お世話係の鍾桂君
一難は去った。
だが、これから実際に“戦”が始まる。その場所に瀬崎宵は同行しなければならない。手首を麻縄で縛られ、1人の男の監視を受けながら。
「君凄いね。まさか本当に献策してそれが実行される事になるなんて。どんな策を立てたのかは知らないけど」
「いえ、そんな。私には兵法しか取り柄がありませんので」
ずっと靴無しで歩いていた宵に、牢番の鍾桂は予備の履物を何処かから調達しておいてくれていたので、宵は汚れたストッキングを脱ぎ、ようやくまともな靴を履いた。だが、鍾桂はすぐに宵の手首から伸びる麻縄を左手に何重にも巻き付け陣内を歩かせた。その姿はまさに主人と奴隷。気分の良いものではない。ただ、水が欲しいと言うとすぐに用意してくれるのでそれだけは本当にありがたかった。
周りの兵達は退却の準備で忙しなく走り回っているが、鍾桂だけは宵にピタリとくっつき離れる事はない。
「あの、鍾桂さん。ずっと私は縛られたままなんですか?」
「そりゃそうだよ。一応君はまだ間者の疑いがあるんだから。この戦いで廖班将軍が勝つまではずっとこのまま。俺もそれまでは君のお世話係兼監視役。宜しく。宵」
鍾桂は嬉しそうにニコリと笑った。
「ずっと……」
宵は溜息をつく。しかし、鍾桂の笑顔に一縷の望みを見いだし、宵は思い切って切り出した。
「鍾桂さん。私のお願い、聞いてくれません?」
「ん? 聞ける範囲なら聞いてあげるよ。喉乾いた? お腹空いた? あ! 厠?」
宵は首を振る。そして鍾桂の耳元で囁く。
「私を……逃がしてもらえませんか?」
だが、鍾桂も首を振った。
「それは出来ない。俺はこの軍の兵士だ。捕虜を逃がすのは軍律違反。その場で斬られる。俺には故郷に両親も弟もいる。家族を悲しませるわけにはいかない。ごめんね。君も死にたくはないだろうけど、俺も死にたくない」
鍾桂は申し訳なさそうにいうので、宵はさすがにそれ以上頼むのをやめた。異世界と言えど、ここに存在する人々は宵と同じ人間。アニメやゲームのキャラクターなどではない。れっきとした人間。それはこれまで身体に触れられてきたから分かる。最初に宵を拉致した兵も、優しく肩に手を置いてくれた李聞も人の温かさがあった。
「そうですか……」
「そもそも、逃がして欲しいって、ここで軍師になりたかったんじゃないの?」
「……あ……はい……」
宵は俯き、ただ絶望した。鍾桂に真意を話すのは早かったか。
何も悪い事をしていないのに捕まり、命の危機に瀕している。早く元の世界に帰りたい。知らない世界でたった1人、無実の罪で死ぬのなら、元の世界で就活に心を削られ悩んでいた方がどんなにマシだっただろうか。
知らず知らずのうちに、宵の目からは涙が零れ嗚咽を漏らす。
「な、泣くなよ宵」
鍾桂が宵の肩に手を置いた。その手の温もりもやはり本物の人間だ。
「君の策が上手くいけば、捕虜の立場から解放されるんだから。そしたら、君も軍師として登用され自由になれる。確かに今は、捕虜の立場で何されるか分からないから逃げ出したいよね。なら、君が軍師になるまで、理不尽な仕打ちを受けないように全力で庇うから。だからさ、泣かないでよ」
宵は鍾桂の優しい言葉に頷きながら、縛られた手で涙を拭った。
兵卒の鍾桂の力が軍でどれ程のものかというのは、宵にはよく分かっている。しかし、鍾桂の優しさは宵の崩れそうな心に沁みた。
「ありがとう……。貴方は優しいんですね。それに、軍律も守れる優秀な兵士。きっと、故郷の御家族も誇りに思ってますよ」
「そ、そんな事……、あ、あのさ、宵。もし、良かったら……」
「おい! 鍾桂! 移動の準備が出来た。宵を馬に乗せて進発せよ。お前と宵は俺の麾下に入れ」
鍾桂が何かを言おうとしたが、突如現れた李聞の大声でそれは掻き消された。
「御意! すぐに!」
「いいか、鍾桂。宵を逃がす事も許さんが、死なす事も許さん。もし死なせたらお前の首も跳ぶぞ。賊を退けて荒陽へ帰るまでは命懸けで守り抜け。いいな?」
「この鍾桂、私が死すとも、宵を守り抜きます!」
鍾桂は頼もしく李聞に言ってのけると、宵の縄を引き、退却の準備を始めた。