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灯の流れにのって

作者: 平野雄隆

ワンシーンをおおよそ原稿用紙三枚(あくまで目安)の制約で書き上げることを試みた作品です。

※一部例外あり。

 ここはどこだろう。暗くて暖かくて懐かしい感じがする。そして何より安心していられる。そして、この中では時々振動が起きる。その震えが来ると、何だかとても楽しいような嬉しいような気持ちにさせてくれるし、決まって「あははっ」って音が一緒に聴こえてくるんだ。

 それが何の音なのかは分からないけど、凄く愉快な気持ちにさせてくれるからいつも仲間に入れて貰いたくて、身体をくねらせ壁を蹴ったりするんだ。そうするとその心地よい振動がまた訪れて余計に愉快になって、元気に身体を動かすのが楽しくなって。

 そうしてると高い音と低い音が交互に鳴るんだ。


「あっ、蹴った」


「ほんとか」

 

「うん。あっ、ほらまた」


 何かの気配が近付いてくる。何だろうと思って蹴るのをやめてその気配に集中してみる。


「あれ、反応しなくなった。ほんとに蹴ってたの」

 

「うん、確かに感じたよ。どうしたのかな」


 そんな音のやり取りがあった後に、気配が遠のく。何だったんだろう、改めてまた足を動かしてみると


「あっまた蹴ったよ」

 

「うそ」

 気配が近付くので、またそれに集中する。

 

「あれぇ、何でだろう俺が近付くと動くの止めるのかなぁ。おーい」


 残念そうな音が混じる。

 

「遊ばれてるのかもね。お父さん」


 そしてまたあの愉快な振動が訪れた。

 そっかこの愉快さが欲しければ、こうしたらいいんだなって思って、暫くはこの遊びを度々ここで繰り返した。

 そんな遊びにも飽きてきた頃、早くここから出たいよ、もう準備は出来てるよって強く思う日が突然やってきた。『ねえ、仲間に入れて』そんな気持ちを込めてもう一度壁を蹴ったら、今日はいつもと少し違ったんだ。今日は震えじゃなくて、別の音が聞こえて来たので驚いた。でも、その時思ったんだ。『ああ、やっと出会えるね』って。

 

「ねぇ、あなた生まれそう……」





 目を開くと暖かい胸の中にいることを実感した。ふと上を見上げると、いつも優しい笑顔で微笑んでくれる人と目が合う。壊れ物を扱うかのようにそっと包み込んでくれる腕が、一番心地良かった。お腹が空いたよって泣いたって直ぐに駆けつけてくれるお母さんという存在。今なら分かるんだ。お母さんの中にいたってことが、あの愉快な振動はお母さんが笑っていたんだってことがさ。

 そしてそのお母さんが大事にしている人。いつも朝早くに出て行って夕方に帰ってくるあの人。大好きなお母さんが好きな人で、お父さんっていう存在。

 お父さんが帰って来るとお母さんはぱっと顔を輝かせるんだ。それを見ると少し切なくなるけど、お父さんがすぐにこっちを覗き込むように顔を近づけてくるんだ。

 ちょっとびっくりしていつも顔を背けてしまうんだけどね。お父さんが僕を抱きかかえると急に不安になってしまうんだ、何でだろう。大好きなお母さんから離れる恐怖にいつも泣いちゃったりする。お父さんが嫌いな訳じゃないんだけど、それ以上にお母さんが好きすぎるから涙が出てきちゃうんだ。

 そうするとお父さんはあたふたとして、泣き止ませようと僕をあやそうとするんだけど、実はその顔が怖くって余計に涙が溢れてきちゃったりして大声がでちゃうんだ。

 お父さんはそれを見て、凄く困った顔をいつもしていたね。ごめんね、別に悪気があるんじゃないけど、ごめんね。

 今は知っているよ。僕がお母さんの中にいた頃に、あの愉快な振動と一緒に聞こえてきていた低い音の持ち主はお母さんとお喋りしてたお父さんんだってことを。

 僕がお母さんのお腹を蹴ったときに、近付いてきた気配はお父さんだってことをね。

 だけど、やっぱりお母さんに抱かれている方が、今はまだ安心なんだ。

 もう少ししたら慣れると思うから、そんな困った顔をしないで。

 何だか沢山泣いたら眠くなってきちゃったよ。

 目が開けていられなくって、口が開いたり閉まったり勝手にしてきてさ。

 そんなにゆっくりと揺らしたらふわふわと浮いてる感じがして、お母さんの中にいたときのことを思い出して、何だか安心してきちゃったよ。

 ほんとはもっとお母さんとお父さんを見つめてたいのに、もう我慢が出来ないんだ。

 もっと遊んで欲しいな。もっと色々お喋りして欲しいな。

 起きたときちゃんと傍にいてね。どこにも行っちゃ嫌だよ。





 よいしょ、よいしょ。

 大地から四本の柱が伸びていて、その上には平らな大地が広がっている。

 いつもご飯を食べているテーブルだ。今まではお母さんが座らせてくれる椅子からしか見えなかった景色が、最近ようやく自分の意思で覗くことが出来るようになった。

 大きく手を振りかぶりテーブルの大地に手を掛けて力を込める。足とお腹にも同時に力を入れるのがコツなんだ。最初の頃はテーブルを覗くとコップとか使ったことのない調味料やらが並んでいたが、一度誤って零したことがあり、それ以来このテーブルはいつ覗いても水平線だけが覗いていた。つまんない。

