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こぼれだす秋


 ◆


 次の木曜日、いつものようにチャイムが鳴った。

 柊一郎は読みかけていた本に、近くにあった手近な紙――この時は郵便受けに入れられていた何ということはないチラシだった――を挟んで机に置き、すぐに玄関に彼女を迎えに行く。


「いらっしゃい」

「お邪魔します」


 言いながらドアを開ける。春子は頭を下げて、柊一郎の後に続いて中に入った。

 いつも、廊下を歩きながら、明るい声で本の話を始める春子だったが、今日は黙ったまま居間までついてきた。


「あの……っ、」


 呼びかけられ、柊一郎は振り返る。春子はちらちらと柊一郎を上目遣いに見た。いつもと違う春子の様子に、柊一郎も何かがおかしいと気付く。


「……どうしたの」


 春子はぐっと手を握った。

 知らなかったことにすればいい。写真のことはなかったことにしてしまえば、そう、本に挟んで放っておかれた古い写真など、春子がこっそりと処分してしまっても、柊一郎は気付かないだろう。

 そして今まで通り、好きな人と本の話を続けていければいい。


「……本に、これが、挟まっていて」


 だけど春子は、そんな器用な嘘がつける人じゃない。考えてきた言葉も何もかも、柊一郎を前にすると出てこない。結局、しどろもどろになりながら、春子は古いモノクロ写真を出した。


「……。これは」


 柊一郎は、すぐにそれが何かは分からなかったようだが、それが意味するところを知って、凍りついた。


「見たんだね」


 責める響きはひとつもないけれど、震える彼の声に、春子はただ頷くしかできなかった。

 こんなにも、動揺するなんて。


(じゃあ、やっぱり、この人、は)


 写真は、モノクロの古いもの。そこに柊一郎が写っているというのは、何を意味するのか。


 色々な可能性が考えられた。まず、写真に写っているのが、柊一郎本人ではなく、よく似た他人――親類である可能性。

 しかし、写真の彼の額には、花の形の火傷の痣があった。こんな特徴的な痣を持つ他人がいるとは考えにくい。


 では、写真自体が古いものではないのか。しかし、背景の風景、特に背景にある、建設中の東京タワーが、その可能性を否定する。写真自体も染みがついて、かなり古いものであるのは間違いない。


 それでも、合成写真という可能性も、あった。紙をそれらしく古く加工することだって可能だろう。

 しかし、柊一郎の固まったような表情が、それを全て否定している。


 あれから春子は、インターネットで調べた。東京タワーが建設されたのは、1957年。そして、郵便番号が三桁の葉書が使われていたのは、少なくとも1998年、今から19年前なのだ。

 目の前の青年が、見た目通りの年齢ならば――辻褄が合わない。


(この人は、歳を取っていない)


 何も答えない柊一郎に、春子は恐る恐る顔を上げる。

 そこには、手で顔を覆った柊一郎がいて、指の隙間から見える顔は、こちらが苦しくなるほど歪んでいた。


 ◆


 明治八年――柊一郎は、呉服屋の長男として生まれた。元より店を継ぐつもりでいた彼だが、恵まれたことに、商人の父は学問を重視する人だった。


「これからの時代は学がなきゃあ駄目だ。焦って店の勉強なんかしなくていいから、もっと本を読みな」


 そんなことを常々言っていた父だが、病に倒れてしまう。結核だった。

 まだ若くして父を亡くしてからは、柊一郎は、母やまだ幼い弟妹のために必死で働かなければならなくなった。


 大した余裕のある家ではない。懸命に働き続けている間、自分を顧みる余裕はなかった。

 弟が職につき、妹を嫁にやり――ふっと気が付いた時には、柊一郎は四十を超えていた。

 ――そのはずだった。




「兄さんは昔から変わらない。……一緒にいて、自分が兄と思われるならまだしも、親だと思われることさえある」


 久しぶりに会う弟の言葉に、柊一郎は何も言えなかった。


「一体どうしたらそんな若くいられるんだ?」


 頭に白いものが混じり始めた弟を見て、年を取ったと思った。

 一方で、柊一郎の姿は、二十歳くらいの時からまるで変わらない。

 どう考えても、自分の方が普通ではない。だが、柊一郎にはさっぱり分からなかった。


「……頼みがあるんだ。店を、譲りたい」

「え、何だって急に」

「売り払ってもらっても構わないが、母さんのことは頼みたい」


 柊一郎はこの時、家を出る決意をしていた。

 この辺りは、柊一郎を子供の時から知る昔馴染みの人々ばかりだ。その彼らが、まだ若者にしか見えない柊一郎に奇異の目を向けていることに気付いていた。共に住む母も柊一郎を庇いながらも、どんどんと見た目の年が離れる息子を気味悪く思っているのも、伝わってくる。


「……兄さんは」

「どこか知らない土地へ行く。東京なんかいいかもしれない」


 話に聞く東京は、人が多い場所という。その中に紛れれば、自分一人くらいどうにか隠れて生きていけるかもしれない。


「……そうか、分かったよ。兄さんは今まで私達のために生きてきたんだ。こっちは任せて、好きにするといい」


 そう言う弟は、どこか安堵していた。

 そして、柊一郎は東京へ移る。大正七年のことだった。




 時は流れ、昭和二十年。

 時代がめまぐるしく変わる中、柊一郎は東京の片隅でひっそりと生きていた。


 柊一郎は、窓ガラスに写る自分の姿を確かめ、ため息をつく。


 変わらない……。


 計算上、柊一郎は百年近く生きているはずだ。だというのに、容姿が老けないどころか、体力も若者と変わらないし、そもそも、まだ生きている。


 そろそろまた棲みかを移した方がいいかもしれないと考えるが、戦時下の厳しい状況にそれは容易ではない。

 一見若い男であるが、そのことが戸籍に記録されていない柊一郎は徴兵されることはない。しかし、今あまり派手に動けば、逃げ出したと思われて捕まるかもしれない。


(何を考えているんだ、僕は……)


 自分よりずっと若い人々が命を散らしている。自分はもう充分に生きたはずだ。

 そんなことを暗い思いで考えていると、遠くからサイレンが聞こえた。


「空襲だ!」


 荷物をまとめ、急いで逃げる柊一郎に、焼けた家が崩れ落ちる。炎をまとった瓦礫が容赦なく降りかかり、服に燃え移る。


 そこから先は無我夢中で逃げて、あまりよく覚えていない。

 ただ気が付いた時には、嫌に焦げ臭い焼け野原となった町で、呆然としていた。


 額や肩を焼いた火傷の痕はひどく痛むが、大きな怪我はない。

 黒い煤にまみれながら、柊一郎はぼんやりと空を仰いだ。


(……生き残って、しまった……)


 あれだけ、長い時間を、無為に生きてきたのに。

 土壇場で、死にたくないと、がむしゃらに逃げて、生にしがみつく自分に気付いてしまった。


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