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2018年/短編まとめ

六月の乙女は雨間の花を手折れない

作者: 文崎 美生

雨の匂いがする。

雨粒が埃を払い落とし、世界を色濃く変え、土と草のどことなく鼻につく匂いをさせていた。

スン、と鼻を鳴らし、私は歩く。

手に持ったいくつかの雑誌が、湿気を含んでなんとなくしっとりとした手触りになっていた。


「……あれ?」


雑誌を抱え直したところで、見慣れた姿を緑と青紫の間に見つける。

緑が色濃く、青紫を支えており、その間に収まる――というより沈んだその姿。

サクちゃん?」その人を呼ぶ。

すると、ガサガサと鮮やかな緑の葉を揺らし、擦り合わせながら振り向く彼女。


パチリ、音がした気がした。

真っ黒な二つの目が私を射抜き、私は完全に足を止める。

目が合って数秒、作ちゃんは瞬きを二回してから「MIOミオちゃん」と私を呼んだ。

雨よりも透明度が高く、涼やかで冷たい声音だった。


「何してるの?新しい遊び?」


足を交互に動かし、作ちゃんに近づく。

花壇に植えられた紫陽花の中、体を横たえている作ちゃんは気だるげに目を細めると「いんや」とやはり気だるげに答えた。

小さく左右に振られる首。

長く厚みのある前髪がパラパラと目を覆い隠す。


「見ての通り、落下地点を見誤った」


投げ出されていた両手を持ち上げ、緩やかに宇宙へ向かって広げた作ちゃんは、淀みない歪みない黒目を真向かいにそびえ立つ校舎へと向けた。

二年以上通っている校舎は、それよりも長い年月を感じさせる塗装のハゲが目立つ。

そんな校舎を私も一緒になって見上げ、三階の窓が一つ開いていることに気づいた。


「あそこから飛び降りたの?屋上じゃなくて?」

「あぁ、うん。雨が止んだのを見て、衝動的に」


声音は淡白。

ただし、行動原理は難解で、私では到底理解出来ないものである。

衝動的に、と呟けば、作ちゃんもまた、衝動的に、と頷く。

作ちゃんは恵みの雨が、自然災害となるような梅雨でも、相変わらずのようだ。


毎日を死にたいと思い、口にして生きる作ちゃんにとっては、晴れようが雨が降ろうが、それこそ川が増水しても関係ない。

むしろ逆に、川が増水して氾濫すれば、それはそれは喜んで飛び込むだろう。

想像に難くない、私は一度目を閉じた。


「でも、こんなところに紫陽花なんて咲いてたんだね」


知らなかったよ、と言いながら作ちゃんを振り返る。

当の作ちゃん本人は、澄んだ目を雨間を忘れてしまったような青空に向けたまま、だらしなく四肢を投げ出し「ボクも」短く答えた。

それに私は、おや?と首を捻る。


「予想外と言うか、予定外と言うか……はぁ……」


深い溜息とともに吐き出された言葉に、あー、と悟ることが出来てしまう。

心底疲れたとでも言いたげな作ちゃんは紫陽花を押しつぶすように、その茂みの中にさらに沈んでいく。

白を通り越して青みがかった肌の作ちゃんは、作ちゃん本人が紫陽花のようだ。


うっすらと下ろされた瞼の滑らかな輪郭を覗き込み、長いまつ毛が生み出す影を眺めていると、数秒後には呼吸を止めてしまうのではないかと思う。

肩口で結った黒髪は、湿気でいつも以上に好き勝手な方向へと跳ねている。

明るい鮮やかな水色が、晴れた空のようだ。


それから私は、あれ、と目を丸くする。

湿気が多い割に気温の高くなってくる時期だというのに、パーカーを着込んでいる作ちゃん。

トレードマークといっても過言ではないので、それ自体は珍しいことではない。

パーカーの中に学校指定のブレザーを着込み、その下には濃紺にも黒にも見えるカーディガンを着ており、じっとりと汗をかきそうだが、それでもない。

羽織っているパーカーが、緑や青紫を下から支え上げるような白なのだ。


作ちゃんは、私の視線など気にもしていないようで、完全に目を閉じてしまった。

雨の匂いをかすかに残した風が、緩やかに作ちゃんはの輪郭を撫ぜていく。

作ちゃんの体が押しつぶした紫陽花の花弁が、風に巻き上げられて散っていった。