 なのでここ数日は新しい遊びに凝っていた。遊びと言っても僕にとっては未知への挑戦だった。何とテーブルから手を離すという大技を今練習しているのだ。

 始めた時は一秒も立っていられずに尻餅をついてしまった。そして不覚にも泣いてしまいお母さんを心配させてしまう。でも諦めてたまるかって思いで練習を重ねたし、あれ以来一度も泣くことはしなかった。

 そして遂に五秒立つことが出来るようになった今日、次の段階へ向かう覚悟が出来ている。テーブルから手を離し、思いっきり手を広げ、そして掌を合わせて音を鳴らした。

 たんっ、たんっ、たんっ。叩いた勢いのせいか、はたまた頭が重たいからなのかは分からないが重心がふらふらとして視界が揺れるのが分かった。足も震えだし力が抜けそうになる。でも今日の僕はいつもと違うんだって自分に言い聞かせると、咄嗟にテーブルに手を着き何とか堪えた。そこで台所にいたお母さんがこっちを覗き込んだ。その目は不安そうだった。きっと手を叩いた音が聞こえて、また転んだと思ったのかもしれない。

 そこで僕は決意してもう一度テーブルから手を離す。足はまだぷるぷると震えて、今にも力が抜けてしまいそうだ。

 

「あなた、ちょっと」

 

「なに、どうかした」

 

「ねえねえ、歩きそうなのよ。ほらこっちよ、おいで」


 そう言ってお母さんは手を叩いた。それに奮起されるように足に力を込めた。後に傾きかけた頭をそっと前方に傾ける。そうすると自然と足が前に出た。一歩、一歩に精力を傾ける。頭を傾けすぎても転んでしまいそうなので、細心の注意を払った。一歩、一歩。

 後もう少し…… お母さんが両手を広げて待っていてくれている。一歩、一歩。

 後、もう一歩。そこでバランスが崩れ視界が回転した。転んでしまったのだ。

 転んだ痛みよりも、辿り着けなかったことの方が悔しくてわんわんと泣いた。

 でも、お父さんもお母さんもうれしそうに笑っていた。

 

「さすが、私達の(俺達の)子供だね(な)」二人の声は重なっていた。





 運動会。砂埃がぱーっと舞っている。その先には数字の⑤が風に揺れていた。青い帽子や黄色い帽子、白い帽子と白い体操服。そして背中には番号が書かれたゼッケンを背負った小さな子供達が全力で走っていた。

 前を走る四人は接戦で一番を競っているようだ。そこから十メートルほど離れてその四人を追っている形で走る。僕も全速力だから遅い訳ではないだろう。

 そう思い、後を振り返ってみるが誰の姿も見えなかった。運動場は円形だからかもしれないと横の応援席を向いてみると、大きな歓声が上がる。僕の名前を呼んでいるようだ。ひょっとしたら前の四人にぶっちぎりの差を付けて風のようなスピードで走っているのかもしれない。

 前の四人との差はどんどん開いているようだったが、歓声に気分がよくなり思わず笑顔が溢れる。横の客席に座り応援してくれる人達に、腕を大きく上げてピースサインをした。するとその声は益々大きくなったり、笑い声も聞こえてくる。

 調子が出てきたので今度は両手でピースを作り前に出したり引っ込めたり、上に突き上げたりとにかく応援席の一人一人の歓声に応える。

 ときおり後ろを振り向いては、抜かされないか確認する。追っ手はない、大丈夫だ。

 僕が後ろを振り返る度に、大きな笑いが起きる。足の蹴る力が強すぎるからなのか、すぐ後ろでは前から運ばれてくる砂埃の比ではないほど白く空気が濁っていた。

 ざっざっ。下からは足で砂に絵を描いた時のような滑らせるような音が響いている。その音はヒーローが大きな広場で黒くて『きーきー』言ってる大量の下っ端を倒しているときに発するものと同じだったので、益々興奮してきた。

 ピース、ぴーす。自分がそんなヒーローになったような気がしていた。ふいにお父さんとお母さんの姿が目に入った。二人とも何だか気恥ずかしそうに、苦笑いしていた。

 お父さんお母さん見て見て。僕ヒーローみたいだよ。

 その時、足が縺れ前のめりに空中に浮いた。あっ、飛んだ。そう思った時には地面が近づき視界が揺れる。応援席からどよめきが起こった。


「あーあ、一番後の子転んじゃった」と、誰かが言ったのが聞こえた気がした。





 よし、次だ。掴んでいた枝から手を離し次の枝へと伸ばす。木は曲がりながら伸びていて別れた枝は横に広がっている。幹には多数の縦に走る割れ目があり掌にその感触が痛かった。四メートルほど登ったところで下を覗くと視界が回っているような気がしてきたので直ぐに見るのを止めた。後もう少し。もう少しでオレンジに光る実に手が届く。

