さがしだす冬
◆
柊一郎の家に行かなくなってから、ひと月が経った。
春子の部屋には、彼から借りた『モモ』がそのままになっている。
風は日毎に冷たくなり、見える空は灰色を濃くしていく。もう冬だった。
(……緑さん)
虚ろな目で、厚く空を覆う雲を見上げた。
本に手をつける気にもならず、無気力にベッドに寝そべっていると――春子の部屋のドアが、こんこんとノックされた。
「春ちゃん、入ってもいい?」
「……汐里お姉ちゃん?」
ドアの向こうから聞こえてきた声に、春子は体を起こした。慌てて手櫛で髪を整え、ドアを開ける。
「やっほ、春ちゃん」
「お姉ちゃん、いつ来てたの?」
「ついさっきよ、気付かなかった?」
そう言って快活に笑う汐里は、春子の従姉妹だ。
出版社に勤めている汐里は、日曜日なのに仕事帰りなのだろうか、ベージュ色のスーツをぴしっと着こなしている。
一回り年上の汐里は、いつでも春子にとって憧れのお姉さんだった。一人っ子の春子は汐里によく懐いたし、汐里も春子を妹のように可愛がってくれた。
まだ幼稚園生だった春子に、中学生の汐里はよく絵本を読み聞かせてくれた。春子の本好きは、汐里の影響でもある。
「あら、『モモ』ね、懐かしいわ」
汐里が、机の上に置かれた本――ミヒャエル・エンデの『モモ』を手を取った。
「お姉ちゃんも読んだことあるの?」
「ええ、時間にまつわる不思議な話ね。時間に追われた大人になってから読むと、また違う味わいがあるから、春ちゃんも、また何度か読んでみたら?」
「……。」
春子は俯いた。本当は、この話を、あの人としたかった。
落ち込む春子に、汐里は明るく笑いかけた。
「ね、春ちゃん、時間ある?」
「え……」
「買い物に付き合ってほしいの」
◆
慌ててお洒落な服に着替えて準備を整えた春子は、汐里の運転する車で、ショッピングモールに連れてこられた。
汐里の案内で、主に雑貨屋を見て回る。汐里に勧められ、お揃いで色つきのリップを買った。
「これくらいなら学校につけていっても大丈夫でしょ?」
「うん……」
高校には、軽くお化粧をしている子もいるから、それは問題ない。
ただ、春子は今まで化粧というものをしたことがない。改めて汐里を見れば、ちゃんと化粧をしていて、大人の女性だと改めて感じた。
買い物を終えて、近くのコーヒーショップに入った。柊一郎とよく行っていた喫茶店と違い、店内は混みあっていて賑やかだった。
「春ちゃん、何する?」
「ええと……じゃあ、コーヒーを……」
「あら、コーヒー飲むの? じゃあ……私はカフェラテ」
汐里がてきぱきと注文をしてくれ、二人は窓際の席に向かい合わせで座った。
春子は、コーヒーという真っ黒な飲み物を啜ってみたが、慣れない味に、思わず変な顔をしてしまった。
「……。」
こんな苦くて酸っぱいものを、彼は飲んでいたのか。
それ以上、コーヒーを飲み進められなくなった春子に、汐里は、まだ口をつけていない自分のカフェラテを差し出した。
「春ちゃんは、こっち飲む?」
「あ……」
牛乳がたっぷり入ったカフェラテは、ココアほどではないが、優しい味がした。
もしかして汐里は、春子の背伸びを見透かして、甘い飲み物を頼んでくれたのだろうか。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「いいのよ」
「ううん、それだけじゃなくて……」
カフェラテの、白と茶色のマーブル模様を見ながら、春子は言った。
「私が、元気ないから、外に連れ出してくれたんだよね……?」
「……気付いてたかあ」
汐里はふふっと笑った。
汐里は、春子の母、つまり汐里の叔母にあたる人から、春子の様子がおかしいと相談を受けていた。
それとなく聞いても、娘は何も話してくれないし、どうしたものかと。話を聞いた汐里も、春子が心配になったので、時間を作って訪ねてきた。
久しぶりに会った従妹は、確かに元気がなかった。
ただ――普段見ていないからだらうか。とてもきれいになったという、印象の方が強かった。
「春ちゃんは、ちゃんと自分で考えられる人だと思うから、私が押し付けがましく色々言ったりはしないけど」
「……うん」
「もし、話せるのなら、聞かせてね」
「……ごめん、でも」
柊一郎のことは、話せない。それは柊一郎に頼まれたからではなく――春子の中でも、彼との時間は、ずっと秘密にしておきたいことだったから。
汐里に言われた通りだった。
本当は春子の中で、ぐるぐると迷っているようで、いつも行き着く先は同じだった。
「……お姉ちゃん、私ね、好きな人がいるの」
「うん」
「でも、……悪いことしちゃったの、嫌われちゃったの」
「……そう」
それでも。
つたない春子の話を、頷きながら聞いてくれた、遠い目をした、優しい人。
年の差なんて言葉どころではない。柊一郎は春子にとって、どこまでも遠い人だ。
それでも、春子は――柊一郎が好きだった。