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十二、


「社長」


問われて、鹿島は顔を上げた。


「ん、ああ、すまない。何だったかな?」


「こちら、会議の議案書です」


「ああ、目を通しておくよ」


腕時計に目をやると、会議までは二時間ほどの余裕がある。時間があると思うと気も安らいで、鹿島は目の前にある書類をぼうっと眺めていた。


(恋人同士だったか……それであんなにも仲が良かったんだな)


人目もはばからず、抱き締めるとは。


(相手が花奈で、同じ状況なら、俺は同じことをできただろうか)


そう思うと、秋田がどれほど小梅を大切にしているかがわかって、胸が痛む。


鹿島は、ごくっと唾を飲んだ。けれど、飴玉を無理して飲み込むかのように、喉元に突っかかって息苦しい。


口内に渇きを感じて、鹿島は傍に置いてあった紙コップを手にして、コーヒーを口に注ぎ込んだ。


(あの後、小梅ちゃんは泣き止んだだろうか)


自分のせいだと思っている小梅を置いて、逃げるように帰ってきてしまった。


(俺、本当に最低だな)


ちゃんと訂正しなければならなかった。言葉にして、君のせいじゃない、自分の問題だと、きちんと説明しなければならなかった。


「これが仕事なら、失態もいいところだ……」


「何ですか? 社長?」


深水が、怪訝な顔を寄越してくる。


「ん、ああ。独り言だよ」


「社長、申し上げにくいのですが……」


「何だい?」


「花奈さまとのことは、その、」


言いにくそうに言葉を濁している深水に、鹿島は気にしないでくれと声を掛けた。


「俺が全部、悪いんだ。花奈には申し訳ないことをしたと思ってる。仕事には影響のないようにするから、君は普段通りやってくれ」


「そうですか。わかりました」


深水が空になったコーヒーのカップをさっと取ると、「それでは、できれば午後の会議までには、そのお顔を何とかしてください」と言って、部屋を出ていった。


「……深水はいつも容赦ないなあ」


午後の会議は、近々ある大きな商談への足掛かりを模索する重要な会議だ。そんな会議で、その腑抜けヅラは勘弁してくれと遠回しに言われたような気になって、鹿島は苦笑しながら書類に目を落とした。


✳︎✳︎✳︎


「……お前なあ、いったいどういうつもりだよ」


声を落として鹿島は言った。むかむかと胸の辺りが熱くなっていて、出されたお冷を一気に飲み干す。


「どういうつもり、って……恋人と別れて元気のないお前を慰めてやろうと思ってさ」


飲み仲間の大同が、唇の端を引き上げて、ニヤと笑った。


嫌な予感はあった。会社帰りにタクシーで迎えにきた大同は、その場で須賀を帰してしまった。飲みに行くぞと言う大同のタクシーに乗り込んだ時、大同は運転手に行き先を告げなかったのだ。


「どこに行くんだ」


「まあまあ、良いところがあるんだよ」


その道中、行き先に検討がついて、幾らかの抵抗をしてみたものの、結局は強引に連れてこられてしまった。


鹿島は溜め息を吐きながら、店内をぐるりと見渡す。


店内はそう広くなく、こじんまりとしていて店員の目が行き届く。


テーブルはいくつかあるが、どれもデザインが違っていて、それはテーブルに限らず、イスであったり雑貨が並ぶ棚であったりした。


(……統一感はないが、センスの良さでカバーしているな。古めかしいような、斬新なような、不思議な喫茶店だ)


カウンターの奥に二人、男性がいる。


一人は白いエプロンをつけた調理人。鹿島と大同が注文したオムライスを作ったのはこのシェフだ。デミグラスソースがかけてあって、とても美味しかった。


もう一人は、黒のエプロンが似合う、背の高い男。


どちらもなかなかのイケメンで、歳も若そうだ。手際がいいところを見ると、頭の回転も良い。


(小梅ちゃんは、ここで働いてるのか……)


そう思うと、暗かった心がさらに陰鬱になる気がして、鹿島は頬づえをついて大きな溜め息を吐いた。


その様子を見た大同が、すかさず手をあげる。


「なんだよ、もうすぐ例の子が来るんだろ。もう少し待とうや。あ、すみません、コーヒーを二つ」


「あ、おいっ」


店内に掛かっている時計は、9時をもうとっくに回っていて、それを認めると途端に焦りが出てくる。


「メシは食ったんだから、もう行くぞ」


「まあ、待て。まだコーヒーを飲んでいない」


大同に向かって促す言葉を掛けるが、さっきから全てかわされてしまっている。


夕ご飯の時間はとうに過ぎているのに、店内はぼちぼちの客の入りだ。小梅が働くのは9時からだということなので、ディナーメニューではないだろうと思っていたら、店員がコーヒーと一緒に新しいメニューを置いていった。