 絶対にダメ。それが父親の言葉だった。柿の木だけは登ってはいけないと口を酸っぱくするほどにいつも言われていた。

 理由は折れやすいからだという。でも、小学校のクラスの風間君はおじいちゃんちの柿の木に登って実をいつも取って食べてるんだって。風間君の話はいつも少しだけ大きくなってるから真に受けたら駄目なんだってクラスのみんなは言ってるけど、僕は直ぐに信じちゃっていつもその気にさせられるんだ。

 今日だってもぎたての柿の実の話になって、それが絶品なんだって言うからその絶品ってやつを知りたくて登ろうって決心したんだ。

 もうすぐその絶品にありつける、後もう少し。今のところ思ってたより何ともなくて、折れやすいなんて嘘だったんだって思い始めていた。きっと絶品を取られるのが嫌だから、嘘をついてるんだって、そう思うと口の中の唾液が大量に分泌された。ここまでくればもう取れたも同じだ。木の上に来れば来るほど、枝が細くなり頼りなくなってはきているが、クラスでは前から四番目に小さいので体重は軽いから平気だろう。

 手を伸ばし、枝を掴むと力を入れて右足を持ち上げる。次は木の枝が分かれている根元辺りに足を置き体重を掛けた。

 ぼきっ、音が耳を過ぎ去っていった。ふわっと浮いたような気さえするその感覚に、一瞬自分が空を飛んだんじゃないかと錯覚するくらいだった。

 しかし、その後に視界が下から上に流れていく。何事かと上を見上げると、オレンジの実がさっきより遠ざかっていた。まるで僕から逃げるかのようにそれは離れる。

 そして大きな衝撃が身体を貫く。苦痛に顔を歪め、上下左右の感覚が全て失われた。

 落ちた…… そう認識した瞬間に腕に激痛が走り、声が出ない。息が漏れるような呻きが耳に残る。ああ、もう駄目だ。そこで意識が遠のいていく。

――頬に熱を感じる。暖かい。これはお父さんの背中だ。最近はこうしておぶってもらうことはめっきり無くなっていたが、何て偉大な背中なのだろう。


「大丈夫か。すぐに病院に連れて行ってやるからな」


 その声に安心すると、痛みを遮断するかのようにまた意識がどんどんと遠のいていった。





 全てにイライラする。親や先公だってそうだし、国を良くしますなんて選挙カーもうざい。中学に入っていつからだろうか、とにかく世の中の全てが憎くてたまらない。

 そんな中、唯一無心になれたのは、夜中に家の原付を持ち出して風を切っている時だった。この時だけは世界が自分の味方をしてくれている気がしたのだ。

 夜の景色が後に流れ、風が身体を撫でていく。ツーサイクルエンジン独特の排気ガスの匂いが肺を満たすと、何故か気分が落ち着いた。

 この町には横幅が五メートルくらいのそんなに大きくない川が流れていて、それを挟むように住宅街と田圃が並んでいる小さな町だ。

 僕はそんな町の中心にある川沿いを走ることが好きだった。といってもずっと川沿いを道路が走っているわけではないので、道は川を離れるように逸れていき、また川の方へと合流していくような所が幾つもある。そういった川と交わるように走る道路は緩やかなカーブを描いていて、川に近付くと川面に黄色い外灯が点々と映し出されている。何気なく見れば何ら変わり映えのしない景色なのだろうが、毎日違う表情で僕を迎えてくれるのだ。

 今日だって皆が寝静まった頃に家を抜け出し、軽快なエンジン音を響かせていた。

 いつものように川沿いを走り、風を受けていた。今日は夕方まで雨が降っていたのでいつもより闇が深く、路面も濡れていて道の白線が見にくかった。川はいつもより増水していて映る外灯も大きかった。

 いつもの道、いつもの場所。

 だったはずなのに今日は何だか感じる空気感が違った。夏の蒸し暑さのせいか背中に汗が滲みそれが余計にその感情を加速させる。

 それもこれも学校での出来事のせいだろうか。傘を持って帰ろうと昇降口を出た所で、傘泥棒扱いされたのだ。僕の傘と色も模様もそっくりで間違えただけなのに。結局誤解は解けたのだが、いつもの生活態度が悪いんだと悪態をつかれたのが気に入らない。

 思い出すとイライラしだす。いつものゆったりとしたカーブに差し掛かるとアクセルを強めた。原付はどんどんスピードを上げる。

 その時だった。猫が飛びだして来たのは。

 身体を傾けてそれを避けたたのはいいが、その先は川の土手だったのだ。

 速度を上げた原付はそのまま土手を飛びだし宙を舞った。バキバキと音を立てながら原付と共に土手を転がり落ちる。

 下まで転がった所でやっと視界の回転は止まった。横を見ると原付が静かに横倒しになっている。衝撃でエンジンが止まったらしい。

 手を握る。足首を動かす。身体の痛みは。草がクッションになってくれたのか怪我はないようだ。だが、直ぐに起き上がる気にはなれなくて右手で目頭を押さえ、瞳を閉じた。


「ああ、世界なんてなくなっちゃえばいいのに……」





 高校生の時、お父さんが交通事故で他界した。

 涙は出なかった。それよりも荒れた生活をしていた自分に腹が立って仕方がなかった。こんなことならもっとまともに話もしておくべきだったし、親孝行ってのをしとくべきだった。親はもっともっと自分が大人になるまで当然生きているものだと思っていたし、社会に出てからでも間に合うって、そう思ってた。

