つきはなす秋
ほどなく終戦し、柊一郎はやはり目まぐるしく変わっていく時代の中、一人変わらずにひっそりと生きていた。
戦争で様々な記録が焼けてしまった混乱に乗じ、うまく柊一郎は、新たに若者として戸籍を得ることができた。
そして今までと変わらずに、職や住む場所を転々としながらひっそりと生きてきた。
その時々で他人と親しくなることはあっても、深く関わることはしないように気を付けた。定期的に人間関係を清算しなければならないし、自分について問われれば、ほとんど嘘をつかなければならない。
嘘をつくことが得意でなかった柊一郎は、自然と、他人と距離を取るようになった。
既に年齢を数えることに意味はないと思うが、百二十歳はとうに過ぎている。
終わりのない人生に、自ら命を絶つことも考えたが、そのたび、その勇気もない自分に気付く。
静かに暮らし続けるしかないと諦めていた柊一郎だったが、ある時、柊一郎のもとを訪れる人がいた。
「ここは緑さんのお宅ですか?」
前触れなく訪れた相手は、柊一郎の知らない人間だった。
「緑柊一郎さんはいますか?」
「自分ですが……」
柊一郎が言うと、訪ねてきた男性は怪訝な顔をした。
「失礼ですが、ご家族は」
「一人です……。すみません、ちょっとこれから用があるので、お引き取り頂けませんか」
問われながら、柊一郎は不穏なものを感じ、彼をどうにか追い返せないものかと、焦っていた。しかし男性は、そんな柊一郎の態度にますます食い下がる。
「自分は市の職員なのですけどね」
聞けば、柊一郎の住民登録に不審な点があるのだという。
「登録されている年齢がどうもおかしいんですよ、だから調査していまして」
あくまで男性は行政の過失のように言っているが、柊一郎が何らかの不正をはたらいているのを疑っていた。
(――不味い)
いくら長く生きていても、柊一郎は裏社会などとは縁のない一般人だ。戸籍などをごまかす手段もなく、その時々で嘘をついて切り抜けてきた。それで今まではどうにかなっていたが、時代は平成に入り、管理社会になると、ごまかしきれなくなってきたのだ。
うまく切り抜けることも逃げ出すこともできず、事態は悪い方向に転がっていく。
緑柊一郎は様々な記録から、終戦直後、昭和二十年頃から存在していたことは事実であった。ならば、老人であるはずの「緑柊一郎」がいるはずと、当然考えられる。しかし、それを名乗ってしまった柊一郎は、身分の乗っ取りを疑われた。当然、本当の柊一郎をどこへやったのか、お前は誰なのかと厳しく追及される。
しかし、ここにいる青年の自分がそうだとも言えず、黙秘する柊一郎に、ついに警察まで動き出す。
もう隠しておけないと諦めた柊一郎は、自分が若く見えるだけということを話してみたのだが、馬鹿げた話と一蹴された。
「それが本当ならまるで化け物だな!」
「…………。」
事実、柊一郎は自分が普通の人間ではない自覚はあった。化け物と罵られても、仕方がない。
だが、「柊一郎を名乗る若者の正体を調査し、老人である本物の柊一郎を捜索」していた警察は、柊一郎の生きてきた記録を辿り――ついに柊一郎が変わらぬ姿で生き続けているという真実に辿り着いてしまう。
「そんな話があるか……!」
事情聴取をしていた警察官は、怯えた目で柊一郎を見た。
次に柊一郎が送られたのは病院で、柊一郎は入院させられ、あらゆる検査を受けさせられた。
もはや抵抗する気もなく、隔離された病室で、苦痛の日々を過ごす。
入れ替わり立ち替わり医者のような人間が来ては、自分に質問を繰り返し、柊一郎の体を調べる。好奇心、忌避といった視線をぶつけられ、柊一郎は自分がとても気持ちの悪い化け物の姿をしていて、観察されているのではないかと錯覚した。
二年も経った頃、ついに柊一郎の体に対し、一つの答えが出た。
「テロメラーゼ異常活性症候群というところでしょう、もちろん今まで例のない症例ですが」
研究者の話によれば、本来は再生しないはずの体の組織が、柊一郎の体では常に再生を続けているのだという。それが不老を引き起こし、寿命さえもないものにしていると。
難しい理屈は柊一郎にはわからなかったし、どうでもいいことだった。
ただ、病気だというなら、治るかと問えば、研究者は現代の技術では何も分かりませんと、首を横に振った。
その後、柊一郎の知らないところで何らかの手続きが進み、まとまった額が柊一郎の口座に振り込まれた。
名目は、珍しい症例に対する治験への参加の報酬となっていたが、不当に拘束したことの賠償でもあるのだろう。
柊一郎の一通りの人権は確保され、年齢に関わる公的な手続きは、所定の連絡を踏めば可能になった。奇妙なことに年金まで支給され、働かなくともどうにか生活していける存在になった。
解放された柊一郎は引っ越し、また誰も自分を知らない場所で、ただただ、静かに過ごすことを選んだ。
もう疲れきっていた。
昔、思うように読めなかった本を読み、日々を過ごす。人に関わらず、何もすることもない柊一郎はそうして毎日を送る。
ここではない世界、幻想世界を描いた作品には特に惹かれた。いつ終わるとも知れない現実に目を背けるにはうってつけという、後ろ向きな理由かもしれなかったが。
一人、年を取らなかった人間の果て――それが、柊一郎の正体だった。
◆
話を聞いた春子は、ただ驚いた。年齢の割に若く見える、なんてものではない。
それはまるで、不老不死ではないか。
春子の考えを読み取ったのか、柊一郎は自嘲したように言う。
「不老かもしれないけど、不死、ではないよ。僕だって怪我をすれば、死ぬだろうからね」
「やっ……」
春子の小さな悲鳴に、柊一郎は首を振った。
「……すまない。こんな得体の知れない相手といたなんて知って、怖かっただろう」
「そんな、違うんです、私は――」
春子は必死に言葉を探すが、何も出てこなかった。
柊一郎は、春子の『ロードス島戦記』を取ってきて、押し付けるように返す。
「春子ちゃん、僕が自分の事情を正直に話したのは……せめてものお詫びだ。春子ちゃんは僕の事を言いふらすようなことはしないって信じているけど、頼むから誰にも言わないで欲しい。……生きていくのが、難しくなるからね」
「――!」
春子は目を見開いた。
「み、緑さん、私」
「もうここに来ては駄目だよ」
柊一郎は、春子を追い出し、ドアを閉めた。
玄関の扉の外に、彼女の気配がしたが、振り切って部屋の奥へ向かう。
あの写真が落ちていた。柊一郎はそれを、コンロの火で焼き捨てる。一瞬で灰になった紙切れに、奥歯を噛みしめた。
――何で、こんなもの!
写真なんて残していた自分の迂闊さを呪いたくなる。この頃にはもう、自分は、人と違っておかしいことは分かっていたはずなのに。
「いや……」
写真なんかなかったとしても、彼女が自分の秘密に気付かなかったとしても、いずれ何らかの形で、こうなる日は来た。
柊一郎の体の時間は止まっていて、いつか必ず、春子と別れたはずなのだから。
ならば、早い方がいい。
空気の止まった部屋の中、柊一郎は横になって目を閉じた。