6「俺とよしこさん」
雨が降り続いていた。俺の家の庭には青や紫の紫陽花が咲き誇っている。それを眺めながら一つため息をつく。
「一人で生きていきたい」
そう呟いてみる。いや、何も本気で言っているわけじゃない。そんなの無理だって知っているつもりだ。よく言われるように、人は一人で生きていけない。しかし俺はその言葉に違和感を覚える。いや、反感か。他者がいないと生きていけないというのは確かにそうだ。地球に一人きりでは狂ってしまうだろう。しかし、その他者に疎外されたり、迫害された人間はどうだろう。一人きりで生きていけたらどれだけいいだろう、と思ってはいけないだろうか。人は一人で生きていけない。そんなこと言われても、一人であっても、何人であっても、生きていけないのだ。俺という人間は。
金曜日。屋上の扉の前。俺は一人で階段に腰掛けながらパックの牛乳を飲んでいた。
「ねえ、どうしていつも牛乳飲んでるの?」
階段を登ってくる女子生徒が一人。栗色の長い髪。きりっとした眉。意志の強そうな瞳。よしこさんだ。
「身長を伸ばしたいんですよ」
「そう、成長期だものね」
階段を登りきったよしこさんは、ふう、と息をついて、俺の隣に座る。
「雨ね」
「雨ですね」
それきり俺たちは黙り込んでしまった。六月の優しい雨音がその隙間を埋めていた。
キーンコーンカーンコーン。チャイムが鳴る。
「知ってました? よしこさん。このチャイムの音、ビッグベンの鐘のメロディと同じらしいですよ」
「本当? あなたのいうことって、時々なんだか嘘くさいわね」
「そうですね。嘘くさいというか、よく嘘をつきます」
「そう」
「俺、実は一人で生きていきたいんです」
「そうなの?」
「ええ。一人で生きていきたい。それだけの力が欲しい。でもね、俺知ってるんですよ。実は俺は一人になるのが人一倍怖いんだってこと」
「でしょうね。孤独とか耐えられそうにないもの、君」
牛乳を全て飲んでしまったので、空になったパックを階段の下にある自販機の隣のゴミ箱へ、捨てに行くことにする。
いつも上り下りしている階段。目を閉じて歩けるくらい慣れている。しかし今は梅雨で、空気がジメジメしていて、リノリウムの床は滑りやすくなっていた。
階段に足を踏み出した次の瞬間、つるりと足を滑らせて、気づいたときには階段の一番したまで落っこちていた。
「佐久間くん!」
よしこさんの悲鳴が聞こえる。ああ、格好悪い。
自分の体に怪我がないか確認してみる。下手したら大怪我をしていてもおかしくない。……何もない。かすり傷一つ、ない。
「佐久間くん、大丈夫? 怪我はない?」
階段を慎重に下りてきたよしこさんが俺に詰め寄ってくる。
「怪我ひとつないです。不思議なことに。奇跡でしょうか?」
ぷっ。と二人して吹き出してしまった。安堵の息。
俺の体を心配したよしこさんは保健室へ行くことを勧めてくれたが、俺にはその前に彼女に言っておくことがあった。
「よしこさん、俺と付き合ってください」
「ええ? それって今言わなきゃいけない事?」
「もちろんです。今以外に言うタイミングが見つからないくらいです」
「うーん……」
「お願いします!」
「……いいわよ。ただし、私は重い女よ。捨てたりしたら殺すから」
こうして俺たちは恋人同士になった。解決していない問題は山積みで、解決できるかどうかもわからないけれど、でも、確かに俺たちはお互いを必要としているんだと思う。
保健室のベッドで窓の外を眺めていると、徐々に雨が上がって、空に大きな虹が出た。
俺はそれを見て、よしこさんが言っていた言葉を思い出した。
「ねえ、知ってる? 佐久間くん。虹を見るといい事が起こるのよ」
ああ、確かに。夢みたいないい事が起こっているよ。よしこさん。
おわり