 なのにこんな簡単に人って終わっちゃうんだって。人はいつ死ぬか分からないって知ってたはずなのに自分だけは例外だってどこか思ってるところがあったんだ。何でこんな簡単なことに気づかないのだろう。取り返しがつかなくなって初めて理解した。

 知っていることと理解していることは同義じゃないんだって。例外なんてこの世にはないんだって。自分が例外だと思っていることは、実は幸運なことなんだって。今更だよな。 ごめん、父さん。もっといっぱい話したかったし、色々教えて貰いたかった。

 欲を言えば、成人して一緒にお酒呑んで社会の愚痴でも言い合って、そして笑いたかった。ごめんね――。

 それから直ぐに絵に描いたようなまともな人間になんてなれるはずもなかったけど、心境は今までとは全く変わっていた。

 

「俺が母さんを守るから。今はまだ頼りないかもしれないけど、だから安心して見守っててくれ」


 バイト帰りにふと空を見上げると、何度も何度も父さんに語りかけていた。

 その時、瞳というダムを抜け、頬に川を作り顎を伝って地面に落ちるものを感じた。

 父さんが死んで初めてそれは流れたのだ。

 瞼をぎゅっと閉じて身体から溢れるように嗚咽を漏らしていた。





 数字の書かれた紙を握り締めている。

 目の前には沢山の数字が書かれた掲示板があり、それを取り囲むように大勢の人達がひしめき合っていた。

 そこかしこから、歓声や呻き声のようなものが上がっていてざわざわと五月蠅いくらいだった。俺も握り締めた数字と掲示板の数字を照らし合わせていた。九四二番、九四二番だ。掲示板の九〇〇番代をなぞって探す。九三八、九三九、九四一……

 あった、九四二。その数字を見つけた瞬間、電撃が走ったように身体が震えていた。

 

「や、やった…… 受かったぁ」


『大学だけは出ておきなさい』お母さんの声が頭に何度も何度も響く。そして今までの頑張ったことも脳裏を駆け巡った。

 夜中に仕事で疲れている母親を起こさないように電気スタンドだけで勉強したこと、学校で何度も居眠りしそうになって太腿をつねっては耐えたこと、友達から遊びに誘われても断る回数が増えたこと。その時には小さく見えた頑張りが今、大きくなって返ってきたのだった。

 ここは決してゴールではなく親孝行するためのスタート地点なんだってことは分かってる。でも、今は手放しで喜びたかった。身体をくの字に折って両手を握りガッツポーズをした後に大きく空に向かってジャンプした。今なら何でも出来そうな気がした。あの青く広がった空だって掴めるんじゃないかって思える程に――。

 地面に着地すると踵を返し全力で足を大きく踏み出した。もうここに居る理由はなかった。とにかく一番に伝えたい人が二人居る。

 一人は母さんだ。結局守るなんて言っても守られていたのは自分だったし、高校を出てすぐに働きに出るつもりだったのに、『逃げるんじゃない』って言ってくれた。決して生活は楽じゃなかったのに。携帯なんて持つ余裕はなかったから、今は姿を消しつつある緑の電話ボックスを探し回った。近くの公衆電話は行列が出来ていたので、もっと遠くまで走った。暦上では春だとはいえ、まだコートが手放せない位風は冷たかったが、公衆電話に着く頃には額に汗の玉が滲んでいた。

 電話の向こうでお母さんは涙ぐんでいて『良かった、良かった』と繰り返すばかりだった。本当に嬉しいときには、何も言葉なんて出てこないのかもしれないな。

 受話器を置くと、俺は更に走った。電車に飛び乗り、バスを待つ程気持ちのゆとりもなかったので、数キロの距離をひた走った。

 辿り着いた所は父さんが眠る場所だ。そう、二人目に伝えたかったのは父さんだった。 受験票を掲げ「受かったよ」ってただそれだけ言うと、何だか微笑んでいるように太陽が反射してお墓が光る。その眩しさに思わず目を瞑ってしまった。





 首元に結び目を作ってそれを締め上げると、鏡の前で形を整える。

 うん、今日も良い感じだ。

 リビングのソファに置いていたジャケットを拾い上げ袖を通してから、黒い鞄を持ち上げる。今日は銀行に勤めてから初めて一人で融資を取りまとめる日だった。緊張からか手に汗がじんわりと滲む。


