おわりゆく夏
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『閉店』の張り紙がされた古本屋の中で、老主人とその娘、そして柊一郎と春子は、ブルーシートを敷いた床の上に、本棚から出した本を置いていた。
「すまないねえ、手伝ってもらっちゃって」
老主人は声をかけたが、柊一郎は首を振った。
「ここにはよくお世話になりましたから」
「まあ、好きな本があればいくらでも持っていってくれていいよ」
毎週、柊一郎と春子が待ち合わせをしていた古本屋は、店主の高齢を理由に、この夏で店を畳むことになった。春子も柊一郎もこの店を気に入っていたのでとても残念だったが、どうしようもない。
常連客だった春子と柊一郎は、店主とも仲良くなり、二人の好きそうな本が入荷したら教えてもらうこともあった。今までの礼も兼ねて、夏休みなので時間のあいている春子と、柊一郎は店の片付けを手伝うことにした。
「春子ちゃん、今度これ読もうって言ってたものじゃないかな」
「あっ……これ、……はい、読みたいです」
柊一郎が手に取った、ラルフ・イーザウ作、『ネシャン・サーガ』を見て、春子はぱっと顔を輝かせた。
現代世界に生きる主人公が、ファンタジー世界の中に入り込むという物語は、幻想世界を愛する春子にはとても興味深いだろうと、柊一郎が薦めた本だった。
「そうか、あげるよ」
「あ、ええと、でも……」
春子はちらっと、手提げ袋を振り返った。それは春子が今日、本を持ち帰るために持ってきたものだが、もうパンパンになってしまっている。これ以上本を入れたら、重くて持ち運べないどころか、袋の底が抜けてしまうかもしれない。
「ああ、焦んなくても、何日かに分けて持って帰ってくれてもいいよ」
老主人はそう言ってくれたが、春子は俯いた。
「あ、でも……家の本棚がもういっぱいで……」
家に持って帰ったところで置く場所がないと、春子は自分の部屋の様子を思い返して残念そうに言った。もともと本の多い部屋だったが、柊一郎と共に古本屋に通うようになって以来、さらに本の増えるスピードは上がり、入りきらない本が床を抜くのではないかと母に言われている。
「じゃあ、僕が貰ってもいいでしょうか?」
柊一郎が尋ねると、老主人は当然快く答えてくれた。
「他に春子ちゃんが欲しい本があれば、僕が持って帰っておこうか」
「いいんですか?」
「僕は独り暮らしだし、多少本が増えても困らないから」
春子はぱっと顔を輝かせて、さっきよりも楽しそうに、本の片付けを手伝い始めた。そんな様子を、柊一郎は目を細めて見ていた。
◆
結局、柊一郎は、大量の本を抱えて帰ることになった。八月ももう終わりだが、まだ暑さは厳しい。重い荷物を抱えて帰ると、シャツはすぐ汗だくになった。
「すみません、何だか、こんなに……」
「いや、いいんじゃないかな。ご主人も喜んでいたし」
本として再び読まれるのであれば、嬉しいと、老主人は快く本を譲ってくれた。中には柊一郎が売った本もあって、何だか申し訳ない気分にさえなったのだが。
「さすがに重いでしょうから、私の自転車を使ってください」
「ああ……確かに、その方が助かるかな。じゃあ、僕の家はすぐそこだから、少し自転車を借りるよ」
夏休みになっても、二人の毎週木曜日の時間は、どちらともなく望んだことにより、そのまま続いていた。
春子は、授業のある期間には、家から高校までバスで通学しており、高校近くの古本屋に寄ってから帰っているのだが、夏休みの間は、通学定期がないからと、春子は自転車でこの近くまで来るようにしていた。
春子の荷物と、柊一郎の本をまとめて乗せ、自転車を押していく。
少し歩いていくと、小さなアパートについた。アパートの一番奥の部屋のドアを開け、柊一郎は本を玄関先に置いた。
「ふう……。汗かいたね、お茶でも出そうか」
「あっ、あの……お邪魔します」
春子は緊張しながら、部屋の中に入った。柊一郎が、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出してコップに注いでくれている間、そっと部屋を見回した。
(ここが、緑さんの住んでいるところなんだ……)
全体的に物が少なく、片付いているが殺風景な印象があった。読書家なので、本が多いのだろうと予想していたが、思っていたより本棚は少なく、多くの本は引っ越し業者のマークの書かれた段ボールの中や、床の上に直接置かれていた。段ボールは日焼けしていたから、つい最近引っ越してきたというわけではなく、ずっとそのままだったのだろう。
古い紙の匂いがして、古本屋や図書館を思い出す。もちろん春子はそんな本の匂いが好きだが、人が住む部屋にしては少し寂しいような気もした。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
冷たい麦茶を飲み干して、春子は一息ついた。柊一郎も麦茶を飲んで、額の汗を拭う。濡れた前髪が張りついて、額があらわになった。
「あっ」
春子は思わず声をあげた。普段前髪で隠れている柊一郎の額に、赤い傷跡があった。花の形のように広がっている。春子の視線に気付いた柊一郎は、赤い痕を隠すようにした。
「ああ、これ……ちょっと火傷をしてね」
「そうなんですか……痛くないんですか?」
「もうだいぶ、昔の傷だからね」
そう言うと、柊一郎は少し遠い目をした。
◆
涼んで一休みをした後、春子は思い切って尋ねた。
「あの、これから、本、読みに来てもいいですか?」
「うん、どうぞ、そのつもりで本も貰ってきたのだし……。ああ、でも、僕の家なんかに来てもらうよりは、いつもの喫茶店の方がいいかな」
「あの、ご迷惑でなければ……」
春子は消え入りそうな声で続けた。
「ここに……お邪魔しても」
そして、本棚をちらっと見た。その視線の先には、まだ春子が読んだことのない本もたくさん並んでいた。ファンタジー小説が主だが、ずいぶん古い本もあるように見える。
「どうぞ。木曜日はじゃあこれから、家にいるようにするよ」
「はい」
春子は何度もお礼を言って、手を振る柊一郎に見送られて、自転車を走らせた。
胸がとくとくと高鳴るのは、ペダルを一杯に漕いでいるからだけではないだろう。
これまでたくさん話してきたのだから、相手の人柄は分かっている。だけど、一人暮らしの男性の家にお邪魔するというのは、春子としては考えられなかったようなことで。
大丈夫、緑さんなら。
そう思うだけで、顔がかっと熱くなる。
穏やかで、優しい人。
そして――それだけではない、何か影を背負った人。
本が好きな落ち着いた青年というだけではない、世間とは切り離されたような空気を持っていて、優しい目は、いつもどこか遠くを見ている。
そんな彼に、どうしようもなく惹かれているのを、これが物語でいうところの恋なのだと――春子はもうとっくに気付いていた。