14。
病院の会計係の人に、支払いが滞ると給料を差し押さえることになりますよ、と言われ、通帳を持参して給料日にどれだけの金額が入るのかを説明し、支払日を延ばしてもらうように説得して、了承を得た。
最初はなかなか納得してもらえなかったが、何とかなってホッとする。
話の間中、私は緊張して頭を下げてばかりだったため、少しだけ頭もふらふらしていて、ようやく一階のエントランス近くまで辿り着いた。
そこでどっと疲れが出てしまったのだ。
会計カウンターの前の待合いのベンチに座る。
少しの間、放心状態になっていて。
気がつくと、病院の待合いは電気が落とされて、薄暗かった。
(……水曜日も、どこかで働こうかな)
商店街の店は水曜定休が多いので、働くなら駅近くまで行かなければならない。
そんなことをぼんやりと考えていると、理由もなく涙がじわっと滲んできた。
鼻の奥にツンと痛みが走る。
ずずっと鼻をすすり上げていると、すぐ側にある夜間診療用のドアが開き年配の女性が足早に入ってきて、そして去っていった。
生温い風が、さっきまでかかっていたのだろう冷房の冷気と混じり合って、まだらな空気が漂ってくる。
(……もう、帰ろう)
病院から駅までは、歩いて10分ほど掛かる。電車に乗って商店街までは、30分以上の道のりだ。
明日からはまた、働かなきゃ。
重い腰を上げようとした時、カサカサとビニールが擦れる音が響いてきて、廊下の奥から男性が歩いてくるのが見えた。
その足音も、次第に大きくなってくる。
ぼんやりと見ていると、あれ? と思った。見たことのある姿。
「あ、あれ、小梅ちゃん?」
「え、鹿島さん?」
信じられないことが起きた。夢でも見ているのかと思った。
どん底だった気持ちは、ふわっと浮き上がって、どんどんと上昇していく。
鹿島さんは驚きながらも、遠慮がちに隣にそっと座ってきて、「どうしたの? どこか具合でも悪いのか?」と優しく訊いてくれた。
おばあちゃんのことを話す。
さっきまで、世界のどん底にいたのに。
私はもう天にも登る気持ちになった。
ふわふわと現実味のない。
だから、これから起こるちょっとした事件によって、結局はまた世界のどん底へと戻ることになるとは思いも寄らなかったのだ。
鹿島さんが持っていた花束を横へと置いた。
ピンクのスイートピー。可愛らしい花束だから、きっと可愛らしい人のお見舞いに違いない。
私が作った花束と全然違う、本物のフラワーショップのデザイン。洗練されたラッピングに、オシャレな幾何学模様のリボン。
少しだけ、胸におもりを抱えたような気分になった。
ただ。
花束を見ているだけなのに。
いたたまれない気持ちになる。
「……綺麗な花束ですね」
言葉にすると、なんとなく自分が惨めに思えて後悔した。
「え、あ、うん」
鹿島さんが、返事を返してくれる。
その曖昧な返事に、私は鹿島さんを困らせているんじゃないか、という気がした。慌てて言う。
「喜びますよ」
「そうかな」
「絶対です」
にこっと見上げると、鹿島さんは困ったような顔になる。
やっぱり、そうだ。きっと困ってる。
あーあ、もう帰ろう。
悲しみに押しつぶされそうになり、本当に押しつぶされる前に帰らなきゃ、そう思った時、鹿島さんの驚いた声がした。
「どうした、花奈」
その声で見上げると、スウェット生地のワンピースを着た女性が立っている。
鹿島さんのお知り合いだと思い、慌てて腰を上げて挨拶をしようとして、ぎょっとしてしまった。
花奈さんと呼ばれた女性の形相が。
それは、私がこの短いながらも色々とあった人生で、まだ見たことのないものだった。
花奈さんが、何かを叫んでいる。耳には入ってくるのだが、叫んでいる言葉の意味がわからなかった。
そう。何が起きたのか、わからなかったのだ。
「あんたが要さんを横取りしたの? この泥棒猫っっ」