「行ってきます」小さな声で奥の部屋にいる母に呟いた。


 ここ数日、母さんは体調を崩していた。今も奥の部屋で寝息を立てて寝ているはずだ。病院に行った方がいいって言っても、大丈夫だからって言って聞かない。せめて布団で横になってゆっくり休んでてと無理やり仕事も休ませていた。

 私も大学を出て銀行員になり、やっとバイトなんかじゃなくきちんと纏まった給料を貰えるようになったので、もう今までのように母さんに無理をさせる必要もない。

 まだ、銀行員としては新米ではあるが、例え母さんが今の仕事を辞めたって食べていけるくらいは貰えているのだ。だからもっとちゃんと休息を取ってもらいたい。

 そして元気になったら父さんに誓った約束、親孝行をするんだって気持ちだった。

 会社に着くと契約書類に不備がないかをチェックする。もう何度確認したか分からないが、確認しすぎて困ることはないはずだ。

――その時名前を呼ばれて顔を上げる。先輩が、受話器を持ったまま何かを言っている。その表情はどこか強ばっていた。何か怒られるようなことをしたんだろうかと、考えてみたが思い当たることはなかった。

 先輩は何かを叫んでいた。

 えっ、――母さんが病院に運ばれた。

 私は席を勢いよく立ち上がると、先輩から受話器を取り上げ耳に当てる。

 

「もしもし、はい――分かりました…… すぐに行きます」


 受話器を置いた瞬間に走り出していた。今日は大事な契約の日。だから何だってんだ、母さんがいてくれたからこその今の自分があるんじゃないか。

 駄目だ、駄目だ。母さん…… 置いてかないで、これからなんだ。これからやっと父さんとの約束が果たせるって時なんだから。だから……

 勢いよく観音開きの扉を開くとそこには影だけが広がっていた。一寸先も暗闇で見えないほどに――。





 ピーッピーッ――。

 パレットに爪を突き刺し荷物を持ち上げると、出荷トラックの荷台に次々と積み込んでいく。最初は時間が掛かって怒られることも多かったが、フォークリフトの運転も慣れてきた最近はそんなことも無くなってきていた。額に汗が滲んで一つ顎に流れる。

 あの日、母さんが亡くなってから、今の仕事に就くまでは気分が沈む日が多くなっていた。当然当時努めていた銀行の仕事にも影響が出る。

 最初は小さなミスが増えて多少周りに迷惑を掛けていた位だったので、周囲も状況が状況だけにそんなに強く言うこともなく見逃してくれていた。しかし、最後のあれは、さすがに目を瞑ることは出来なかったようだ。当然だ、銀行に一千万以上の損害を与えてしまったのだから。

 作成した大口の取引先の契約書面に間違いがあったのだ。書面上ではたった一つの間違い。だが致命的な間違いだった。0が一つ多かったという銀行員として絶対にしてはならないものである。それにより与えた損害。顧客からの信用を失ってしまったのである。その時の金銭的損失は、一千数百万だったのだが、長い目で見ると数億とも数百億とも言われた。いくら不幸があったとは言え、もう見逃せるレベルではない。結局その場に居続けることが出来ないほどに仕事を減らされ、無言の圧力で辞職へと追いやられたのだ。

 実際、母さんに楽をしてもらいたいがために選んだ職だったので、母さんが亡くなったその後はもう気力も何も湧いてこなかった。苛めにあったところで、別にいいやって投げやりな部分もあったんだと思う。

 すぐに辞める決心をして辞表を提出した。

 それからはなるべく人と接触しない職業を探した。そんな時、今の仕事に出会ったのだ。小さな会社で社員全員が身内みたいな会社。そこの出荷担当になり荷物をトラックに積み込む日々だった。ここにくる運転手はいつも決まった顔で、人間関係にそこまでの煩わしさがないのが気に入っていた。しかも、トラックの運転手は口は悪いが人情が厚く、一度仲良くなるとちょっとしたことでも気に掛けてくれた。銀行のような過当競争もなく、給料はかなり下がってしまったが、責任も大きくないので気持ちも楽だった。

 そこで入社当初から気に掛けてくれていた事務の女性がいた。同い年だったというのもあるのだろうが、優しく接してくれて強ばった心が彼女のお陰で解れていく。

 いつしか彼女に恋をしていた。彼女のことを考えるだけで胸がぎゅっと苦しくなり、目を閉じるといつも微笑む姿が浮かんでいた。

 キッカケは忘れたがどうにかして食事に誘い、そして夜景を見ている時に告白をした。

 手が震え、それと一緒に声も震えているのが自分でも分かった。

 

「うん。私も好きだよ」


 聞いた瞬間に喜びで心臓が張り裂けたように、目の前が真っ暗になり力が抜けていった。





 おぎゃー、おぎゃー。

 家族が増えた。結婚して妻と愛を育んだ結晶である。

 今その赤ん坊を抱いているのだが、火が付いたように泣きじゃくっている。妻の腕に抱かれていた時はあんなに幸せそうな、天使のような笑顔だったのにだ。

 私はテンパっていて、身体を上下にしたり、左右に揺らしたりして何とか泣き止んでもらおうと必死である。今までしたことのないような変顔もしてみたり、舌を出してみたり、いないないばぁ、なんてとにかく手段は選んでいる時ではなかった。

