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はじめての夏


 ◆


 部屋の壁に掛けられたカレンダーと、時計を見て、柊一郎はそろそろ時間だと、読んでいた本にその辺にあった紙を挟んで本棚にしまい込んだ。

 白い長袖のシャツを着て、部屋の外に出ると、日差しが眩しかった。過ごしやすい季節はあっという間に過ぎ、汗ばむ夏が来た。


 今日は木曜日で、春子と古本屋で待ち合わせをしている日だった。

 あの春の日から、毎週、決まった時間に、柊一郎は古本屋へ行くようになった。学校が終わった春子と会い、喫茶店で他愛のない話をして、帰る。


 話の内容は、ほとんどが読んだ本の話だった。最近は、『ナルニア国物語』を読み始めたと言っていたが、読書家の春子のことだから、もう読み終わって、今日は感想を聞かせてくれるだろうかと、柊一郎は考える。


 高校生の彼女は、こんな自分と話していて、楽しいのだろうかと思う。同年代の友達と遊ぶ方が楽しいし、彼女の学生生活という貴重な時間を、自分と過ごす時間に、少なからず費やさせることに、罪悪感を感じたこともあった。

 しかし、春子は毎週必ず古本屋にやってきた。柊一郎は、また春子を待たせるのは申し訳ないからと、木曜日の午後は必ず、古本屋に行くようにしていた――いや、正直に認めてしまえば、少なくとも柊一郎は、週に一度のこの時間をとても楽しみにしていた。


 木曜日が近付くにつれ、そわそわしている自分に、まるでキツネのようだな、と柊一郎は『星の王子さま』の一節を思い出して苦笑した。


 全ての日が等しく無価値で、何の意味もなかった柊一郎にとって、それは――鈴が鳴るように美しい時間だった。


 ◆


 夏の日差しはどうにも暑く、古本屋についた頃には、柊一郎は汗だくになっていた。昔の夏はこんなではなかったような気がするのだが、いつの頃から夏はこれほどまでに暑くなったのだろうか。


 意外なことに、春子は先に古本屋に来て、いつも柊一郎が腰かけている椅子に座っていた。


「学校、早く終わったの?」

「はい。テストが終わって、早帰りなんです」


 もうすぐ夏休みです、と笑顔で言う春子を、柊一郎は目を細めて見た。夏休みというのは、彼女のような学生にとっては、心躍る言葉に違いないだろう。


「そうか、じゃあ、楽しみだね」

「はい――」


 古本屋でお互いに本を見た後、いつもの喫茶店に向かった二人は、本日臨時休業、の張り紙を見て顔を見合わせた。

 店主が個人経営している喫茶店だ。何かの都合で休むことがあっても仕方がない。だが、この暑い日差しの中、どこか涼しい場所で休みたいと思っていたので、困ってしまった。


「……今日は、帰るかい?」

「えっ……と」


 柊一郎の提案に、春子は急いで考えを巡らせる。

 この近くに他に店はあっただろうか。ハンバーガーチェーン店はあったけれど、あそこは騒がしくて、柊一郎を案内するには相応しくないと、春子は思った。何より、自分と同じ高校の生徒がたくさんいる。

 春子にとって、柊一郎と過ごす静かな時間は、宝物のようなもので、秘密にしておきたいものだった。


 どうしよう、どうしようと考える春子の言葉を、柊一郎は急かさずに待っていていてくれる。それが申し訳なくて、春子は一生懸命に考えて答える。


「近くに、公園があるんですけれど」


 ◆


 古本屋から歩いて少しのところにある公園は、この暑さだからか、親子連れもいなかった。蝉の声だけが、降るように聞こえる。


 木陰のベンチの砂埃を払い、制服のスカートが汚れないようにと、ハンカチを敷いてくれた柊一郎に、春子は顔を赤くした。


「あ、あの、すみません」

「ううん。日陰は、意外と涼しいね」


 柊一郎はそう言って木漏れ日を見上げた。木々の間からチラチラとこぼれる万華鏡のような光に目を細めながら、息をつく。

 こうやってわざわざ公園に来るのなど、いつ以来だっただろうか。いくらでも時間があり余っているのに、あり余っているからこそ、何もしない自分に気付かされる。


「ありがとう、春子ちゃん、ここはいい場所だね」

「……ここに来るのは、初めてですか?」

「場所は知っていたけれど、こうして来ることはなかったね」


 春子ははにかんで微笑んだ。春子は、自分の胸が少し落ち着かなくなるのを感じながら、柊一郎に尋ねた。


「あの、緑さんって……普段、どんなことをしていらっしゃるんですか?」

 

 それは、春子にとって、少し緊張する問いだった。

 毎週会って話す内容は、ほとんどがお互いに読んだ物語の話で、実のところ、春子は柊一郎が普段どんな生活をしているのか知らない。

 平日にこうして時間を作っているのだから、大学生ではないかと思っているが、ひょっとしたら、平日が休みになるタイプの仕事をしているかもしれない。


 だが、柊一郎はやや自嘲めいた笑みを浮かべただけだった。


「……何もしていない、よ。春子ちゃんに聞かせるような、ことは、何も」

「え?」

「ああ、うん、ごめんね。こんなことを言われても困るね。仕事も、学校にも特に行っていないし……普段は、家で静かに本を読んでいるくらいかな」


 柊一郎は少し目を伏せた。若者が定職にもつかず、毎日怠惰に過ごしているように見えて、春子は軽蔑するかもしれないと思ったからだ。

 だが、春子は――心配そうに、柊一郎の手を取った。


「緑さん、もしかして、病気、だったり……」

「え?」


 何もしていない、という柊一郎の答えに、春子は納得した。

 春子から見た柊一郎は――どこか浮世離れした雰囲気があったからだ。むしろ大学生だと言われた方が、違和感が残ったかもしれない。

 そしてそれは、物静かな柊一郎の雰囲気と合わせて、病気の療養中というイメージを掻き立てたのだった。

 

「あ、あの、すみません、立ち入ったことを」

「いや……驚いたな」


 柊一郎は、自分の手に触れる春子の指のひんやりした感触と、不安そうに揺れる目を見た。


「……。心配してくれてありがとう。だけど、春子ちゃんが心配するようなことは何もないよ。僕は、ほら……見て、元気だから」


 最後の方はおどけて力こぶを作るようなポーズをとると、春子はやっと安心したように笑い、そして気まずそうに、触れていた手を放した。


「ごめんなさい私、何だか先走ってしまって……言われるんです、本ばかり読んでるから、妙な想像ばっかりしてるって」

「そんなことないよ」


 想像力は、自分とは違う人を想う優しさを生む。

 春子が、相手の心を深くまで想像して心配できる、優しい心の持ち主だということは、あの葉書の一件以来、何度も感じてきたことだ。


「暑いね、自動販売機でジュースでも買おうか」

「私、買ってきます。緑さんはコーヒーですか?」


 そうして、木陰のベンチから、日の当たる公園を突っ切って軽やかに走っていった。強い日差しを浴びて、眩しいほど白いブラウスの背中を見ながら、柊一郎は苦い記憶を思い出す。




『あなたのその状態に、病名をつけるとすれば――テロメラーゼ異常活性症候群というところでしょうか――』


 うんざりするほどの様々な検査を終え、ぐったりとベッドに横たわる柊一郎を取り囲んだたくさんの医者達は、畏れと興味に満ちた目で、柊一郎を見下ろしていた。


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