、後ろの劉飛麗を見て動きを止めていた。
先程まで彫像のように固まっていた劉飛麗は、顔を上げ、無表情で張雄を見つめていた。
「宵様に手を上げるのはおやめください。わたくしが、見ておりますよ」
全く臆する事なく、劉飛麗は大柄な張雄に言い放つ。
すると、張雄は舌打ちをして宵の胸ぐらから手を離す。
「下女風情が……」
張雄は嫌味を込めてそう呟くと宵に背を向け、玄関に歩いていき、乱暴に戸を開いた。
「先程の話は聞かなかった事にしろ。兵法が役に立たないものだという事は良く分かった。もうお前に会う事もないだろう」
そう言って張雄はピシャリと戸を閉めた。そして、馬蹄の音が遠くへと離れていくのが聞こえると、宵は一気に脱力し寝台に座り込む。
「はぁ……」
「宵様! 大丈夫ですか? お怪我は?」
劉飛麗はすぐに宵に駆け付け、肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。ちょっと……怖かっただけです。それより、飛麗さん、助けてくれてありがとうございました」
「わたくしは、主の危機に当然の事をしたまでです。お怪我がなくて安心しました」
言いながら劉飛麗は、宵の乱れた衿を直してくれた。劉飛麗の髪には、可愛らしい桃色の花の簪があるのに気が付いた。今までも付けていたのだろうが、しっかりと認識したのはこの時が初めてだった。
「飛麗さん、その簪、可愛いですね」
宵が言うと、劉飛麗は一瞬衿を直す手を止めたが、またすぐに宵の服を整え始めた。
「これは、わたくしの大切な……宝物です」
劉飛麗は微笑みながらそう答えると、スっと立ち上がった。
宵はこの時確信した。劉飛麗が悪人ではない事を。例え廖班の命令で宵を監視しているのだとしても、それでも劉飛麗は悪人ではない。きっと廖班の命令とは別に、宵に何かを感じている。
「さ、宵様。早くお休みください」
「あ、あの、飛麗さん」
宵は頬を染めて劉飛麗を見つめる。
「はい、何でしょう?」
「ほっとしたら急に御手洗に行きたくなりまして……」
「ああ、どうぞ」
「えっと、実は……使い方が分からなくて……ずっと我慢してたんですよ……ね……はは」
たじろぐ宵を見た劉飛麗は満面の笑みを浮かべ、宵の両手を握り立ち上がらせた。
「気付けずに申し訳ございませんでした。宵様。でも、それなら恥ずかしがらずに仰ってくださればいいのに。わたくしは宵様の下のお世話をする事も大歓迎でございます!」
「あの……! 飛麗さん、どうしてそんなに嬉しそうなんですか?? ちょっと怖いんですけど」
「下女にとってご主人様のお世話が出来る事は喜び以外の何ものでもありませんわ。さあ、厠はこちらです。ずっと見ておりますから安心してくださいませ」
「え!? 飛麗さん? 何言って……」
「冗談ですわ」
「飛麗さん、冗談言うんですか!?」
劉飛麗は無邪気な笑顔を見せた。つられて宵も笑う。
その笑顔は、大学の仲間達と同じ。親しみの持てる自然な笑顔。
宵はこの夜、劉飛麗と少し打ち解けたような気がした。




