ひとつめの春
◆
柊一郎が春子と出会ったのは、春の始め、まだ肌寒い頃だった。
柊一郎は自宅の本を売り、そして代わりに読む本を探すために、古本屋にいた。そこは老主人が一人でやっている店で、店主は少しの間店を外していると、店番をしていた中年の女性に頭を下げられた。
「父でなければ分からないもので」
謝る女性に、柊一郎は構いません、と答えた。自分はまったく急いでいない。そう、まったく。
店はとても静かで、客は少ない。誰の邪魔になることもないと、柊一郎は本の入った紙袋を、重いので店の床に置いた。
柊一郎は、店主が戻るまで、本棚の間を散歩するように、興味を引かれる本を探して歩いた。
店内を一巡りして戻ると――柊一郎の紙袋の中をしゃがんで覗き込んでいる少女がいた。少女は柊一郎の気配に気付いたのか、はっ、と顔を上げた。大きな瞳が、柊一郎と合う。
それが春子だった。
「あ、あの、ごめんなさい」
「ああ、いいんだ」
怯えたように紙袋から離れた彼女に、柊一郎はできるだけ穏やかに話しかけた。
彼女は学校の制服を着ていた。何度か見たことがある制服だから、恐らくこの近くの高校のものだろう。
彼女は紙袋から距離を取ったが、ちらちらと、紙袋の中に視線をやっている。その視線に気付き、柊一郎は彼女に問いかけた。
「……もしかして、この本に、興味があるかな」
「えっ」
彼女は話しかけられたことに驚いたのか、一瞬肩を震わせ、柊一郎を見た。
柊一郎は自分の持ってきた本を見る――J・R・R・トールキン作、『指輪物語』全巻。幻想世界を舞台とした、ファンタジーの大作だ。
「はい……」
消え入りそうな声で、彼女は頷く。
そうだろうと思う。そもそも、流行りの漫画が置いてあるような本屋ではなく、このような古本屋にいるのだから、それだけで彼女が読書家というのは容易に想像がついた。
「……それ、売るんですか?」
「ああ」
彼女が期待に顔を輝かせた。それを見て、柊一郎は微笑ましくなる。
「良かったら、君にあげようか」
「えっ?」
彼女は驚いて、柊一郎を真っ直ぐ見た。黒くて丸い大きな瞳が、柊一郎としっかり合う。
「構わないよ、もともと売るつもりだったから。欲しいなら、あげよう」
「で、でも……」
「僕の部屋で誰にも読まれずにあるより、誰かがまた読んでくれた方がいいと思って持ってきたから」
ならば、目の前の少女にそのまま渡しても同じことだろう。
また、読書家の柊一郎が、本好きの彼女に、非常に好感を持ったというのもあった。
「……本当にいいんですか?」
「どうぞ」
彼女は、何度も何度もお辞儀をして、本を受け取った。
その後しばらくして、古本屋の店主は戻ってきて、馴染み客である柊一郎に挨拶したが、結局柊一郎はその日は何も買わず、店を出た。
「本当にありがとうございました」
店の前で別れる直前、小さな声で言った彼女に、柊一郎は微笑みで返した。
◆
『指輪物語』を少女に渡して数日後、柊一郎が再び古本屋に行くと、老主人は声をかけてきた。
「お兄さん」
「……はい、何ですか?」
「あの女の子、会えたかい?」
あの女の子、とは誰のことだろう、と柊一郎は考えた。
「お兄さんじゃないのかい? 前に古本屋で、高校生の子に本を渡したっていう……」
「あ」
すぐに思い出した。真っ直ぐな黒髪の、おとなしそうな少女のことは印象に残っていた。第一、柊一郎がここ数日で会話を交わしたのは、彼女くらいだったというのもある。
柊一郎の表情に、店主はやっぱりね、という顔をした。
「こんな古本屋に来る若い男の人なんて、お兄さんくらいのものだからね」
柊一郎は店主の言葉に、軽く苦笑した。
「あの子が、どうか?」
「お兄さんを探しているみたいでね、最近毎日ここに来るんだよ」
「……はあ」
何だろうか。
店主が、柊一郎が彼女に本を渡したことを知っている様子からして、彼女はわざわざ店主に聞き込んでまで、柊一郎を探しているらしい。
「何でも、渡したいものがあるとか……」
「……今日も、来ますかね?」
「来るかもねえ」
柊一郎は、手にしていた本と、百円玉をカウンターに置いた。
ここで待たせてもらってもいいかと聞けば、店主は物置台と化していた椅子の上の荷物をどけて、座るように促してくれた。
柊一郎は買ったばかりの本を読みながら、彼女を待ってみることにした。
時間はいくらでもある。もともと、家に帰って本を読むつもりでいたのだ。彼女が来ても、来なくても構わない。
待つうちに、外が暗くなり、雨が降りだした。春の天気は不安定だ。
風も吹き、大粒の雨がガラスに当たって音を立てる。花散らしの雨になるだろうな、と柊一郎は思った。
◆
春子は、自分の部屋で、貰ったばかりの『指輪物語』を、心躍らせながら開き――すぐにそれに気付いた。
「……あ」
葉書が、挟まっていた。紙が黄ばんだそれは、相当古いもののようで、消印は掠れていたし、何しろ郵便番号が3桁しかなかった。
「……どうしよう」
その宛先は『緑 柊一郎様』となっていた。
本をくれたあの人のものにしては古過ぎる。その家族の人のものだろう。
春子は考える。これを失くして、本をくれたあの優しい人は困らないだろうか。とても古い葉書だが、それだけ古いものを取っているということは、それだけ大切なものかもしれない。
次の日、春子は学校の帰りに、あの古本屋をもう一度訪れた。
