初めての献策《支形》
この策の善し悪しで宵の命運が分かれる。もちろん、実戦が初めての素人学生の献策だ。成功するビジョンは見えない。しかし、今持てる知識を絞り出して立てた策。これが駄目ならもう何をやっても駄目だ。大丈夫。兵法を知っているのはこの中では自分だけ。自信を持て。そう自分に言い聞かせ、宵は恐る恐る地図に指を置き口を開く。
「まず10里 (4km)後退します。この2本目の墨水という川まで渡河し、川岸から離れてこの汐平という所に布陣。2本の川で我が軍と敵軍の間に障害を作ります」
「後退だと!? 敵から逃げろと申すか!?」
案の定、廖班はまた怒鳴り声を上げた。
「こ、後退は逃走ではありません。立派な作戦です。今、平地でこちらの倍近くの兵力の敵に正面から当たれば、攻撃しても防御しても負けます。ですから、2本の川を利用して敵を撃ちます。兵法で言うところの“支”の地形を作り出し敵を誘い込むのです。そうすれば、敵に兵力で劣っていても有利に戦えます」
「“支”の地形?」
廖班が眉間に皺を寄せて言うと、周りの将校達も首を傾げた。
「はい。『我出でて利あらず、彼出でて利あらざるを支と曰う。支形にては、敵、我を利すと雖も、出づる無きなり、引きてこれを去り、敵をして半ば出でしめてこれを撃たば利あり』」
「つまり、どういう事だ?」
苛立ちながら廖班が問う。
「つまり、お互い不利な地形である“支”の地形では、その力関係を破り先に動いた方が負けるので、敵がこちらに仕掛けて来るのを待ち、敵の半数が2本目の墨水の途中まで差し掛かった時に一気に矢を射掛けて倒します。兵法では『客、水を絶りて来たらば、これを水の内に向かうる勿れ。半ば済らしめてこれを撃たば利あり』とあります。敵の半数が川の半ばに差し掛かるまでは手を出さず、時が来るのをひたすら待つのです」
「敵が来るのを待つのか。呑気な作戦だな」
「そんなもので勝てるのか」
宵の策を聴いた周りの将校達は口々に不満を漏らす。宵は命懸けで重大な献策をしているというのに、この男達は皆真面目に聴いていない。武将というのは勇猛果敢に敵に突撃して勝利する事しか考えていないのだろうか。そんな事をしてきたから今まで負け続けたのではないか。募る苛立ちを抑え、心の中で愚痴りながら将校達が黙るのを待った。
「張雄、安恢黙って最後まで聞け」
李聞が文句を言った2人の将校を諌めると2人はピタリと大人しくなった。李聞に目で続けるよう促されたので宵はまた口を開く。
「敵も兵法を知らないのであれば、川に誘い込むだけで勝てます。恐らく、罠とも知らず平気で川に入るでしょう。腰程の深さなら動きも緩慢になり恰好の矢の的です」
「ふむ」
廖班が初めて頷いた。いけるかもしれない。宵の心には僅かに自信が湧いてきた。そして、会社でプレゼンをするかのように、饒舌に話を続ける。
「仮にこの策が採用された場合の準備をご説明致します。まず、今夜の内に全軍は渡河し10里後退。敵にはこの動きを気取られないように、今の陣営はここに残しておきます。もちろん、松明は燃やしたまま、あたかもまだこの場所に兵がいるかのように見せるのです。夜間の移動中に敵に攻撃されたら堪りませんので」
「陣営をこのまま捨てる……か」
李聞が顎髭を撫でながら難しい顔をして唸る。
「大丈夫です。勝てばまた取り戻せます。それよりも、矢は2千本では足りません。朝までに荒陽からあと2万本補充してください。10里後退すれば荒陽からの物資の輸送も楽になります」
「お待ちください!」
将校の1人が一歩前へ出た。反論か。宵は唾を飲み身構えた。
「何だ? 楽衛」
廖班が発言を許す。
「やはり後退は納得出来ません。そのような事をするのなら、今夜敵陣に夜襲を掛けた方が打撃を与えられるのではないでしょうか?」
「ああ……それはあまりお勧め出来ません」
宵は即座に楽衛の提案を否定した。
「何故だ、宵。理由を言え」
廖班が言った。
「はい。確かに、敵の虚を突く夜襲は有効な戦法です。しかし、今この軍の兵達は連敗続きで士気が低いように見えます。それに敵の数は倍以上。このような状況でこちらから攻めても、敵を殲滅する事は難しい。もし半分も倒せずこの本陣に撤退したとしましょう。状況は今夜と変わりません。むしろ徐々にこちらも兵が減っていき勝機を逃します」
そこまで言うとその場の全員が黙ってしまった。ただ机の上に広げられた地図に目を落とし、幕舎内は静寂に包まれた。
散々文句を言っていた廖班や将校達も反論してくる気配はない。
「廖班殿。宵の策を採用するなら今すぐご決断を。確かに、宵の言う事は理があります。良く状況を見ています。このまま同じ戦い方をするか、奇策に出るか」
李聞が宵の策を褒めながら廖班に宵の献策の是非を問う。
この答えで宵が生きるか死ぬかが決まる。
死にたくない。やるだけの事はやった。初めての場所で、武装した見知らぬ男達の前で、持てる知識を総動員して献策をした。実戦は初めてだ。もしかしたら勝てないかもしれない。でも、策が採用されれば、とりあえずこの場は乗り切れる。
宵は普段は祈らない神に、この時ばかりは心の中で地面に額を擦り付けて土下座して祈った。
「戴進、荒陽より急ぎ矢を2万本補充せよ。張雄、安恢、楽衛、陣を10里後退する。準備せよ」
「え!? ……あ、ぎょ、御意!」
廖班の命令で将校達は慌てて幕舎から出て行った。
信じられない気持ちだ。策が採用された。宵が将校達が出て行った幕舎の入口を見ていると、隣にずっと一緒に立っていた李聞が宵の肩に手を置き、“良くやった”と目で言い頷いた。
それを見て宵はやっと肩の力を抜いた。