二、
「やはりもう閉店ですね」
「ん、そうだね」
耳に当てていた携帯を離すと、受話ボタンを切った。
「皐月に掛けたが繋がらない。もう食事の用意にでも入ってしまったのかもしれない」
古くからの付き合いである、皐月 沙織は、一度何かに没頭すると、携帯を絶対に取らない。花屋の仕事を終えてからは、遅い食事を摂るので、その間はまず連絡がつかないのだ。
「子どもがいると、本当にてんやわんやだな」
同級生と結婚して子どもができてからは、鹿島とは仕事で使う花を請け負うだけの関係となっている。
「どうしましょうか?」
控えめに訊いてくる須賀の声で、鹿島は握っていたスマホをスーツの胸のポケットに仕舞った。
「うーん、仕方がないね。このまま家に帰るしかないか」
鹿島は懸命に頭の中で花屋を探したが、仕事の取引にしか使わない、まるで自分とは縁のない花屋など、一軒も思いつかない。
須賀からも何らかの提案がなされないということは、須賀にも心当たりがないのだろう。しかも、ネット検索にも振られてしまった。
「いいよ、帰ってくれ」
鹿島が、はあっと大きな溜め息を吐きながら言うと、はい、と須賀は出していたハザードを消して、大きくハンドルを切った。
「ちょっ、と、待ってくれ」
鹿島の声で、須賀は再度ハザードを出した。
「はい、何でしょう?」
鹿島は通りの向こうを見遣った。夜の9時を過ぎた通りには、すでに閉店している店が多い中、ぽつぽつとその看板に灯をともしている店もあった。
その多くは居酒屋などの飲食店だが、その中にひとつ、大きなガラス張りの中で数人がうろうろと行き来している店が、鹿島の目に飛び込んできたのだ。
広い間口から、小規模のスーパーだと分かる。
看板の電気は消されているが、店内は煌々と電気を点けていた。
「あの、スーパーに花は売っていないだろうか?」
鹿島が言うと、すかさず須賀が声を上げた。
「社長、こんなところではセンスの良い花は置いてありませんよ」
呆れたような声色で言う。
「そうなのか?」
買い物はもっぱらネットか、秘書である深水に任せてあり、鹿島はこのような地元に根付く商店街にあるようなスーパーに立ち寄ったことは無かった。大型ショッピングモールも、大学を卒業してからは一度も足を運んでいない。
幼馴染である皐月が商店街にフラワーショップを出店すると聞いた時、鹿島はもっと場所を考えろと反対したことがあった。
根っからの商売人である鹿島には、売り上げが見込めない場所に店を出すということが、自殺行為に思えたからだ。
「彼の地元でやってみたいの」
「せっかく貯めてきた金をどぶに捨てるようなもんだぞ」
まず、幼馴染の結婚を、喜ばしく思えなかった。皐月とは幼馴染ではあるが、一時期、恋人同士だったこともあった。
「私のこと、心から愛しているってわけじゃないみたいね」
付き合っている時、皐月にそう言われたことがあった。もちろん恋人だと思っていたし、皐月を大切にしているつもりもあった。
「そんなことはない。ちゃんと、好きだけど」
それからすぐに別れて、皐月は新しい恋人を作った。ぽっちゃりとした背の低い男だが、皐月はその男といると、心底幸せそうだった。
(……俺は皐月を、こんな顔にはできなかったんだな)
気がついた時には、それが本当の恋ではなかったことを知った。
(けれど、恋愛なんてそんなもんだろ)
現在の恋人である花奈とも、そういう付き合いだ。花奈は欲しい物をねだってくるだけ、皐月よりは分かりやすい。
(花奈に都合のいい財布だと思われていようが、それは別にいい)
それだけの財力があることに、鹿島は誇りさえ持っている。叔父から受け継いだ会社を、市街の一等地にビルを建てられるほどに急成長させた自負もある。
そんな自分に紹介された取引先の社長の娘。才女とまではいかないが、お嬢様大学出身という経歴もあり、周りに紹介するにもちょうどいい。
「こんなところで売っているのは、仏壇に飾る花くらいなもんです」
須賀の言葉ではっとして意識を戻した。その言い方から、気乗りはしないようだが、車はその場から動かない。
(……俺の、様子を見ているのか)
ミラー越しの須賀の目は、じっと探るように自分の動きを待っている。
「そうなのか……けれど、仏壇の花以外は売ってはいないだろうか」
「……お誕生日ですよね? それはどうでしょうか」
花奈を何度かこの車に乗せて自宅へと送っていったこともあり、須賀も鹿島の恋人のことを承知している。
須賀のその言葉で、そうだ彼女の誕生日なのだ、そう思うとやはり何かサプライズ的な添え物も準備したい気持ちに駆られた。