本棚の間を探すが、そう都合よくあの人はいない。しかし他に手がかりもなく、春子は次の日も、また次の日も、あの葉書を挟んだ本を持って、放課後に同じ古本屋を尋ねた。
「何か探している本があるのかい?」
「あっ、あの」
何日も通っているうちに顔を覚えられたらしく、古本屋の店主が春子に話しかけた。春子は、事情を説明した。
「ここで私に、本をくれた人がいて……その人に渡したいものがあるんです」
「どんな人だい?」
「その、二十代くらいの男の人で……」
春子は、彼の顔をはっきりと覚えていたが、説明はできなかった。優しそうで、穏やかな笑みを浮かべていて……と言いそうになって、ひどく恥ずかしくなったからだ。
それでも、古本屋の老店主は心当たりがあったらしい。
「ああ、あの人かな。若い男の人といったら……よく来るよ」
「その人、いつ来ますか?」
「さあ……まあ、来たら声をかけておくよ」
老主人は、渡したい物を預かっておこうか、と聞いたが、春子は断った。
あの時は、咄嗟にちゃんと言葉が出なかったが、本のお礼をちゃんと言いたい――そう思ったから。
◆
古本屋のガラス戸が開く音がした。勢いよく入ってきた客に、柊一郎が顔を上げると、それは先日の少女だった。
「あっ……」
春子もまた、柊一郎の姿を見つけて目を丸くする。 急な雨に、傘を持っていなかったらしい。鞄を両手に抱えて走ってきたらしく、長い髪から、冷たい雫が落ちている。
「……大丈夫?」
「はい、あの、私」
春子ははっと気がついたように、扉の前から動かない。困ったような顔をする春子に、柊一郎は近付いて、ハンカチを差し出した。
「え、でも……」
「このままだと本を濡らしてしまうかもしれないと、思ったんでしょう?」
「……はい」
春子は少し迷った後に頷いて、ハンカチを受け取って手や顔を拭いた。春子のスカートの中の自分のハンカチは濡れてしまって使い物にならなくなっていたのだ。
もともと色白だと思われる顔色は、寒さのせいかやや青ざめていた。
「隣に喫茶店があるから、そこでお話を聞きましょうか。濡れたままだとご迷惑になりますし……僕も、雨が止むまで帰れないので」
雨足は強く、時折強い風が吹き付ける。
春子は震えながら頷いた。
◆
喫茶店に入ると、柊一郎は紅茶を、春子はココアを頼んだ。
湯気の立つ暖かいココアは、冷えきった春子の体を温めてくれた。
「これが、頂いた本に挟まっていたんです」
「ああ……」
春子の差し出した古い葉書に、柊一郎は納得がいった。
そう、柊一郎はよく、手近なものを本の栞代わりにしては、そのままにしてしまう。古本屋で売る時は、いつも店主が気付いて返してくれるのだが、うっかりしていた。
「わざわざ、ありがとう。このために毎日来てくれたの?」
「それと……本のお礼も、言いたくて」
春子は鞄に入れていた『指輪物語』の二冊目を出した。
「ありがとうございます。本当に面白いです」
「それは良かった」
「『ホビットの冒険』を読んで、続きが読みたかったんですけど、お金がなくて……」
「ああ、それで探していたんだ」
では、きっとあの紙袋を見つけた時、春子は宝物を探し当てた気分だったろう。
「本が好きなの?」
「はい、特に、ファンタジー小説が……」
「そうか……僕も」
柊一郎も読書家だが、ファンタジー――ここではない世界の物語を特に好んで読んだ。柊一郎もまたファンタジーが好きだと言えば、春子は顔を輝かせた。
二人の話題は、自然と本の話に移る。春子は、小学生の時に『ローワンと魔法の地図』が好きだったことを話した。柊一郎は自分の今まで読んだ多くの本の話をした。
気付けば柊一郎の紅茶のポットは空になり、随分時間が経っていた。喫茶店の柱時計が6時を指したのに気付いた春子は慌てた。
「あっ、すみません」
「ああ……こちらこそ、ごめんね。こんな遅くまで」
柊一郎が勘定を支払ってしまうと、春子はまた恐縮したが、柊一郎は微笑んだ。
「雨の中、走ってきてまで届けてきてくれたお礼だよ」
実のところ、柊一郎にとって、あの葉書は特に大切なものではなかった。そうでなければ、ずっと本に挟みっぱなしになどしない。
だが、それをわざわざ届けてくれた彼女の気持ちは、尊いものに思えた。
「あの……また、会えますか?」
「そうだね」
この古本屋には時々来るから、彼女が古本屋に通っていれば、偶然会うこともあるかもしれない。
だが、そうすると、彼女はまた自分を探してしまうかもしれない。自分と違って、貴重な時間だろう。
「……毎週木曜日には、この古本屋にくるよ」
木曜日を指定したのは、今日が木曜日だからという、ただそれだけの理由だった。柊一郎は、毎日特に予定というものがなく、今までは気が向いた時にふらりと古本屋を訪れていたが、別にそれが定期的な予定になったところで、差し障りはない。
春子は、顔を輝かせた。
「じゃあ、また……。あ、私、遠野春子です」
「あ」
そういえば、名前も知らなかったと柊一郎は気付く。長く人付き合いをしていないと、こんなことも忘れるのだろうか。
「僕は、緑柊一郎」
「……え?」
聞き返した春子に、柊一郎は説明した。
「色の緑でミドリ、木篇に冬の柊という字で、トウイチロウ」
「……緑柊一郎さん」
春子は名前を繰り返した。春子の中には、一つの疑問があった。
――あの、葉書の宛先の人?
葉書はとても古いものだった。内容も、ちらりと見た限りでは、大人に宛てた文面だったように思う。
それにしては、目の前の人物は――若すぎるように見えた。




