あゆみよる冬
◆
窓を閉めた暗く冷たい部屋の中、一人本のページを繰っていた柊一郎の耳に、古ぼけたチャイムの音が聞こえた。
「……」
億劫になりながら、本を閉じて立ち上がり、玄関に向かう。
ドアを開けると、そこには春子がいた。大きな瞳で、緊張しながらこちらを見上げている。
「春子ちゃん……? どうして」
「ごめんなさい、私、どうしても」
どうしても、謝りたいことがあって。
外は冷える。肩を震わせる春子に、玄関先で立ったまま話をさせるわけにもいかなかったので、柊一郎は春子を家にあげた。
温かいココアを用意しようにも、牛乳がない。コーヒーを飲むかと尋ねたら、春子は、少し困ったような顔で断った。
「すみません、コーヒーは……」
「そうだね」
春子が甘いものが好きなことは、よく知っている。
その後、お互いに気まずいまま、少し時間が経ち――先に口を開いたのは、春子だった。
「これ……ありがとうございました」
「ああ……」
春子が差し出したのは、『モモ』だった。柊一郎の本だったが、正直忘れていた。そのまま貰ってくれても良かったのだが。
「わざわざ、返しに来てくれたんだね。……気にしなくてよかったのに」
謝りたいこととは本を借りっぱなしだったことだろうか、と柊一郎が内心考えていると、春子は首を振った。まっすぐの黒髪がさらさらと揺れる。
「ごめんなさい、私、謝らないといけなくて」
「……春子ちゃんが気にすることなんて、何もないよ。むしろ僕が、春子ちゃんを騙していたようなもので……」
「違うんです、私、」
春子は柊一郎に惹かれた。穏やかな笑みを向けて、優しくしてくれた。同じ本の話をした。それらは、彼を好きになるには十分だったと思うけれど、それだけじゃなかった。
この部屋に来て、分かった。生活感を感じさせない、殺風景な部屋。彼は他人を寄せ付けないように生きていることは、明らかだった。
そんな空白や孤独を抱えた彼に――春子は、幼い独占欲を持ったのだ。
その裏に、どんな苦しみがあるかも、察してやれないで。
「年を取らないんじゃないかって、気付いた時も、私、緑さんのこと、何も気遣ってあげられませんでした」
年を取らない彼は、きっと人と深く関わることを避け、居場所を転々としながら生きてきたはずだ。
春子に、内緒にしてくれと頼んだことからもそれはわかる。
それを察してあげられたら、あんな苦しそうな顔を、させなくて済んだかもしれなかった。
「そんなこと、春子ちゃんが気にすることじゃない……。僕の存在が、普通じゃないんだから」
春子はぶんぶんと首を振り、そうじゃないことを示すように柊一郎に近付いた。
少し冷たい彼の手に自分の手を重ねた。
「緑さんの話を聞いた時……素敵だなって、思ったんです」
「素敵?」
「怒ってください……あの、まるで……物語に出てくる、エルフみたいだなって」
――エルフ?
柊一郎は、虚を突かれた。
確かに、多くの物語で、エルフは長命の種族として描かれる。長命ゆえの深い知識を持つ、美しい妖精であることが多い。
あまりに予想外の言葉に、柊一郎が返事ができずにいると、春子はまたごめんなさい、と繰り返した。
「私、馬鹿ですよね、そんな……緑さんの大変さとか、何も知らずに、そんなこと考えて……」
あれから春子は、ちゃんと想像した。柊一郎が、どれだけ大変な思いで、生きてきたのか。だから、浅はかな自分の考えを謝りたかった。そして、身勝手でも柊一郎の傍にいたかった。
柊一郎は、しばらく言葉を探していたが――やがて、静かに、春子に握られたままの手を見つめた。
「……『指輪物語』、初めて僕が春子ちゃんにあげた本にも、エルフが出てきたね」
「……はい」
「春子ちゃんに借りた、『ロードス島戦記』にも……ね」
「はい……」
柊一郎は、くしゃ、と顔を歪めた。苦笑のような、泣き笑いのような、何とも言えない表情だった。
「君は、僕が、気持ち悪くないのかい……?」
春子は大きな瞳で、柊一郎を見ていた。その細い指は、確かに柊一郎の手を掴んでいた。
「……また、ここに来てもいいですか。読みたい本も、お話したいことも、たくさんあるんです」
「は……」
春子ちゃん、と呼んだ名前は、声にならなかった。涙が落ちるのを見せられないと、咄嗟に顔を下げた時、花のような甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐった。