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すぎていく秋


 ◆


 ピンポン、と古ぼけた部屋のチャイムが、どこか引っかかったような音を鳴らす。柊一郎は、ドアを開けた。


「いらっしゃい、春子ちゃん」

「はい、お邪魔します」


 礼儀正しく、礼をしてから部屋に入り、後ろ手に靴を揃えて上がる春子だが、最初にここを訪れた時のように緊張はしていない。勝手知ったる様子で、真っすぐ本棚のある部屋に向かった。

 春子の制服が、長袖のセーラーになっていて、秋が来たことを知る。春子はいつもの学生鞄の他に、大きな手提げ袋を持っていた。


「ちょっと待ってね、ココアを淹れるから」


 柊一郎は、鍋に牛乳を温めながら、ココアと砂糖を用意した。牛乳とココアの粉は、春子がここに遊びに来るようになってから、冷蔵庫に必ず用意されるようになった。特にココアの粉は、絶対に今までは家に存在しなかったものだった。


「お手伝いします」


 春子はそう言って、マグカップを二つ出して台所に並べた。それから、コーヒー用のお湯と、牛乳が温まるのを、コンロの前に二人並んで待つ。火の温かさが少し心地いい。


「最近、急に涼しくなったね。春子ちゃんは風邪なんてひいてない?」

「はい。私は秋が好きなので、これくらいの空気の冷たさがいいです」


 温かい部屋よりも、少し涼しいくらいの部屋で、毛布を体にかけている方が心地いい。そして秋の夜長に、ベッドの上でゆっくりと本を読む。


「春子ちゃんは、春じゃなくて秋が好きなんだ?」

「そうですね……」


 春子は少し苦笑しながら答えた。お湯が沸いたので、一旦話すのを止めて、春子はコーヒーを淹れた。柊一郎もちょうどココアを淹れて、お互いに湯気の立つマグカップを交換して座った。


「あんまり、春……というより、春子って名前、好きじゃないんです」

「そうなのかい?」


 あくまで穏やかな顔で、柊一郎は問いかける。春子はココアの温かさがゆっくり体の中に落ちていくのを感じながら、打ち明けた。


「私、春生まれなんですけど……なんだか、春に生まれた子供だから春子って、あまりに単純な気がして」


 言っているうちに、実に子供じみた些細なわがままを言っている気がして、少し顔を赤くした春子だったが、柊一郎なら、馬鹿になどしないで聞いてくれるという信頼感があった。

 そして柊一郎は、優しく頷き、目を細めながら春子の話を聞いていた。


「……何だったかな。『コーデリアと呼んでくださらない?』を思い出したよ」

「または、『おしまいにeのつく方の』ですね」 


 くすりと笑いあってから、柊一郎は一口コーヒーを啜りながら言う。


「僕はいい名前だと思うよ。春に生まれた子供……子供が生まれるということはそれだけで素晴らしいことだからね。優秀であれ、賢くあれと、色々な願いを込めるのもいいけれど……きっとご両親は、春になるたびに、春子ちゃんが生まれた時のことを思い出すよ」

「……そうでしょうか」


 そう言いながら、春子は、良い名前だと言われたことが嬉しくて照れたようにはにかんだ。


「緑さんの名前の由来は何ですか?」

「僕? ……さあ、どうだったかな、聞いたことなんてあったかな」


 柊一郎は、少し遠い目をした。

 もうずいぶん前に、自分の両親は他界している――はずだ。

 春子は柊一郎が、どこか寂しそうな空気を持ったのに敏感に気付くと、慌てて話を変えた。


「でも、『柊一郎』っていうの、いいお名前ですよね。あっ……」


 春子はあることに気が付いて、笑顔で柊一郎を見た。


「何だい?」

「いえ……その、お名前に、『冬』って字が入っていて、その……お揃いだなって」


 今度こそ子供じみた発言だと思ったのか、春子は恥ずかしくて柊一郎から目を逸らした。


「……え、ああ、……そういえばそうだね」

「はい」


 顔を赤くしながらココアを飲む、目の前の少女の言葉に目を瞬かせながら――柊一郎は、胸の奥を強く引っ張られるような、塩辛い苦しさを感じた。


 ◆


 ココアとコーヒーをそれぞれ飲み終えて、お互いに最近読んだ本の話をする。そして、帰る時間になって、春子は思い出したように自分の持ってきた手提げ袋から、文庫本を数冊渡した。