「ちょっとここで待っていてくれ」
須賀は眉を寄せて何かを言いたそうな顔をしたが、鹿島はそのまま車を降りた。車の往来がないのを確認して、通りを横切る。
街路樹の脇をくぐり抜けると、スーパーの前で足を止めた。
見上げると、『スーパー モリタ』の看板は、すでにその灯を落としている。自動ドアの前に立つと、それは果たして開かなかった。
(やはりここも9時までか……)
諦めきれない気持ちもあり、自動ドアに手を掛ける。店内はまだ明るく、遠くからは人の動きが見えた。中を覗くように、身体を傾けると、レジの側に立っていた女性が振り向いた。
(あ、)
鹿島は、しまったと思った。すでに閉店していると分かり切った状況というのもあり、図らずも隠れんぼで見つかってしまった子どものような気持ちになる。
女性が、小走りで寄ってくる。肩までの黒髪を揺らして、軽やかに自動ドアの前までやってきた。
ぐいっと、ドアを両手で開ける。その様子を見て鹿島は、自動ドアというものは自動でなくても案外簡単に開くのだな、と思った。そう思わせるほど、女性は鹿島より背も低く、小柄だった。
「どうされました?」
ドアの隙間から、問い掛けてくる。ドアに白く細い指が絡まって、それに目を取られていると、女性が再度、声を掛けてきた。
「何か、ご入用でしたか?」
鹿島がドアから少し距離を置きつつ言いあぐねていると、女は首を傾げた。頬に黒髪がかかり、ふっくらとした唇を半分隠している。そして隠されてはいない半分のそれは、少しだけ微笑んでいた。
そのあどけない笑顔には、眩しいほどの「若さ」が存在する。
(まだ子どもじゃないか)
心で思ったが、その笑顔が怪訝な表情に変化していくのを見て、鹿島は慌てて、言った。
「あ、えっと、花束は売っていませんか?」
傾げていた首が、さらに斜めに傾いた。鹿島がその様子に気がついて、視線を落とす。
つけている黒いエプロンの『モリタ』の文字と同時に、肩紐につけてある名札も視界に入った。
『小梅』
(……こうめ、)
鹿島がどう読むのだろう、そう思っていると、女性が自動ドアをさらに開けた。
「花束ですか? それらしいものがあるにはありますが、」
はっとして顔を上げると、女性は少し困ったような表情を浮かべている。
「どなたかに贈るものですか?」
「え、ああ、はい。そうです」
「それなら、サツキフラワーさんに、」
すいっと中から出て、左手を上げて指さす。鹿島が言おうとする前に、女性は声を跳ね上げて言った。
「あっ、もうお終いだわっ」
シャッターの降りた花屋を見て、上げた左手を下ろした。
「そういえば、うちと同じ9時閉店でした。ごめんなさい」
眉を斜めにして謝る女性を前に、鹿島は慌てて言った。
「い、いえ、そんな」
「この辺にサツキフラワーさん以外、それらしい花屋さんは無いし、」
「いいです、いいです、閉店間際にすみません」
鹿島が謝ると、女性は続けた。
「お花はあるんですけど……何かのお祝いですか?」
問われて、答えてしまった。
「ああ、彼女の誕生日で……」
言ってから、バカなことを、と思った。恋人の誕生日の花束をこんな時間に用意しようとは、と。
もういいです、という言葉が口から出かかったその時。女性の後ろから、年配の男性が声を掛けてきた。
「どうしたの、小梅ちゃん」
『こうめちゃん』と聞いて、そのまま読むのか、苗字にしては変わっていると心で思ったが、事の次第が大きくなりそうで、鹿島は慌てて手を上げた。
「すみません、何でもないです。ありがとう」
踵を返して去ろうとした。
「店長、この方が花束が欲しいんですって。彼女へのプレゼントだそうです。でももうサツキフラワーさん、閉まってて」
「ああ、あそこの奥さん、時間より前に閉めちゃうからねえ」
中年の柔和な顔の男性も、ドアの隙間から外に出てくる。
慌てて鹿島は両手を上げた。
「こんな大騒ぎになってしまって。本当にすみません、もう諦めます。ありがとう」
「でも、彼女さんもお誕生日にお花を貰えたら、喜ぶと思いますよ」
小梅が言って、店長も頷いた。
「うちの花を使ってもらってもいいけどね。でもあれだよ、包装紙がない」
「ちょっと見てみましょうか」
鹿島は慌てて、いいです、と断ったが、店長が中へと促してくる。
「まあ、ちょっとやってみましょうよ。どうぞ、どうぞ」
鹿島が中へ入ったのを確認すると、二人は肩を並べて、レジ横へと歩いていく。
(……困ったことになったぞ)
二人の後を渋々ついていく。
(仏壇に飾る物を摑まされては困るんだが……)
鹿島は盛大に溜め息を吐きたくなったが、まだひやりと冷気が漂っている店内を歩いていった。