大同がそれを見ながら、お、酒とツマミがあるぞ、と言う。


「ハイボールがあったかあ。しまったなあ、コーヒーやめてこっちにすりゃ良かった」


「もう帰るぞ」


心の中ではまずいまずいと焦っていた。前のめりになって、声を落とす。


「お前、元気づけるとか言っておいて、俺の反応を楽しみたいだけだろ」


足で、大同の足を蹴った。


「そんなことはない。お前が元気になればなあって思って」


「嘘つけっ。小梅ちゃんがどんなか見たいだけのくせによ」


「まあ、それもある」


大同の告白に、もう一度足を蹴った。


「花奈とは全然タイプが違うし、お前が興味を持つような……」


その時、カランとドアベルが鳴って、入口のドアが開いた。


「すみません、遅くなりましたあ」


小梅の姿に、鹿島は頭を気持ち低くした。


入ってきたその勢いで、カウンターへと向かう。


「おはようございます」


「おはよ」「はよ」


シェフが小梅へと、エプロンを投げた。


隼人はやとさん、新メニューちゃんと教えてくださいよ。いっつも私、お客さんが注文した時に、メニュー増やしたことを知らされるんですから」


小梅が笑いながら、言葉を掛ける。


「わかってる。後で説明すっけど。小梅、アボガド買ってきてくれた?」


「大丈夫です。抜かりはありませんよ」


ガサガサと持っていた袋を探って、中からアボガドを取り出す。


「あと海老ですよね。店長が、新鮮なのが入ったからこっち持ってけって」


「店長にお礼、言っといて」


ぶっきらぼうに言うと、シェフは海老とアボガドを持って厨房へと入っていった。


「小梅、飯まだだろ?」


残った背の高いイケメン店員が、チンと鳴った電子レンジから皿を出した。


「わあ、ピラフですね。真斗まさとさんはもう食べました? じゃあ、いただきますっ」


渡された皿をカウンターへと置く。


その様子を見ていた鹿島だが、テーブルの下で大同が足をコツコツと蹴っていることに気がついた。


「腑抜けた顔をしやがって」


小さな声が耳に届いて、鹿島は自分にも呆れて、顔を手で覆った。


その時、隣の席に座っていた年配の男の客が、声を上げた。


「小梅ちゃん、梅酒のソーダ割りちょうだい」


はあい、と返事をして振り返る。


そして、その席の隣に鹿島の姿を見つけると、あ、と言って動きを止めた。


鹿島は焦って、頭を下げた。その様子を見て、大同がにやけている。


ムカつくと思いながらも、小梅が気になって、鹿島はちらちらとカウンターの方ばかりを見ていた。


正木まさきさん、今度はちゃんと梅も入れておきましたよ」


「そうそう、これがなきゃ梅酒って言えねえよ」


「でも結局食べないんでしょ。見るだけのためだなんて」


「こんな不味いもん、食えるかよ。梅のエキスなんて、これっぽっちも残ってねえぞ」


カウンターから、イケメン店員が「小梅、うちの梅は不味くねえって、ちゃんと言え」と言う。


小梅は苦笑しながら、梅酒ソーダ割りをテーブルに置いた。


そして、横にすすすっとずれると、少し緊張した顔をして、こんばんはと言った。


「お久しぶりです。お元気でしたか?」


「うん、元気だよ。この前は……」


鹿島が言葉を迷いながら、続ける。


「この前は、すまなかったね。あれはその、君のせいじゃなくて。俺の問題だから、気にしなくていい」


「そ、そうですか」


小梅が視線を落とす。口を結んで、眉を下げた。


「ちゃんとそう言わなきゃいけないってわかっていたのに、その、勝手に帰ってしまって。ごめん。情けなくて……」


「私、てっきりあの花束が原因だって思ってしまって」


「本当に違うんだ。あの花束は心がこもっていて、とても気に入ってたし、嬉しかった。花奈も喜んだんだ。それは間違いない」


こくっと頷くと、黒髪がさらっと波うった。


「お、お友達ですか?」


小梅に振られた大同が、意気揚々と答える。


「そうでーす。大同って言います。小梅ちゃんだね。初めまして」


「鹿島さんには、隣のスーパーによくお買い物に来てもらってて。どうぞ、ゆっくりしてってください」


「うん、よろしくー。じゃあ、ハイボール二つ」


「かしこまりました」


小梅がカウンターへと戻ると、大同が言った。


「お前なあ、犯罪だぞ」


「やめろ」


「まだ子どもじゃねえか」


「もう18だ」


「未成年」


「うるさい、やめろ」


「鹿島、お前……」


「わかってるから、今はやめろ」


鹿島は両手で顔を隠すと、盛大に溜め息を吐いた。大同はそれ以上は何も言わなかった。


運ばれてきたハイボールを喉に流し込むと、軽く酔いが回ってきて、カウンターの中で二人の男に囲まれている小梅を見られなくなった。


大同は、そんな鹿島を横目で見ながら、何かにつけて小梅に話し掛けている。軽く声を掛けられる大同のその姿を見て、なんとなく羨ましく思った。


小梅とはまだ少し、ギクシャクしているような気がしている。謝罪はしたが、小梅を泣かせてしまったことに罪悪感すら感じている。


「鹿島、お前、見てられんかったぞ」


ハイボールを二杯ずつ呑んで精算し、タクシーを捕まえるべく大通りに出て歩いている時、大同がそう言った。


「何がだ?」


「目が泳いでた」


「んー、まあな」


「小梅ちゃんばっかり見ていたと思ったら、次にはじいっと枝豆見てただろ。小梅ちゃんと枝豆を交互にだな。こう、こんな感じに」


大同が首を振ってから、呆れた口調で言う。


「キモいっつーの」


「……キモいおっさんかあ。俺、最悪だな」


ほろ酔い気分なので、まだ多少正気は残っている。


「別に取って食おうってわけじゃないんだけどな」


「おっさんの純愛かあ」


「そんなんじゃない。違う」


「違わない」


「まったく……口ではお前に敵わないな」


タクシーを捕まえるべく、二人で手を上げては、何台もその場で見送った。


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