一、
「社長、そろそろ帰られた方が……」
秘書の深水 郁の声がして、鹿島 要は意識を戻して、腕時計を見た。
「ああ、もう……8時半か」
つい、1時間前に終わった商談の成果が頭の中を占めていた。
仕事のことを考え始めると、鹿島はよく意識を飛ばしてしまう。有能な秘書として常に鹿島について回る深水に、声を掛けられて我に返る、ということが度々あった。
「今日は、花奈さまのお誕生日ですよ」
「ん、ああ。分かっている」
鹿島は、ほうっと溜め息を吐いたついでに、ちらと横に目を流した。
仕事の書類が山のように積まれているデスクの傍には、小ぶりではあるが高級紙で作られた紙袋がちょこんと置いてある。中には包装紙とリボンにくるまれた小さな箱が入っているはずだ。
「それにしても、さすが花奈さまです。いつもトレンドの先端をいってらっしゃいますね」
「ブランドがか?」
鹿島は、目の前にある書類をばさばさと音を立てて、整えた。
「ブランドもですが、このチョーカーをお選びになるあたり、」
深水が感心するような声で言った。
「モデルのリナとのコラボだそうです。今日発売の限定品ということで、長蛇の列でしたよ」
「……そうか。君にこんなことを頼んでしまって、すまないね」
鹿島は書類に目を落とした。今日まとまった商談の契約書を目で追うが、見つからない。
「くそっ、どこにいった」
紙を掻き分けていると、右手の人差し指に、ちかっと痛みが走った。どうやら紙で、切ったらしい。人差し指の腹から血が滲む。鹿島は指を軽く唇で咥えると、舌に血の味が伝わってきた。
「花奈さまがお待ちですよ」
深水の言葉が、鹿島を追い詰める。
「わかった、わかったから。もう帰るよ」
広いデスクと書類の海の中から目的の契約書を見つけ出すと、鹿島はそれを引っ張り出して、深水へと手渡した。
「お疲れ様でした」
深水が部屋の隅に置いてある金庫へと寄っていくのを見ながら、鹿島は身支度を整えた。
「ああ、お疲れ」
部屋を出ると、エレベーターホールへと向かう。階下へのボタンを何度も押すと、開いたドアへと滑り込んで、エレベーターに乗った。
「誕生日か」
呟くと、仕事モードだった脳がプライベートへと変換される。ガクンっとエレベーターが止まって一階でドアが開いた。視線を上げて薄暗いホールへと出ると、警備員のいるエントランスへと足を向ける。正面に設置されている時計は、すでに9時を回ろうとしているところだった。
(あー、くそっ)
恋人の花奈が、自宅で待っている。
ケーキとシャンパンは宅配で届くように注文してあるから、軽く飲めるようにツマミを作っていてくれるはずだ。
(……とは言っても、訳の分からない葉っぱが入ったサラダくらいだろうけどな)
ふ、と失笑する。
(あんな長い爪では、ナイフも握れないだろ)
冷蔵庫には、確かスモークサーモンがあったし、食料庫にはキャビアか何かの缶詰くらいあるだろ、鹿島はぐるぐると頭の中で、今夜の誕生日祝いの計画を練っていくと、ひとつ、足りないことに気がついた。
(……しまった、)
途端に焦りが足元からせり上がってきて、鹿島は足を速めた。
「お疲れ様です、社長」
エントランスの受付で座っていた警備員が、慌てて立ち上がる。
「ご苦労さま」
苦笑いを見られたか、誤魔化そうとして上げた手を、そのまま目の前に掲げて、腕時計を見る。小さなダイヤが埋め込まれた文字盤と針は、エントランスの時計と同じ時刻を指している。
(店は、まだやっているだろうか)
大きく左右に開いたガラス製の自動ドアから外へと出ると、黒塗りの高級外車が横づけされている。
「お疲れ様でございます」
若い男が頭を下げてくる。
ご苦労さま、声を掛けてから開かれている後ろのドアから、車内へと乗り込んだ。
バタンとドアが閉められ、男が運転席へと乗り込むと、すかさず鹿島は声を掛けた。
「須賀くん、悪いが、少しだけ遠回りしてくれないか」
「かしこまりました」
「花屋に」
「サツキフラワーでございますね」
「ああ、頼むよ」
背もたれに背中を預けると、鹿島は目を瞑った。
「社長、差し出がましいようですが、」
「うん」
「確か、9時の閉店だったかと」
「そうだな、」
誕生日祝いに、肝心の花束が無いとは。鹿島は、簡単には怒りはしないが気に入らないことがあるとすぐに拗ねてしまう花奈の顔を思い浮かべた。
(欲しい品物はこうして用意したわけだから、花束が無いくらいで機嫌を悪くすることもないだろうけど)
「わたくしのお誕生日のプレゼントですけど、」
ソファの隣に座った鹿島にも見えるようにと、スマホの画面を近づけてくる。画面には目一杯に拡大されたチョーカー。細かいダイヤが所々に配された、ゴールドのデザインだった。
「これ、可愛いでしょう? わたくしに似合うと思いません?」
商品がこれでもかというほどに拡大されているので、値段は写っていない。
(……これはまた高そうだ)
心で思うが顔には出さない。
「いいよ、用意しよう。画像を送っておいてくれ」
花奈は、嬉しいと言いながら、頭を肩にもたせかけてくる。滑らかなウェーブのかかった栗色の髪からは、人工的な甘い香りがした。
鹿島は目を開けて、視線をずらした。座席の横に置いてある小さな紙袋を見る。
(これがあれば、まあ、)
鹿島は自分を説得するようにして、再度紙袋を目で確認すると、次には走り出した車から、窓の外を眺めた。
店の灯りが、視界を横切っていき、そしてそれは次第に速く流れていく。
(花奈は、今日で28歳、か)
目当てのものを手にして喜ぶ、花奈の笑顔を思い浮かべる。鹿島は、ふ、と口元に笑みを浮かべた。
(……俺は今、幾つだったか)
自分が何歳なのかを一瞬見失い、それが可笑しくてさらに口元を緩めると、鹿島は窓に寄りかかるようにして、目を伏せた。




