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三十三、

「なあ、あんた」


声を掛けられて振り向くと、見たことのある顔だった。


むすっと唇を突き出した不機嫌そうな表情で、腕組みをして仁王立ちする男。直ぐにぴんとはこなかったが、数回メープルに顔を出していたこともあり、ああ、と思い出す。


「メープルの、隼人さん?」


「隼人は兄キだよ。俺は真斗の方」


双子の料理人ではない方か、と思う。


「私に何か用ですか?」


店の前に停めた車に寄りかかって、小梅が仕事を終えるのを待っていた時だった。


小梅の職場の人だということが頭にあるので、出来るだけ丁寧に言う。


よく見ると、「イケメン」だと思っていた顔が、「モデルのようなイケメン」だとわかって、苦笑する。茶髪で短く刈った頭をがしがしと手で掻く姿も、芸能人のようなオーラがある。


ひなびた商店街の喫茶店が、夜は飲み屋になるとは言っても、まずまずの客の入りの訳がわかるような気がした。


(でも……結婚していると言ってた、よな)


小梅の言葉を思い出して、ほっと胸をなで下ろす。


と、真斗はずいっと前へと出てきてから、ちらりとメープル店内を見た。煌々と明かりを灯している店内では、小梅がまだカウンターに向かって、忙しそうに食器を片付けたり、テーブルを拭いたりしている。


小梅はいつもあと10分で閉店、というその時間の間際まで、あくせくと働き続けている。真面目で一生懸命な性格が、そういう所からも感じられるほどの働きぶりだ。


真斗はそんな小梅の姿を目で捉えてから、次には鹿島の顔を睨みつけた。


「あんた、悪いけど、小梅と別れてくれ」


むっとした。


真斗の言い方に、嫌悪の意が込められているのがはっきりとわかる。


「どうしてそんなことを、あんたに言われなきゃいけないんだ」


前から真斗や隼人が気に入らなかったのは、二人が必要以上に小梅を大事にし過ぎている態度が癪に触っていたからだろう。


鹿島の、攻撃色の強い反論にも動じず、真斗は腕組みを解かずに言い切った。


「あんたさあ、すげえ金持ちなんだろ。その金で何だって思い通りなんだから、小梅なんかに構うなよ」


「金なんか、関係ない」


出来るだけ低く脅すような声を出した。


「あるんだよ、その金で貧乏な小梅をオモチャにしてんだろ?」


「どういう意味だ。俺はそんなことはしていないっ」


言葉が乱暴に跳ねたが、構わなかった。鹿島は言葉を重ねた。


「こっちは真剣に付き合ってるんだ」


好きなんだ、好きなんだよ、何度も心で繰り返す。


すると予想に反して、真斗がにやりと笑った。その笑顔が、異様に不気味に見えた。


(なんだ、こいつ……)


「あんたさあ、女がいるだろ」


真斗が突拍子も無いことで絡んできて、は? と思ったが、鹿島は再度、言い返した。


「女なんかいない」


「ふん、嘘つくなよ」


「嘘じゃない、女なんかいない」


「だったら、指輪を買ってやったあの女は一体誰なんだよ?」


え、と思った。思い当たるのは、小梅に買った指輪を深水に試着させた時だ。


「あ、あれは、俺の秘書だ」


「ふうん、お前は秘書とやってんのかよ」


「違うっっ」


あと少しで、胸ぐらを掴むところだった。けれど、逆に胸ぐらを掴まれて、がっと引き寄せられた。真斗の顔が数十センチまで近づく。


身長はほぼ同じ高さなので、睨みをきかせた視線が、同じ位置でかち合う。


真斗は鹿島のシャツを乱暴に掴みながら、再度メープルの店内を見た。


その視線につられて鹿島も見ると、小梅が後ろを向いてカウンターの中の隼人と何かを話している。


小梅と話している隼人が、何かの拍子に視線を上げた。


鹿島と目が合う。けれど、すぐに小梅へと顔を落とし、しきりに話し掛けている。


(ああ、わざと小梅ちゃんに見せないように……兄弟で俺に釘を刺してんのか)


「小梅と別れろ。小梅はなあ、お前に遊ばれて、くたくたになってんだよ」


「遊んでなんか、」


「金持ちの社長が、小娘を金で買ってるって言ってんの。どうせ何人も囲ってる愛人のうちの一人なんだろ」


「失礼なことを言うなっ」


「携帯持たせたり、パーティーとやらに連れ回したり、お前はさぞ楽しいんだろうけど、小梅はそんなことしていい子じゃねえんだよ」


元はヤンキーかと思うほどの腕っ節と眼力だった。


「くそ、そんなんじゃない。俺は本気で、」


「うるせえ」


正当な主張が、その一発で跳ね返される。服を握り込んだ真斗の拳が、喉元をギリギリと締め上げる。息苦しさと、痛み。


「お前は秘書さんとヨロシクやってろよ。今度また小梅を泣かせてみろ、そん時は俺らがお前をボコってやるからな」


鹿島が襟元を掴まれた拳に食らいつく。両手でその真斗の手を離そうと精一杯の抵抗を試みるが、若さもあるだろうがその湧き上がる怒りからか、真斗の腕はビクともしない。


「泣かせてなんかないっ。いい加減、離せっ」


どんっと突き放され、車に背中を打ちつける。腰の辺りに痛みが走った。


「あんたがその秘書さんってのに指輪を買ってやってるとこ、小梅も俺らと一緒に見てんだよ……ああそうだよ、小梅は泣いてなんかいないっ。自分の彼氏が女連れてるとこ見たって、小梅は俺らの前では泣かねえんだっ」


鹿島は、車に打ちつけられた身体を起こした。


「小梅は誰に裏切られたって、笑って許すんだ。自分を殺してでもな」


「う、裏切ってなんか、」


ようやく言葉が出た。けれど、それは弱々しく返り、鹿島の中にこもっていった。


さらに睨んで、真斗は言った。


「言い訳とかそういうのはもういい。別れてくれりゃ、そんでいいんだ。今後一切、小梅に近づくんじゃねえ」


そう言い放つと、鹿島を置いて店へと戻っていった。


店内を見ると、小梅が楽しそうに何かを話している姿が、ぼんやりと見える。


先日買った指輪は今、車の中に置いてあるカバンの片隅に存在する。


今夜このまま小梅を自宅まで連れ帰って、少しの時間コーヒーでも飲みながら、それこそタイミングが合えばで良かった、その時にはこの指輪を渡そうと思っていた。


けれど。


(……ああも面と向かって、金で買ってるようなことを言われると、)


急に、考えていた今夜のその予定が、ありもしない下心に汚されたような気がして、鹿島の心は泥水のように濁っていった。


よろよろと車に乗る。


エンジンをかけてから、ハンドルに両手をついて寄りかかり細く息を吐くと、アクセルに置いた右足に少しずつ力を入れた。


大通りに出て赤信号で止まると、掴まれてぐちゃぐちゃによれた胸ポケットからスマホを出す。


暗がりの車内が、ほわっと淡い光に照らされる。


震える指で画面をタップし、小梅の名前を出す。


今日は帰る、という内容のメールを痺れる頭でなんとか送信すると、いつの間にか赤信号は青へと変わっていて、後続車にパッパアッとクラクションを鳴らされた。


鹿島は、くそっと助手席にスマホを投げつけると、車を急発進させた。


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