数枚は、まるで意志を持っているかのように作ちゃんに絡みつく。


黒くうねる髪に、青紫の小さな飾り。

呼吸音の薄い作ちゃんは、よくよく近づいてみなければ、生死の確認がしにくい。

ただ眠るだけでも、寝ている間に死んでいそうな子だ。

雑誌を片手で脇に挟み込み、空いた片手で髪に触れる。


パチリ、また、音がした気がした。

長いまつ毛が上を向き、落とされていた瞼は持ち上げられ、黒曜石のような瞳の中に私がいる。

「何?」僅かに傾けられる首。

その様子を見て、一度は髪に触れた手も引いてしまう。

作ちゃんは、そのことでますます首を捻る。


「二人とも何してるの?」


もう一度手を伸ばすべきか悩んだところで、その思考を霧散させるかのように声をかけられる。

第三者の声に、私も作ちゃんも声の主へと目を向け、あぁ、とどちらともなく息を漏らす。

きょとんとした明るい茶色の瞳が私達を見つめ、不思議そうに何度も瞬きをした。


崎代サキシロくんだ」


ひらり、持ち上げた片手で緩やかに手を振る作ちゃん。

目の前の校舎、閉まっていたはずの一階にある窓の一つを開けて顔を覗かせたのは、同じクラスで私としては高校生初めての友達となった崎代くんだ。

時間経過によって色を変える夕方の空のような、茶色をベースとした癖のある線の細い髪が揺れる。

僅かに匂ってきたのは、絵の具の匂い。


学生が各々自由に活動する放課後、崎代くんがいて、絵の具の匂いがするのは美術室くらいだ。

美術部に所属している崎代くんは、今日も部活動に励んでいたらしい。

いつも通り絵の具汚れの目立つ白衣を着ている。

美術室だけではなく、その白衣からも絵の具の匂いがしているのだろう。


「また作ちゃんは……」

「最近どうにも校舎周りの美化やら緑化やらが進んでいるね」


苦虫を噛み潰したような顔をして見せた崎代くん相手に、被せるように聞く耳を持たない作ちゃんが、ケロリとして言う。

投げ出した足を両方まとめていっぺんに振り上げ、同じ勢いで落とすと、薄い腹に申し訳程度についているであろう腹筋を利用して起き上がる。

作ちゃんの背に押しつぶされていた紫陽花の花が、花弁をまた散らす。


「じゃあ、作ちゃんは歩く環境破壊になるよ」


肩を竦める崎代くんは、紫陽花を見ていた。

崎代くんが言うには、春の終わり頃から用務員のおじさんが用意をしていたらしい。

花の生体には詳しくないが、そんな短い期間で大きく花束のように花が咲くものなのか。

感心して頷いていると「歩いてない。飛び降りたの」至極真っ当で酷くズレた返答をする作ちゃん。

どこまでいってもマイペースだと思う。


私は二人の様子を眺めながら、小脇に挟んでいた雑誌を胸の前で抱え直す。

作ちゃんは、ゆらりと立ち上がる。

やはり、白いパーカーが私の中に大きな違和感として残った。

ワンサイズかツーサイズは大きいパーカーは、お尻を隠すほどの長さがある。


「まあ、失敗に終わった事はもう良いよ」

「相変わらず引きずらないね」

「そんなの次に活かせば良いよ」


また明日だって一分一秒後だって機会はある、と安易に言っているようなものだ。

しかし、私よりも作ちゃんとの付き合いが短くも、その点に関して早い段階で理解し消化している崎代くんは、少しだけ眉尻を下げると「そっか」と頷く。

事実、作ちゃんの飛び降りも首吊りも日常茶飯事である。


ゆらゆらと体を僅かに左右へ揺らしながら歩き、窓の方へと寄っていく作ちゃんは、ぐいっと首を伸ばして崎代くんに顔を寄せた。

次の瞬間には、その顔を大きく傾けて、崎代くんの肩から窓の中、美術室を覗き込む。

滑らかな曲線を描く横顔を、私はぼんやりと眺めていた。


「今日は何描いてるの?」


窓枠へと腕を投げ出して作ちゃんが問う。

崎代くんは体を後ろへと逸らしながら、作ちゃんの顔がある方とは逆から美術室の方を振り返る。

「今日はデッサンだよ」そう答える崎代くんに、私も窓の方へと寄っていく。

二人に倣うように、美術室を覗き込む。