 父親なのに、こんなに頑張ってるのに――。

 悲しくて、悔しくて、とにかく切なかった。

 泣き止む気配のない赤ん坊の背中を優しくぽんぽんと叩きながら、ふと横目に妻の方を見て見ると、満面の笑顔で笑っていた。

 物凄く必死な私を見て、それが可笑しかったのだろう。声は出していなかったが、肩を震わせていた。

 「代わろうか」妻は両腕を広げ顔を傾けて笑っている。断る理由も見つかるわけもなくしょんぼりしながら、妻の腕に赤ん坊を乗せる。

 私が手を離し、三十秒もしない内になんと笑い出したではないか。

 切ないを通り越して嫉妬に変わった瞬間だった。

 

「よーし、見てろよ」


 妻の正面に近付き、赤ん坊の顔を覗き込む。両手で自分の顔を覆うと目の前が真っ暗になる。そして、お決まりのフレーズを唱えた。

 いない、いない――。





 街の空気で汚れた肺を洗ってくれるような磯の香りが鼻を通って全身に巡る。

 手を広げ胸を張り、大きく深呼吸をした。大勢の家族連れが楽しそうに潮干狩りをしている。私達もその内の一家族だった。

 妻と小学一年生になった兄、そして三歳半になる妹を連れて車で一時間半の運転をしたので身体が強ばっていた。

 兄と妹は車でもあんなにはしゃいでいたのに、海に着くなりバケツとプラスチックで出来た熊手を持って兄と妹は走り出して行った。それを追うように妻が続く。

 

「運転で疲れたでしょうし、パパはゆっくりしてていいよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えてパラソルを砂浜に突き刺しレジャーシートの上に腰を下ろした。妻と子供達を遠目に眺める。


 妻は兄妹の自立心を育てるためか、少し離れて見守っているようだ。

 兄は熊手で地面を掘る。そうしてアサリを掻き出してはバケツに入れていっていた。思っていたより上手なようで、私は感心する。一方の妹はと言うと、兄が掘った後を付いてまわり、もういるはずのない場所を手で掘り返していた。

 最初は楽しそうに見えていたのだが、妹の様子が少しおかしくなっていく。最初はあんなにステップを踏むように兄の後を付いて行っていたのに、いつの間にかとぼとぼ、ちょこんといった感じの動きをしていた。

 それを見ていて私は「ああ、そうか」と一人呟いた。

 きっと妹は自分が掘ったところからアサリが出てこない、採れないことに機嫌を損ねているのだろう。そうこうしているうちに、妹は座り込んで動かなくなった。

 兄はそんな妹に気づかず、次から次に掘り進めていた。

 そんな兄妹を妻は、まだじっと見守っているだけだった。が、私は妹が可哀想になりそろそろ行くかっと腰を上げ妻の方に歩き出しはじめた。。

 その時、妹の不機嫌に気づいたのだろうか、兄が妹の方を見て妹を呼んでいるようだった。しかし妹は動かない。それを見ながら、私は妻の元へと歩んでいく。

 何度かそんなやり取りがあった後、兄は徐に妹に近付くと、バケツを妹に差し出していた。すると突然妹の顔がぱっと輝いて、そしてバケツに吸い込まれるんじゃないかってほど顔を近づけて覗き込みだした。兄は自分の戦利品に喜ぶ妹を見て何だか胸を張って満足そうにしている。

 妻の所に着いた私達は顔を見合わせると、目を見つめてから笑った。

 すると急に妻が私の目に目隠しをするように掌を突き出してきて、そして唇にそっとキスをしてきた。視界は遮られていたが、その感触は温かかった。





 だんっ。テーブルにグラスを勢いよく置いた。中に入っていた透明な液体が、飛び散る。子供達が反抗期に入ると、教育のことで妻と喧嘩をすることが増えていった。

 特にお酒が入ると、粗野な振る舞いが増えてしまいまともな話し合いとはかけ離れていく。分かってはいるのだが、仕事が終わるとどうしても呑みたくなってしまうのだ。そして、妻もそれを理解してくれているからか、食卓にそっとお酒を出してくれる。

 なのにアルコールに負けこんな態度を取ってしまうことを何度も反省したはずなのに、また同じ過ちを繰り返してしまう。

 私は駄目な人間なのかもしれない。

 何度もお酒を断とうとしたことはあるのだが、夜になるとその誘惑に勝てなかった。そして我慢していると、無性に落ち着かなくなってしまう。

 こんな私に不満はあるだろうし、最後まで付き合ってくれる妻に悪いなという気持ちはいつも持っているのだが、呑みたいという衝動には勝てなかった。

 反抗期とは言え、子供達が自分からどんどん離れていくのが寂しいのだ。その寂しさを妻に当たり散らす日々だった。

 週末で次の日仕事が休みだと思うと、お酒の量がどんどん増える。焼酎の水割りを好んで呑んでいたのだが、その酒と水の割合が二、八から四、六へ。そして半々となり、記憶がなくなる寸前には最初と割合が逆転して八、二になっているのだ。

 どんどん呂律が回らなくなり、いつもその場に倒れるように眠ってしまう。

 酒を呑んでいつの間にか寝てしまうのは、睡眠ではなく実は気絶らしいと、誰かが言っていた。そう考えると恐ろしいことだ。

 そんな日はいつもその場所で朝を迎える。目が覚めると、身体には毛布が掛かっていて、テーブルの上には水が置いてあった。台所からは朝食の準備をする音が軽快に聞こえてくる。味噌の良い匂いと炊飯器から出る甘い香りが混ざり、通常なら心地よいものなのだろうが、今の私は拒絶反応を示してしまう。

 コップを手に取り、焼けた胸に水を一気に流し込む。あいててっ、頭が痛い。二日酔いだ。ああ、またやってしまった。こうなると酒はもう辞めようと、いつもその時には思うのだが、その苦しさはやがて消えるため、同じことをまた繰り返すのだ。

 ああ、気分が悪い――。目を閉じてもぐるぐると視界が回っているのが分かる。こんな日は何もしないまま休日が終わってしまうことも多かった。そしていつも妻に対して思う。

 不甲斐ない旦那でごめんな。そして、いつもありがとう――。

 口には出さない素直な思いが、ぐるぐる回る暗闇の中に混ざり合っていく。





 何だか家から色彩が減ったような気がする。自分が客観的に見ていると思っていたものの殆どがどうやら主観的なものだったらしい。

 そう気づいたのは息子と娘がこの家から巣立って行って暫くしてからだった。親離れしていくことは、寂しくも喜ばしいことだと思っていたはずなのに、ふとしたときに心にぽっかりと穴が開いたように感じてしまう。結局喜んでいるのは振りだったんだと、本心ではなかったのだと気づいてしまった。

 妻とは相変わらず仲はいいと思っている。しかし、子供達のことで喧嘩したりしていたことが懐かしく思える程に、メリハリがなくなってもいる。これはこれで幸せなはずなのに物足りなくも感じていた。元々お喋りなタイプでなかった私は、家での会話がどんどん減ってきていることに憤っていた。というのも、何を話題に話していいのかが分からないのだ。

 テレビを見ていて妻が話しかけてくれていても「あー、うん」なんて気のない返事をしてしまい会話が途切れてしまうこともしばしばあった。

 喋ろう喋ろうと力めば力むほどに空回りして、論点がずれてしまい『えっ』と、聞き返されることが殆どだ。

 どうしようと悩めば悩むほどに会話がなくなっていくのが現状だった。私は別に会話がなくても傍に居てくれるだけで、リラックスできるのだが、妻はどう思っているのかが分からないので、不安になってしまう。

 昨今では子供が巣立つと離婚する、熟年離婚が流行っているとも聞いたことがある。自分もそういう話を切り出されてもおかしくないんじゃないかと考えることもあったりして、それが余計に会話のプレッシャーにもなっていたのかもしれない。

 時々『顔が強ばってますよ』なんて言われるほどだったけど、妻はそういうとき笑顔で接してくれているのだから思い過ごしなのかもしれない。

 私は子供を通して話題を作っていたんだって今更ながら気づかされた。妻を子供達の母親として見ていただけで、女性として見ていなかったのだろうか。

 そんなはずはない。今でも妻を愛しているし、生涯を共にしたい。口にはだせないけれど、本音はこれだ。

 私は今日も、妻との会話がないままそっと、目を瞑り溜息を小さく吐き出した。





「おめでとう」


 赤い頭巾とちゃんちゃんこを着て妻と並んで座っている。まだまだ先だと思っていたこの日がやってきた。もっとよぼよぼのおじいちゃんになっているようなイメージだっただけに、実感が余り湧いてこなかったが、人生の中で何度目かの節目を迎え、一段落ついたんだなって思うと肩から急に力が抜けたような気がしていた。

 もう半世紀もとうに過ぎてしまった。時代は移り変わる。儂の知っていることなんてもう既に時代遅れなんだろうなと思うことも沢山あった。もうそれに流される必要も適応する気力も随分と薄れてきている。

 横には同じように歳を取った妻。そしてテーブルを囲む息子と娘とその家族達。孫も小学生から幼稚園まで五人に恵まれた。それを見ているときちんとバトンを渡せたんだなと柄にもなく感慨深くもなってしまう。

 一番年下である幼稚園に通う娘の長男が、近付いてきて何やらもじもじしながら両手を後に隠していた。何か隠し持っているようだが、ちらほらと見え隠れしていて、正に頭隠して尻隠さずの状態だった。

 

「どうしたの?」妻が訊ねると、肩をくねらせながらその手を前に持ってくる。


「おじいちゃん、おばあちゃん。はいこれ…… おめでとう」


 そう言って紙袋を差し出す。

 

「ありがとう」


 妻と声を揃えてお礼を言うと『早く開けて開けて』と、小学生の二人が嬉しそうにはしゃいでいた。

 軽く一礼してからその中身を開けてみる。包みを取ると革の赤い財布が入っていた。妻の方は赤いバッグだったようだ。お布施を頂くときのようにその財布を掲げると、場がわっとなって拍手が上がる。誰もが笑っていたのに儂と妻は涙を流していた。

 かつての父親の威厳なんてもう無くなってしまったかのように目から出る液体は止まらなかった。

 

「ありがとう。ありがとう」


 儂と妻は何度も何度も頭を下げてはその涙を拭う。  

 涙で目の前が見えなくなって目頭を押さえて涙を止めようとするが上手くいかない。

 何も見えかったけど、耳には拍手と喜びの声だけがいつまでも残っていた。





太陽が地面をさんさんと照りつけ風が頬を撫でいく。

 最近は縁側でぼーっと過ごすことが多くなってきていた。隣には皺くちゃになった妻が座っている。その皺の深さを見ると、長い年月を感じてしまう。自分の手の甲を見て見ると、妻に負けないくらい皺だらけだ。ふっと笑いが込み上げてくる。数えてみると生まれてから数十年、自分にはまだまだ縁遠いと思っていたよぼよぼの年寄りに今自分がなっていた。長いようでとても短かった気がする。若い頃はまだまだ先は長いと思っていたのに、実際に通り過ぎてみるとあっという間だったような気さえしてくるのだ。

 この年になってようやく気づいたのだが、人間とは何と欲深い生き物だろう。持っている時には何とも無駄に浪費しているのに、それを失った瞬間無くしたものの大きさに驚いているのだ。本当は昔から気づいていたことなのだろうが、ようやく身体に溶け込み理解するようになったのかもしれない。失ったものの数が今どれくらいあるのかすら、数えることも出来ないが、知ってしまえば今でも恐らく卒倒してしまうのではないだろうか。

 そんなことを考えながら隣に座る妻の方を見て見ると、何年も前からそこにあったんじゃないかと思えるほどに先程と同じ形を保っていた。こうして妻と並んで座っていても特に話をしないことも多かったし、する話といっても昔を懐かしむ話ばかりである。若いときには未来を語っていたものだったが、この年になると過去を懐かしむだけである。

 でも、今ではそんな無意味に思える日々が必要なのだ。

 人生はエンジンみたいなものなのかもしれない。

 赤ちゃんの時から慣らし運転が始まり、幼少期から青年期にかけて徐々に回転数を上げていき、ピークに達する頃に社会人となって全力でそれを維持していく。そして、それを過ぎるとまた回転数が年々落ちていくのだ。現在ではもうアクセルを踏まずにただエンジンが回っているだけの状態だろう。いつ止まってもおかしくはないが、そう簡単には止まらないのかもしれない。そればっかりは誰にも分からないものだ。

 

「ねえ、あなた」


 隣の妻が不意に喋りかけてくる。うん、と頷いてから妻の方に顔を向けると、菩薩様のような笑顔をしていた。ああ、人は達観するとここまで素晴らしい顔が出来るのだ。

 

「あの話を覚えていますか」


 こうしていつもの昔話が始まる。儂は目を瞑り目の前の景色に幕を下ろすと、その頃の景色を浮かべようと記憶の引き出しを探った。





 次に目を開けるとそこは昔の思い出の光景ではなく、無味乾燥な白色をした天井だった。左手に熱を感じるのでそちらに顔を向けると、相変わらず皺くちゃな妻と子供達と孫の顔もある。妻は強く儂の手を握って微笑んでいる。ああ、あったかいなぁ。

 もう一度天井を見上げるとふと思う。

 今見ていたのは全て夢だったのか。しかし、全て自分が体験したものだった。母のお腹にいた頃から、ここまでの記憶を早回しで見ていたのだろう。

 これが走馬灯というものなのかもしれないな。走馬灯は死ぬ寸前に見るというが、儂はこうして目が覚めた。しかし心臓が力を無くしているのは分かる。

 時間がない――。

 そう思った瞬間に儂はすでに途切れ途切れではあるが口を開いていた。

 

「お前達…… にか…… 囲まれて…… 人生を全うできて…… わ、儂は本当に…… 本当に幸せだった…… ありがとう――」


 そう言い終わると、息が漏れ身体が弛緩するのが分かる。もう身体に力が入らなかったが不思議と苦しさはなかった。恐らく顔は微笑んでいるだろう。

 そっか、これを最後に伝えるために今まで夢を観て、そして目が覚めたのか。

 やっと分かったよ。なぜ自分が生まれ沢山の困難を乗り越える必要があったのかが。

 今まで、いや今の今まで自分の人生なんて平凡で詰まらないものだって思ってた。

 なのにこうして振り返ってみるとそうではなかったのだ。

 

『なあんだ、幸せだったんだ』


 そう思えた瞬間に苦しかったものも悲しかったものもそれ以外のものも――。

 全てが宝石のように輝きだした。

――人生で唯一持って逝ける宝石。

 それをやっと手に入れた。


――そう儂は今日旅立ったのだ。


――輝くそれ(記憶)だけを握って――

  

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