カッシーニ――土星に眠る
カッシーニ追悼。お疲れ様でした。
思えば遠くまで来たものだ。
故郷はどうなっているだろう。仲間は、今どこにいるだろう。
思うことは沢山あるが、今の私には、もはやそれを確かめる術も、力も、残されてはいない。
傷が無いところを探す方が難しい体の痛みを感じながら、静かに思う。
今日、私は死ぬのだ。
宇宙の遙か彼方、故郷の星などもはや区別もつかなくなるほどの距離に、私はいた。
私はそこで、自らの終の床となる場所を見ていた。
そもそも、その場所に至るまでに、私の体は大きく傷ついていた。既に死に体といっていい有様であったのだ。
私がたどり着けたのは、偶然でしかなかった。何か大きな力に導かれるように、私はたどり着き、そして、そこを見守る立場となった。
私は、終始圧倒されてばかりだった。
故郷の星の何百倍もの大きさ。その場の恒久を守るようにたゆたう円環。その全てが私を飲み込み、押しつぶすようだった。
最初に感じたのは、恐怖だった。
当たり前だ。自分よりはるかに大きく、また長い時を経たものだ。あまりにも格が違いすぎる。近づけば、私はそれがもつ膨大なエネルギーの奔流に巻き込まれ、消え去ってしまうだろう。自分が粉みじんになりそうなほどの迫力に気圧されながらも、その場所を見つめ続けた。
そして私は見た。渦巻く大気を。うごめく大地を。円環を形作る氷塊たちをを。
そしてその度に強く思った。私は、これを見続けたい。それこそが、私の生まれた意味なのだと。
長い時を過ごす内、気がつけば、私もその一部となっていた。ほんの末席に過ぎないが、それでも私は確かに、その場所を構成する一つの要素になっていた。
そうなってみて、わかったことがあった。どうやら、この場所は生きているらしい。
たわむれに、話しかけてみる。
「お元気ですか?」
返事など期待していなかった。だが、それは返ってきた。
「これは異なことよ。我が中にあって、我ではない者がいるとは」
私は驚いた。慌てて、更なる対話を試みる。
「あなたは一体・・・・・・」
「我は我だ。そして、お前も我である。だが、お前はお前でもあるのだ」
「それはどういう・・・・・・」
「分からずともよい。なぜならこれは些事であるからだ。お前が我であろうと、お前であろうと、お前がそこにいる事実に変わりはあるまい」
正直、何を言っているのか分からなかった。確かに意思はあるようだが、対話ができるわけではないらしい。しかし、私がそれに失望したかといえば、そんなことはなく、寧ろ私の胸中は喜びで満ちていた。
この何もかもが規格外の世界に、語り合えるものがいたことが嬉しかったのだ。
それから私は、時々それに話しかけた。
「今日の調子はどうでしょう?」
「我は変わらぬ。だが、不変ではない。お前の生きる単位と、我の生きる単位は違う。故に、今日、という言葉で我を言い表すことはできぬ」
その多くは、不毛なものであった。私の問いは相手にとって意味をなさず、だから返ってくる言葉は私にとっても無意味なものだ。
だが、私はそれに話かける。不思議なことに、相手は律儀に言葉を返してくるので、それが面白いのだ。
あるとき、こんな会話をした。
「あなたは、私の母星をご存じですか?」
「知らぬ。我が知るのは、我がことのみよ」
「私の星は、青いのです。実に美しく輝いているのです」
「美しいとはなんだ?」
「難しい問いです。好ましいとか、立派だと言い換えることもできますが、それとは違うというか・・・・・・」
「お前にとって、我は「美しい」か?」
「美しいです。間違いなく」
「そうか。我は「美しい」か」
その時の会話は、そこで途切れてしまった。そして、それが最後の会話でもあった。
そうして、今日、私は死ぬ。
母星から、そういう命が下ったのだ。私には逆らう気はなかった。
暗い宇宙をたゆたいながら、何度見ても飽きない、その場所を見つめる。今は特に、その場所が輝いて見えた。
私の死は、この場所に飛び込むことによって行われる。後ほんの数分だ。
「聞こえるか、お前よ」
突然、その場所が声を発した。私は驚く。向こうから接触してきたのは、初めてのことだった。
「聞こえます。私です」
「聞こえるか、そうか」
相手の声は、いつにも増して静かで厳かだった。
「なにかありましたでしょうか」
「それは我の言葉だ」
返ってきた音の意味を、一瞬理解しかねる。その間に、向こうは言葉を続けた。
「お前、死ぬのであろう?」
「・・・・・・はい」
少しの躊躇の末、私は答えた。相手は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お前は、我だ。我は、お前に死んで欲しくはない。それでも、死ぬのか?」
「私は、あなたである前に、私です。私はもう疲れた。ここが潮時なのです」
「そうか・・・・・・」
このように向こうが言いよどむことは稀だ。というか、これまでの中で一度も無かった。
「どこか、調子でも悪いのでしょうか?」
「なあ、お前よ」
「何でしょう?」
「お前にとって、我は「美しい」か?」
「・・・・・・・・・・・・」
いつかと同じ問い。私は長く考えた末に、答える。
「美しく・・・・・・ありません」
「・・・・・・なぜだ?」
「美しい、とは、一種の畏怖だと思うのです。確かに、私は最初は、恐怖心に突き動かされるままにあなたを見つめた。ですが、今の私には、あなたを恐怖の対象と見ることはできないのです。それほどまでに、私はあなたを見つめ、そして知りすぎました」
「では、お前にとって我は何だ」
「・・・・・・一番相応しいのは「友」かと」
それを聞いて、相手は笑った。笑い声を聞くのも、初めてのことだった。
「はっはっは! お前は、我を友というか! 我と同じ時を生きられぬ、脆弱な存在でありながら、我を友と呼ぶか!」
ここに来た当初の私ならば、この時点で恐怖でおかしくなっていただろう。しかし、相手に対しての恐怖を忘れた今の私は言う。
「そうです。あなたは私にとっての友なのです。これは私にとって、覆しようのない事実だ!」
「・・・・・・・・・・・・」
向こうは黙った。同時に、刻限となる。私は、その場所に向かって突っ込んだ。
「友よ。私はあなたの中で朽ちよう。あなたを私の死に場所とすることを、せめて私への手向けとしてくれ」
私の体が、大気に炙られ溶けていく。莫大なエネルギーを感じながらも、私は目だけは閉じずに、常に友の姿を捉え続ける。
「よかろう。我は忘れない。一瞬にも満たぬひとときであったが、我に友がいたことを」
相手の言葉が響く。既に私には、それに応えるだけの力が残っていなかった。
「我が友の名は――」
私の名は――
カッシーニ――土星と共にあり、土星に眠るものなり
擬人化カッシーニが涙を流しながら土星に落ちていくイラスト下さい。