ふたつめの春
柊一郎は、窓を開けた。まだ少し肌寒いが、温かな日差しが入ってくる。
丁寧に部屋の掃除をしてから、午前中に買い物に行く。今日の晩御飯の食材もそうだし、牛乳が切れていたから、買っておかなければと、近くのスーパーに行く。
ついでに、図書館にも寄り、しばらく本棚の間を、たくさんの本の背表紙を眺めながら散歩でもするように歩いていると、いつの間にか時間が経っていた。
ああいけないな、と思いながら、家に戻る。
遅めの昼ご飯に、簡単な野菜炒めを作って食べて、食器を洗った。そうこうしているうちに、玄関のチャイムが鳴った。
「――いらっしゃい、春子ちゃん」
「柊一郎さん」
明るく弾んだ声の春子が、こちらを見上げて笑っていた。ちょっと息が弾んで、頬が上気している。学校の始業式が終わって、すぐに来たのだろうか。
「ちょっとお皿洗ってたから、適当に待ってて」
「ご飯、食べてたんですか?」
「ううん、まあ片付けてただけだから」
何てことない会話をして、柊一郎は台所に戻り、春子は近くの本のある部屋に行く。細い廊下をすれ違う時、いつもの花のような香りがした。
楽しそうに本棚を眺めた春子は、あ、と嬉しそうな声をあげた。
「本入れ替えたんですか?」
「虫干しも兼ねてね」
段ボールにしまっていた本と、本棚に出している本を入れ替えたのだ。出していた本は、春子が、大体読みつくしてしまったからだ。
春子が目を細めて、本の背を指差しながら、好きな本を探していく。そんな様子は、見なくても想像できる。そのまま、柊一郎は、牛乳を鍋で弱火で温め、ココアを淹れ始めた。
◆
あれから――いくつか、変わったことがあった。
まず、春子は以前より少し頻繁に柊一郎の家を訪ねてくるようになった。
元より柊一郎は、毎日暇を持て余していたのだし、別に春子が毎日来ようと迷惑ではなかった。だが、高校生というのは、忙しいものではないのかと聞けば、春子は首を振った。
「私が来たいから、来ているんです」
そして、いつの間にか、春子は柊一郎を、名前で呼ぶようになった。
これについては、柊一郎は特に指摘はしていない。ただ、そう呼ばれることに、多少の戸惑いと、懐かしさと、くすぐったさと――怖さを覚えた。
柊一郎も、伊達に長く生きているわけではない。その複雑な感情の名前が分からないわけではない。ただ、目を逸らしているだけだ。
春子は興味を惹かれる本を見つけたらしく、日の当たる窓辺でそれを読んでいた。
柊一郎がココアを差し出すと、春子は本に栞を挟んだ。
数か月前のクリスマス、春子が柊一郎に贈った品と同じものだ。
自分よりずっと年下の彼女に物を貰うのは悪いとは思ったのだが、何でも本に栞代わりに挟んでしまうから、ちゃんと栞を使ってください、との言葉に何も言い返せず、苦笑した柊一郎は受け取らざるを得なかった。
細かい細工で花が彫られている金属製の栞を、柊一郎はとても大切に使っている。そして、気付けば春子も同じ品を使っていた。聞けば、贈り物にとてもいいと思ったのだが、むしろ自分の方が気に入ってしまい、どうしても欲しくなってしまったのだという。
それを聞いた柊一郎は、何故年長者の自分がクリスマスプレゼントを貰い、春子に何も贈らなかったのだと恥じたのだが、春子は慌てて手を顔の前で振った。
「いつも私がお家にお邪魔しているんですし、お礼です」
「だけど」
「いいんです」
いろいろ考え、柊一郎はせめて春子の誕生日にお返しの贈り物をしようと、春であるはずの春子の誕生日を尋ねた。すると、春子は、少し顔を赤くして、少し恥ずかしそうに自分の誕生日を教え、逆に柊一郎の生まれた日を尋ねた。
――それが一月だったものだから、結果として、柊一郎はクリスマスに続けて、自分の誕生日祝い、さらに二月にはバレンタインなる風習に、チョコレートまで立て続けにもらうことになるのだが。
そんなことを思い出しながら、金色の栞が挟まった本を見ていると、ふと、春子が柊一郎に呼びかけた。
「柊一郎さん」
「何だい?」
その声には、少しの迷いのような、揺れのようなものがあった。ずっと話してきたのだから、少しの声の違いで、お互いにごまかしようのないほど感情が伝わってしまう。
「私、高校三年生になりました」
「……そうか、良かったね」
少しの間の後、春子は続ける。
「私がここに来るようになって、一年になります」
「そう……だね」
春子は息を吸った。
「好きです、私、柊一郎さんが好きです」
告白の言葉は、思ったよりすんなりと口から出てきた。
むしろ、先走って溢れるほどだったから。
柊一郎が否定の言葉をする前に、春子は何とか分かってほしくて畳みかけるように言葉を続ける。
「どうしてですか? 私がまだ子供だからですか? 年が離れているからですか? でも私」
「……春子ちゃん、僕の事情は、春子ちゃんも知っているよね? だから」
「でも、私、柊一郎さんが好きです」
好きなんです、とその大きな瞳が語っていた。
◆
「柊一郎さんは、柊一郎さんは――私が好きですか」
「――そんなの」
柊一郎の人生経験は長すぎる、彼は立派な大人だ。春子から向けられる思いに気付かないはずもない。
春子が自分を気味悪がらない限りは、友人として付き合うことはできるが、それ以上は無理だ。
遠ざけなくてはならないと思っていた。自分は普通ではない。何ら罪を犯したわけでもなく、人に迷惑をかけたわけでもないが、それでも他人と近い距離で生きることはできない。
だが、柊一郎はそれができない。
「そんなの――」
春子は純粋で、真っ白を通り越して透明な思いを向けてくれる。
そんな彼女といて、愛さずにいられるはずもない。
「春子ちゃん……僕は、君が」
柊一郎が顔を覆う手に、そっと春子の指が触れる。その柔らかい温もりに、柊一郎はもう自分が抗えないことを悟った。
確実に僕は、君に置いていかれるのに。君とこれ以上過ごせば、別れの傷は深くなるだけなのに。
「……君が、」
柊一郎の口から、それ以上言葉は続かなかった。
ただ、胸の中には、苦しいだけでなく、温かいものもあって、目の前の少女の手を取って抱き締めれば、全身がその温かいもので満たされるという確信があった。
愛情とか幸福とか言われるものの感覚を思い出し、それを忘れていた自分に気付く。
戸惑いながらも、春子が柊一郎と手を繋ぎ、柊一郎が春子を笑顔で迎えるようになるまで、あと数度は季節を巡る必要はある。
ただこの時、柊一郎の頭にあったのは、一つの決意だった。
君を僕の人生の物差しにしよう。
季節を巡る意味も生きる意味も、君の生きる時間で測ろう。
君が消える時が、僕の終わる時でいい。