「この前言っていた、『ロードス島戦記』です」

「ありがとう、楽しみに読ませてもらうよ」


 剣を持った戦士や魔法使いのような人々が表紙に描かれている。剣と魔法の世界のファンタジー小説だと聞いていた。作家は日本人だったので、柊一郎は少し意外に思った。

 代わりに、柊一郎は、この一週間の間に、出しておいた本を春子に渡した。しばらく読んでいなかったので、段ボールの奥にしまい込まれていたので、捜すのに少し時間がかかった。


「『モモ』ですね。嬉しいです」

「読んだことなかったんだね、意外だったよ」


 お互いに話す中で、共通に読んだことのある本があれば、その本の話を。相手が読んだことがない本があれば、互いに貸し合う。ずっとそんなことを繰り返していても、話すことが尽きないのだった。

 春子は、たくさんの時計が描かれた本の表紙を、わくわくしながら眺めた。きっと今晩にでも読み始めるのだろうと、柊一郎は微笑ましい思いで見た。


「じゃあね、春子ちゃん」

「はい」


 春子を見送り、柊一郎は、静かになった部屋に一人佇み、しばらくしてから電気をつけた。急に温度の下がったような気がする部屋に、どうしようもない寂しさを覚えながら、首を振る。


 来週になれば、春子は必ずまた本を返しに来るじゃないか。

 カレンダーを見つめながら、それまで、ただ僕は本の世界に浸っていれば。そう思いながら、冷たい床に、手をついた。


 ――こんな時間が永遠に続くわけじゃない。


 春子は高校生だ。いつか高校を卒業すれば、こんな部屋に来る時間はなくなるだろう。いや、それよりもっと早いかもしれない。大学に進学するにせよ、就職するにせよ、いつまでもこんなところで時間を潰しているわけにいかない。

 仮に、もし仮に、春子が自分の友人で居続けてくれたとしたって――いや、あり得ない。その前に僕が、ここを去らなければ――。


 本が詰められたままの段ボールを見る。

 ここに越してきたのは何年前だっただろうか。どうせまた引っ越すのだからと、詰められたままの本達。

 いつでもここを去れるようにと、増えては売ってを繰り返して、一定以上に増やさないようにしていたはずの本は、春子のお気に入りという理由で、ここに置かれたままだ。

 

「ああ……」


 いずれ確実に来る別れを、柊一郎は恐れていた。


 ◆


 どきどきと胸を高鳴らせながら、春子はその名前を読んでみた。


「柊一郎さん……」


 名前を口にするだけなのに、どこか恥ずかしく、それでいて、ココアのような甘くて温かい気持ちになる。

 恋というのは、大人のものだと思っていたが、むしろ春子は、恋というものは子供にかえるようなものだと思う。

 もちろん春子はまだ高校生で、まだまだ子供であるのだが――柊一郎に対して、甘えている自分に気付くたび、幼い子供に戻ってしまったのではないかという気持ちになるのだ。

 それに、恋人同士というものは手を繋いだり、寄り添ったりするイメージが春子の中にあった。手を握られるというのは、春子の中では、小学校よりも前の、幼かった頃の記憶しかない。


 高校近くのバス停から、バスに乗り込む。椅子に座れたので、春子は待ちきれず、柊一郎から借りた本を開いた。


(あれ)


 ページが貼りついているような感触がある。少し黄ばんだ本のページを、慎重に引っ張って剥がすと、ペリペリという音を立ててめくれた。


(あ、また、本の間に何か挟まってる……)


 ちょっとおかしくなる。あの葉書の一件でもそうなのだが、どうも彼は読書を中断する時に、手近にあった紙であれば、何でも挟んで栞にしてしまうようなのだ。今までも、借りた本の間に、水道代の領収書や、スーパーのレシートが挟まっていたことがあった。

 本のページにくっつくようになってしまっていたところを見ると、どうもだいぶ昔に挟んだままになっていたもののようだ。少しベタベタする手触りのそれは、写真だった。


(……白黒の写真? だいぶ古いもの……)


 春子も、知識では昔の写真は白黒だということを知っていたが、実際に見たことはない。両親のアルバムでさえ、写真はカラーだったのではないだろうか。


「え?」


 ぼやけた画質のそれを見て、春子はバスの中だというのに、思わず声をあげた。

 写真に写っている人の中に――額に花のような火傷の傷を持つ青年――柊一郎がいたからだ。


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