確かに、広げられたスケッチブックがイーゼルに立て掛けられ、その奥には机が一つとその上に花瓶とリンゴが置いてある。

リンゴは赤く、よく磨かれているようで蛍光灯の光に当てられ、ツヤを見せた。

「林檎かぁ」ほぼ無意識に呟いているであろう作ちゃんに、私は頷き、崎代くんは「あげないよ」と注意を促す。


流石にデッサンをとるために使っているリンゴだから、と首を横に振った作ちゃん。

私は、花瓶に入れられた花を見る。

青紫の花がぎゅっと身を寄せあった花――紫陽花が白い花瓶の中で鎮座していた。


「あれって」私は腕を伸ばし、人差し指で紫陽花を指差しながら「あっちの?」頭を傾げるようにして、作ちゃんが誤った落下地点を指し示す。

歯の形が乱れ、花がいくつか散っている無残な状態だ。

作ちゃんが静かに目を逸らした気配を感じる。


「うん……。そうなんだけど」


腰を下げて後ずさりをしようとした作ちゃんだが、崎代くんはそれを見逃すことなく、腕を掴んで止める。

げぇ、作ちゃんの顔が分かりやすく歪む。


「作ちゃん、流石にあのままはどうかと思うよ」


眉尻を下げ、まるで子供にでも言い聞かせるように言う崎代くんに対し、作ちゃんは眉根を寄せて眉間にシワを作った。

うー、とか、あー、とか唸り声が数回聞こえたと思うと、両手を上げる。


「まあ、そうだよね」

「うん、そうだよ」


頷く作ちゃんに頷き返す崎代くん。

私は肩を竦めた。


「俺も手伝うからさ。花弁も片付けて、挿し木とかした方がいいかもね」


考え込むように顎に手を当てた崎代くんに、私は首を傾げながら「挿し木って?」と聞く。

作ちゃんは両手を背中の方で組みながら、手持ち無沙汰な様子だ。

「簡単に言えば種の代わりだよ」作ちゃんが答えて、崎代くんが「そうだね。花じゃなくて枝の部分を切り取って、そこから来年また花をつけるんだよ」と言葉を添える。


目を丸める私は、はぁ、とか、ほぅ、とか吐息混じりに相槌を打つ。

あまり植物には詳しくないので、二人の知識欲については感心する。

「じゃあ、私も手伝う!」片手を上げて宣言すれば、作ちゃんは、ゆらりと体を揺らしながら動き出す。


「なら、ちょっと用務員室行って道具借りてくるよ」

「俺も靴履き替えてそっちに行くけど、作ちゃんはちょっと待って」


身を翻した作ちゃんのパーカーのフードを引く崎代くんに、うえっ、と声を漏らす作ちゃん。

再度振り返った作ちゃんは、前髪を揺らしてその奥で眉を寄せていた。

「何」不満そうな声音だ。


「花弁、ずっとついてるよ」


鼓膜をくすぐるように小さく笑った崎代くんの、絵の具汚れが目立つ指先には青紫の花弁が摘まれていた。

本来なら白いままの白衣の袖が、黄色とオレンジで汚れている。

白い――絵の具汚れはあるが――白衣と白いパーカーに、私は目を細めた。


逆に真っ黒な目を見開いた作ちゃんは、バッと自分の髪を押さえ、後ずさる。

それから髪を押さえた手で、人差し指を髪留めとして使っている水色のシュシュに引っ掛け、ずるりと下ろすようにして外した。


「……行ってくる」


頭を数回振って、今度こそ歩き出す作ちゃん。

「機嫌、損ねちゃった?」そう言う崎代くんに、私は「……うーん。油断大敵って感じ?」と答える。

私の答えの曖昧さに、崎代くんは笑みを深めた。

それから「それじゃ、俺も」と身を翻したが、私が首根っこを掴んで止める。

うえっ、作ちゃんと似たような声がした。


「これっ!そっち置いといて!!」


目の前に抱えていた雑誌を押し付ける。

それに目を落とした崎代くんは「じゅーん、ぶらいんど」ひどくカタコトな言葉を紡ぐ。

「結婚、するの?」「出来ないよ」首を振る。

赤やオレンジを混ぜ込んだ複雑な茶色の瞳が、ぱちぱち、と何度も瞬きをして、私を映した。


「出来ないよ」


もう一度言って、作ちゃんの消えていった方向に目を細めて、私は薄く笑ってみせた。

頭の片隅では、紫陽花の花弁が舞落ちた。

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