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三十六、

病院のエントランスは照明が落とされて、もう薄暗がりだった。


正面の大きな自動ドアも開かず、鹿島はその隣にある夜間診療用のドアから中へと入った。


少し行くと、会計の待合所があり、長イスが並んでいる。


ここは、花奈が小梅に花束を叩きつけた場所だった。


鹿島はここに来るといつも、それを思い出しては胸をざわつかせた。苦い思い出しかない。


けれど、今日は。


その胸は、苦しみではなく、悲しみで押し潰されそうだった。


「……小梅ちゃん、」


ぼんやり座っている小梅に近づいていく。小梅が顔を上げると、涙がぽろぽろと頬を伝って落ちていった。どうやら、ずっと泣いていたようだ。目が真っ赤に腫れ上がっている。


心臓を。


針にでも刺されるような痛みがあった。


鹿島はその痛みに、ぐっと堪えた。


「小梅ちゃん、この度は……」


言葉が続かない。


立場上、何度も取引先の葬儀には出席している鹿島だったが、今度ばかりは何と言っていいのかわからなくて混乱する。


そして、小梅との離れた距離を思うと、さらに言葉が出なくなるのだ。


(そんな状態なのに……)


けれど、須賀に小梅のおばあさんが亡くなったらしいと聞いて、いてもたってもいられなかった。急に容体が悪化して、あっという間に亡くなってしまった、と。そして、葬儀をしないということも聞いて、鹿島はさらに愕然とした。葬儀を出す金すら、小梅にはないという。鹿島にとってはそれも衝撃だった。


人は死んだら、葬儀場で葬式をするのが、当たり前だと思っていたからだ。執り行われる葬儀が例え簡素なものであっても、そんな最期に金を盛大に使ってもなあと思うぐらいで、何の疑問も持たずにここまで来た。


(こんなことってあるのかよ)


そんな哀れみや悲しみが、その量を増していって鹿島を覆い尽くしていく。


「小梅ちゃん、俺に何かできることがあったら、」


どの口で、と思ったが、言うことはそれしかできない。


小梅の笑顔を失う。


それが怖くて、鹿島はメープルの真斗に別れろと言われて以来、連絡を取っていなかった。


小梅とはまだ繋がりがあると思っていたかった。毎日の忙しさの合間に、小梅を思い出しては、その思い出の中の小梅の笑顔に癒されたりして、自分を立て直していた。


(もう……自然消滅したって、思われているかもな)


一度だけ、そう思った。思ってから、それはそれはひどく後悔したのだ。


(いや、そんなはずはない。まだ切れていないはずだ。小梅ちゃんは、そういうのきちんとしている子だから、自然消滅だなんてあり得ない)


自分に言い聞かせて過ごしているうちに、一ヶ月が経っていた。


小梅の泣き顔を、車越しに遠くに見て、愕然としたあの日。


自分が泣かせているという事実にショックを受け、家に帰って直ぐにもゴミ箱に捨てた、あの指輪。


情け無いことに、またゴミ箱を漁って拾い、書類棚の引き出しにそっと仕舞った。


そして。


やはり言い訳でも謝罪でも何でもいい、話をしに行こうと決意し、震える手で車を運転しメープルの前まで行ったこともあった。


ポケットに、一度は捨てた指輪を入れて。


閉店まで待つつもりで、座席に深く身体を沈めた。外から眺める小梅の姿。その小さな姿に、胸が絞られた。


会いたい、会いたい、会いたい。顔を見たい、声を聞きたい、君の笑顔を見たい。


どんな理由をつけてでも、みっともない自分を見せてでも、それでも会いたい気持ちが勝ってここにいるというのに。


笑っている小梅がいる。イケメンシェフと元ヤンのあの双子にも、そして常連客にもいつも通り、笑いかけている。


そう、いつも通りなのだ。


(……ああ。会いたいって思っているのは、……俺だけなのかもな)


自分が空っぽになったような気がした。


メープルの中では皆、楽しそうに笑っている。笑い声さえ、道を挟んだ車の中まで聞こえてくるような気すらした。


そして、そこに自分の存在はない。


あれから、小梅からのメールもない。


(連絡してこないってことは……そういうことなんだろうな……)


小梅を必要とする自分と、小梅に必要とされない自分。


あの思い出の公園で乗ったシーソーのように、自分と小梅の想いの重さは、格段に違うのだ。


「……今さらそんなことに気がついても、」


もう一度、笑う小梅を見る。


すると。


抱えている苦しみは際限なく、その量を増やしていく。


「……遅いっての」


愕然と、いや呆然としながら帰り道を運転した。どうやって家まで帰ってきたのか、わからなかった。



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