十四、
病室から出ると、鹿島はどっと疲れを感じながら、廊下を歩いていった。
(……これで良かったのかどうか)
花奈の母親には、婚約までしておいて反故にしたせいだ、花奈の落ち込みようと言ったらなかった、それで体調を崩したのだと、ねちねちとなじられた。
けれど、その後担当の医師に確認したところ、少し目眩があるので入院という処置をしたが、そう酷くないとのこと。
不穏な理由でもなく、ほっと胸を撫で下ろした。
別れたのだしもう関係ないのだから、見舞いなどは要らないはずだが、そこまで冷徹になれなかった。
病院の一階に併設のフラワーショップで見舞いの花を買って持っていくと、花奈はそれを受け取らなかった。
(まさか受け取ってもらえないとはな……いや、受け取らないのが普通か……)
帰りのエレベーターの中で、じっと花束を見る。物言わぬ花束でも、渡した相手の喜ぶ顔をきっと待っている。そう思うと、途端にこの花束が可哀想になり、虚しい気持ちがじわりと湧いてきた。
(……ついバカなことを考えてしまう)
一階に着くと、病院の中央エントランスへと向かう。途中にゴミ箱が目に入り、そこで立ち止まって持っていた花束を捨てた。
捨ててから、ゴミ箱を見下ろす。ピンクのスイートピーがゆらと揺れた。
急いでこの場を立ち去りたい気持ちがあったが、なかなか離れられないでいると。
ついに。
花を真剣に選んでいた、小梅の顔が目に浮かんだ。
見ず知らずの他人のために、一生懸命に花束を作り、喜んでもらえることを願った。
(ああ、俺は何てことをしているんだ)
ゴミ箱から花束を拾い上げた。外側の葉が少しよれたが、スイートピーは汚れていない。
ほっと胸を撫で下ろしてから、花束を抱えて、再度歩き出す。
会計のカウンター前を急ぎ足で横切った。
待合いは薄暗くはなっていたが、ベンチに誰かが座っているのが見えた。気に留めず、そのまま行こうとして、どっと胸が鳴った。
「あ、あれ、小梅ちゃん?」
「え、鹿島さん?」
鹿島が近づいていくと、小梅の表情が固くなった気がして、さらに鹿島の胸は打った。気がついて声を掛けてしまった手前、何事もなかったように過ぎ去って行くことはできない。
鹿島は観念して、小梅の隣に腰掛けた。
「どうしたの? どこか具合でも悪いのか?」
どうしてこんな場所でと、気になったことを先に問う。小梅の表情は暗かった。
「いいえ、違いますよ。身内が入院してて……」
言い直す。
「おばあちゃんです」
「そうなんだね、それでお見舞いに?」
「はい……」
会話が途切れそうになり、小梅が先に続けた。
「鹿島さんは? お見舞いですね」
持っている花束を見れば、一目瞭然だ。
「うん、知り合いが入院しててね」
「そうですか。お大事にしてあげてくださいね」
「……ありがとう」
(……もう帰った方がいい)
そう思うが腰が上がらない。横をちらとみると、黒髪の中につむじが見えた。
小さな頭に、丸みの薄い頬。
「……綺麗な花束ですね」
「え、あ、うん」
「喜びますよ」
「そうかな」
「絶対です」
にこっと見上げてくる。黒い瞳が、いつもより丸く見えた。
(君なら、喜んでくれるのだろうか)
がさ、とラッピングが擦れる音がする。持っている花束が哀れに思えて、鹿島は思った。
(あの時の、輝いていた花束とは全然違う)
カラーとラナンキュラスの美しさ。それに小梅の温かさが加わって、心に沁み入ってきた。
(早く、去らないと……)
「おばあさんをお大事に」
そう言って、立ち上がろうとした時。
ぎょっとした。
病室にいるはずの花奈が、少しの距離を置いて立っている姿が目に入った。
鹿島が腰を浮かせながら、「どうした花奈、」と言った直後、花奈は二人の前に立ちはだかって、狂ったような声を出した。
「要さん、この子はなんなのっ‼︎」
栗色の髪が乱れ、唇は震えている。
「花奈、この人は関係ない」
鹿島が立ち上がって説明しようとすると、「やっぱり女なのねっ」と大声で遮った。
「あんたが要さんを横取りしたの? この泥棒猫っっ」
鹿島は慌てて、花奈の腕を掴んだ。
「やめろ、花奈‼︎ この子は違う、関係ない人だっ」
「要さんも要さんよっ‼︎ こんなのひどいわっ‼︎ わたくしのお見舞いに、浮気相手を連れてくるなんてっ‼︎」
「花奈、落ち着けっ」
花奈が腕を伸ばす。伸ばした先に、顔面蒼白の小梅。持っていたカバンをぎゅっと抱えている。
花奈は、その伸ばした腕で、小梅の腕を掴んだ。
「あ、痛っ」
掴んだ腕を引っ張り上げる。その反動で、小梅が床へと倒れ込んだ。
「何するっ、やめろっ‼︎」
鹿島が慌てて小梅に寄る。その拍子に花束が床に落ちた。
「あんたのせいよっ。あんたのせいで、私こんなにも苦しんでるのよっ。責任とってよっ」
花奈が落ちた花束をがばっと拾うと、花束を持つ腕を思いっきり振り上げ、小梅めがけて振り下ろした。
一瞬の出来事だった。
ばさばさっと、大きな音がして、小梅の側頭部に花束が叩きつけられた。
鹿島はそれを見て、血の気を失った。
「やめろっ、やめろ‼︎」
立ち上がり、花奈の両腕を押さえる。揉み合いになり、無残にぐちゃぐちゃになった花束は、ばさりと落ちた。
「こんな地味な女のどこがいいのっ‼︎ こんな、こんな見すぼらしい、貧乏くさい女のどこがっ」
かっとなった。
むかむかとせり上がってくる嫌悪感。綺麗だと思っていた花奈の醜さが、鹿島をついにおかしくした。
「花奈、いい加減にしろっっ」
振り上げた右手。怒りで我を忘れていた。
「鹿島さんっ」
小梅の声で、その手の動きを止めた。自分が何をしようとしていたか、思い知らされる格好で、鹿島は正気を取り戻した。
「だめです、そんなことやめてくださいっ」
それは、叫び声に近いものだった。
「だめです、だめです、だめで、す……」
そして、何度も呟くように言い続ける。その声は震えを含んでいった。
はあはあと息を切っていた呼吸を、押さえ込んで落ち着かせる。鹿島は冷静さを取り戻すと、「少し待ってて」と小梅に投げて、鹿島は花奈の腕を取った。
花奈は大人しくなり、そのまま鹿島に連れていかれた。部屋のベッドに寝かすと花奈は泣き始め、鹿島は少しの間、その様子を見ながらベッドの傍で立っていた。花奈が、わあっと声を上げて泣くと、鹿島の心は冷えていき、その場にいられなくなった。
病室からそっと出る。
花奈の泣き声がドアで遮られて耳に届かなくなると、途端に小梅のことが気になった。
焦る気持ちを抱えながらエレベーターに乗る。一階の待合いで、きょろきょろと小梅の姿を探す。
「小梅ちゃん、小梅ちゃん、」
小梅がすでに去ってしまって居ないと分かると、胸は絞られるようにきりきりと痛み、鹿島は胸を押さえて立った。
足元には、花びらが散らばっている。
鹿島は病院を飛び出した。
温い風が鹿島の頬を掠めていったが、それに気づかないほど、鹿島は夢中になって小梅の後ろ姿を追った。