「やめろ、花奈‼︎ この子は違う、関係ない人だっ」
「要さんも要さんよっ‼︎ こんなのひどいわっ‼︎ わたくしのお見舞いに、浮気相手を連れてくるなんてっ‼︎」
「花奈、落ち着けっ」
その迫力に恐れ慄いてしまって、私はカバンを抱え直した。
二人のやり取りを私は呆然と聞いていたけれど、それでようやく、この女性が鹿島さんの別れた恋人なのだということを認識した。
(ああ、なんて綺麗な人なんだろう)
怒り狂っていても、その顔の造形はまるで乱れていない。
形相が恐ろしいと思ったのも、よく見ればその美しさから出たものであったのだ。
(こんな人が恋人だっただなんて。どうして、別れちゃったんだろう)
素直にそう思った。
そして、私は。この人と別れちゃうなんて、もったいないな、とまで思ったのだ。
その時。
花奈さんの身体が、私に近づいた。あっという間に腕を掴まれて、私も正気を取り戻す。ぐいっと引っ張られ、その拍子にイスから滑り落ちてしまった。
痛みはあった。けれど、掴まれた腕が痛いのか、床に崩れ落ちた時にどこかを打ったのか、それすらもわからない。
「何するっ、やめろっ‼︎」
鹿島さんの怒声。
初めて耳にする昂ぶった声を聞いて、普段は優しい鹿島さんも、怒ることがあるんだなあ、と思った。ただそれだけ思っただけで他には何も考えられなかった。
花奈さんが、まだ何かを叫んでいる。
その声でふと見上げると、花奈さんが花束を持って立っていた。
(ああ、やっぱり。可愛い花束がとても似合う)
そう思ってからの、一瞬の出来事だった。
頭の横に何かが当たった。結構な衝撃を感じて、私は我に返った。
手をついていた床に、バサバサとスイートピーの花びらが散らばって落ちていくのが、スローモーションのように見えた。
「やめろっ、やめろ‼︎」
「こんな地味な女のどこがいいのっ‼︎ こんな、こんな見すぼらしい、貧乏くさい女のどこがっ」
なぜか。
その言葉だけがはっきり、耳に入り込んできた。スピーカーか何かを通したように、鮮明に。鮮明に。
「花奈、いい加減にしろっっ」
「鹿島さんっ」
振り上げた右手を見て、花奈さんがぶたれる、と思った。
「だめです、そんなことやめてくださいっ。だめです、だめです、だめで、す……」
自分が何を叫んでいるのかわからなかったが、とにかく心のままに叫んだ。
ひっくり返った声。言っているうちに、声が震えていくのがわかり、言うのを止めた。病院の待合いの床はひやりとして冷たく、スカートで来てしまったことを後悔した。なんでこんな時にそんなことを、と思って失笑する。
顔を上げると、鹿島さんが花奈さんの肩を抱いて、エレベーターホールへと向かう姿が見えた。
二人の背の高さは、ちょうど良いくらいに釣り合っている。花奈さんのすらりと細く長い足が、スカートから伸びていた。
ふと、自分の足を見る。スカートから出ている足は、花奈さんの半分にも満たない。いい加減、お尻や太ももが冷えてきて、私はよろっとしながら立ち上がった。
その瞬間、スカートからはらはらとピンクの花びらが舞い落ちた。
花びらを。
このままにしていって良いのか、迷ってしまった。病院の人が掃除するのだと思うと、申し訳ない気持ちになった。
けれど、こんな所にはもう居られない。ひとりの辛さを、こんな風にして思い知らされて。
身を切られるような思いがして、私は病院のエントランスへと向かった。
足のバランスが悪いのか、よろよろとして足元は覚束ないが、足を捻ったとか、そういうことはない。私は身体だけは、頑丈で丈夫に生まれてきたことを、両親にも神さまにも感謝しながら、夜の道を歩いた。
そして、花奈さんを思い出す。
綺麗な人だった。
私は花奈さんの、花束を掴んだ手の爪が、綺麗な色に彩られていたのを思い出していた。




